旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]13・・・崇神天皇陵へ

 柳本

 

 山の辺の道の南コースは、この先の柳本辺りが中間点。そこには、大和王権の初代の王、崇神(すじん)天皇の陵(みささぎ)が残っています。付近には、数々の立派な古墳が築かれていて、古代の権力の重要な土地だったことが分かります。

 この辺り、すぐ西側には、JR桜井線(別名、万葉まほろば線)が通っています。最寄りの駅は天理駅から2駅南の柳本駅。この駅の近くにも、美しい容姿を誇る、黒塚古墳が見られます。

 余談ながら、松本清張が、古代飛鳥の石造物の謎に迫ったミステリー『火の路』にも、この辺りの古墳の様子が綴られていますので、少し、紹介したいと思います。

 「櫛山古墳は崇神陵の背後に連なる一連の丘陵上にある。この二つの古墳は南北に小さな丘陵を控え、その背後には急斜面の山が重なり合っている。そこから西にむかって派生する支脈のうち、南方では景行天皇陵があり、また、北の方には継体天皇の皇后手白香(たしらか)皇女の陵がある」

 

 

 念仏寺

 古代の道は、丘陵地を緩やかに下りながら、自然と、念仏寺の墓地の中に入ります。幾柱もの墓石が建ち並ぶ場所ですが、どこか、清々しさも感じます。

 この地に安置された魂は、さぞ穏やかな大和の景色を眺めながら、悠久の時の流れを見届けているのでしょう。

 

※念仏寺の裏斜面に広がる墓地。山の辺の道はその中を通っています。

 墓地の坂を下った先には、念仏寺の山門です。立派な塀と門の奥には、美しく整えられた境内が見えました。私たちは、山門前で手を合わせ、門前から真っ直ぐ延びる古代の道を辿ります。

 

 

※念仏寺の山門。

 

 念仏寺門前の角に置かれた案内表示は、この先、長岳寺まで1.1kmを示しています。

 

※山の辺の路から長岳寺を振り返ります。

 大和神社御旅所(おおやまとじんじゃ・おたびしょ)

 念仏寺を後にして、真っ直ぐ南に向かって行くと、その先に、大和神社の御旅所がありました。

 大和神社の境内は、前回にも触れたように、萱生(かよう)の環濠集落の、西側に位置しています。由緒ある神社であり、御旅所の標柱にも、「最古の御社」と書かれています。

 

大和神社御旅所。

 

 ちなみに、御旅所とは、「神社の祭礼において神様が休息する場所のこと」(ホームメイト・リサーチ)で、神輿などに参加された方ならば、およそのイメージはお持ちだと思います。一般には、神輿を担いで町中を練り歩き、御旅所で休憩して、元の神社に戻るのが、お祭りの行程です。

 

 ポケットパーク

 道は再び、農地の中の丘陵地を横切ります。途中には、農地の中に張り出した、木造の休憩所も置かれています。

 粋な計らいの休憩所。遠方には、生駒の山並みが見渡せます。

 

※道沿いに設けられた木造の休憩スペース。

 

 二上山(ふたかみやま)

 天理市中山町の集落を通過しながら、道は、南へと向かいます。途中、わずかではありますが、西方向に向かった時に、正面の遥か向こうに、二上山の麗しい姿が見えました。

 雄岳(向かって右)と雌岳(向かって左)が、寄り添うように並ぶ山。古代の人は、日が沈む山として、畏敬の念を持ちながら、この山々を崇めていたと言うことです。

 

※道の正面奥に見える高低の見栄を有する山が二上山

 

 柳本町

 丘陵地の農地の道を南に向かうと、その先で、天理市柳本の集落に入ります。そこは、小高い山の裾。雑木林も点在し、道はジグザグに進みます。

 やがて、長岳寺まで0.4kmの表示です。細く続く坂道は、弘法大師開祖とされる、古刹の門前に向かいます。

 

※長岳寺に向かう道。

 

 道はこの後、長岳寺の入口に当たります。ただ、ここでは、古刹へとは向かわずに、境内前で右に折れ、長岳寺の駐車場の方向へ。

 

※道は長岳寺の入口で右折です。

 

 しばらくすると、左には、長岳寺の駐車場へと向かう道。そして、その分岐点を通り過ぎると、道の先は視界が開け、整備された駐車場やお店などが見えました。

 この辺り、霊園などが点在する他、ハイキングで訪れる人も多いのか、美しく整った感じのところです。道案内や山の辺の道の説明板など、観光への対応にもぬかりなどはありません。

 

 一区切り

 古代の道は、この先、角地を左折して、崇神天皇陵へと向かうのですが、南コースの中間点。ここで、この日の歩き旅を終了です。

 私たちは、崇神天皇陵とは反対の右方向へと進路をとって、およそ1キロ西にある、JR柳本駅へと向かいます。

 

崇神天皇陵へと向かい道。

 

 この日の昼近く、天理の駅から歩き始めて3時間。石上神宮から夜都伎神社を経由して、萱生の環濠集落へ。そして、目前には、崇神天皇陵が迫ります。

 この先の行程は、翌日に残しておいて、私たちは、宿泊所へと向かいます。

 

 途中、左奥には、鬱蒼と木々が茂る小高い丘が見えました。おそらくそれが、崇神天皇陵なのでしょう。

 古代史に卓越した慧眼を持つ、作家の黒岩重吾氏が、『古代浪漫紀行』の中において、「『日本書紀』では、・・・崇神天皇が初めて日本の国を治めた天皇であると記しています。」という一文は、厳然とした歴史の重みを伝えています。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]12・・・環濠集落

 ハイキングコース

 

 この先、山の辺の道の道筋は、絶好のハイキングコース区間を迎えます。東の笠置山地から西の大和盆地へ下る、緩やかな丘陵地。広々とした坂の途中を横切るように道の流れは続きます。

 清々しい空気が流れ、果樹園や農地が広がる空間は、心地良さ満点です。こんな斜面に点在する古くからの集落は、かつて、環濠で守られていた特異な姿を有しています。時の争いから集落を守り抜くため、濠を築く発想は、日本の各地で見られるものの、古代大和の中心地にほど近い、このような場所に築かれたのは、特別な理由があったのかと、想像を膨らませてしまいます。

 この地に環濠が築かれたのは、室町の混乱期と言われていますが、もしかして古代から、この辺りには集落が点在していたのかも知れません。しかも、それらの集落は、ある程度力を持った豪族の支配下にあったとすれば、地域を守る術数を十分に兼ね備えていたのでしょう。丘陵地でありながら、濠を築き、集落を堅固に固める方法は、悠久の歴史を礎にして実現した、と、言えなくもありません。

 古代の道は、こうした環濠集落の傍を通って、大和の王権が築かれた中心地へと向かいます。

 

 

 乙木

 古代の道は、乙木の集落の軒下を、身を狭くして通っています。一見、どこにでもあるような、集落の小径です。昭和以前の時代には、子どもたちが小径を駆け、戯れ合う光景がそこここで見られたのかも知れません。

 悠久の歴史を背負った山の辺の道。今は、このような懐かしい家並みの中を通っています。

 

※乙木の集落の軒下を通る山の辺の道。

 集落のひとつの辻には、山の辺の道の案内表示。竹之内環濠集落まで、0.3Kmと書かれています。

 

※主要な辻に設けられている案内表示。

 

 竹之内

 乙木の集落を抜け出ると、一旦農地が開けます。その場所の左奥に見えるのが、竹之内環濠集落です。

 この機に、環濠集落を見てみたいとの思いもあって、少しためらってはみたものの、左に広がる坂道を上り進まなければなりません。道は、この先、もう一つの環濠集落を通るため、残念ながら、竹之内は見送りです。

 少し遠方から、集落の甍の波を見渡しながら、古代の道を歩きます。

 

 農地にあった標識は、衾田陵(ふすまだりょう)1.7kmの表示です。この先、継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵(みささぎ)があるようです。継体は、大和王権の時代から、少し下ることになりますが、聖徳太子などに繋がっている重要な位置づけの天皇です。

 

※竹之内環濠集落近くの農地を通る山の辺の道。

 

 のどかな道

 古代の道は、丘陵地の農地の中を進みます。心地よい初夏の空気に覆われて、清々しい気持ちが広がります。

 まさに、ハイキングに最適の大和路の散策です。

 

※のどかな丘陵地を南進します。

 

 萱生町(かようちょう)

 道は、天理市萱生町の領域に入ります。立派な民家のすぐ傍をすり抜けて、萱生の集落へと向かいます。

 

※道は天理市萱生町に入ります。

 

 道は、萱生町の集落で、変則の四辻を迎えます。道路わきの標識は、衾田陵まで0.4キロ、西向きの斜面を下ると、大和神社バス停で、その距離は0.5kmを示しています。

 大和神社(おおやまとじんじゃ)は、JR桜井線の長柄駅のすぐ近く。今回、立ち寄りはしませんが、古代大和に遡る、由緒ある神社です。

 

萱生町の四辻。

 

 環濠集落

 道はこの先で、萱生町の環濠集落を迎えます。竹之内の集落は、見ることは無かったものの、萱生町と同様に環濠が残されているようです。

 環濠は、まさに濠のよう。見方によっては、池のようにも見えますが、満々と水を湛えて、集落に接しています。現状は、下の写真のようですが、かつては集落を、こうした濠が取り巻いていたのでしょう。

 環濠と石垣が配された立派な構えの木造家屋。見るからに堅固ではあるものの、地域の人々の結束感も伝わります。奥深い、大和の風景を味わいながら、環濠の集落を進みます。

 

萱生町の環濠集落。

 

 濠の周りをめぐっていると、「西山塚古墳」と記された説明板がありました。これを見ると、濠向かいの小高い丘は、古墳時代後期の古墳。大型の前方後円墳だということです。

 詳しいことは不明とのことですが、きっと、古代の権力者のものでしょう。環濠の濠自体、古墳の濠と兼ねているようで、室町の時代にできたと言われている環濠の集落も、やはり、それ以前から、濠との関わりがあったのかも知れません。

 

萱生町(かようちょう)内にある西塚古墳。

 

 中山町

 萱生町の集落を出た後は、ほどなく、次の集落に入ります。幅の狭い道端に、石灯籠や石碑なども置かれています。

 この辺り、天理市中山町になるようで、集落の縁を沿うように、古代の道は続いています。

 

※中山町を通過する山の辺の道。

 

 やがて、道は下り坂に変わります。緩やかな傾斜のところに、柿の木が植えられて、その先は、墓地の様子です。

 遠方は、大和の盆地が見下ろせるほど、高い位置にいることが分かります。

 道はこの先、念仏寺を通過して、古代大和の初代の王、崇神天皇の陵(みささぎ)のある、柳本へと向かいます。

 

※念仏寺に近づく古道。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]11・・・夜都伎神社へ

 山道

 

 古代の道は、この先、丘陵地の山道へと変わります。それほど深い山ではないものの、辺りは木々が生い茂り、民家もほとんどないところ。どうして、このような地形のところを通ることになったのか、不思議と言う他ありません。

 古代には、丘の麓は、ぬかるみか笹が茂る場所だったのか、或いは、豊穣とした農地だったのか。道を築くには、適していなかったのかも知れません。そのために、自然と丘陵地が選ばれた、というのが一つの見方なのでしょう。

 そして、もう一つ考えられる理由としては、神聖な石上神宮と、有力な豪族の地を結ぶため。この先には、幾つかの環濠集落が控えています。主要な地点を最短で結ぶとすれば、自ずと丘陵地を縦断する道筋が選択されたと考えるのが自然なことなのかも知れません。

 この先、大和の東部に広がる丘を縦断しながら進みます。

 

 

 果樹園

 内山永久寺跡を出た後は、道は、一気に山道に変わります。草が茂り、若葉が萌える小高い丘を横切るように進んで行く感覚です。

 丘陵地を北から南へと縦断すると、いずれまた、民家が現れ、右手には大和盆地の風景が広がります。

 丘陵地の斜面には、柿やみかんの果樹が植えられて、そこには、燦々と初夏の光が注いでいます。

 

※丘陵地を進む山の辺の道。

 森の中

 道は、やがて、森の中に入ります。落ち葉が覆う土道は、まさしく、山の中を進む道。古代の道も、このような状態だったのか。人の手があまり加わっていないような、寂しい場所を歩きます。

 

※山の中を進む道。

 

 鬱蒼とした山道は、ところどころで、途切れる箇所もありますが、深い緑はいつまでも続きます。

 

※一旦光が注いでも、また、森の中に入ります。

 

 森の道は、少し進むと、やや道幅が広がったような気がします。この辺り、足元は、石畳が敷かれています。いつの頃に築かれたのか、知る由はないものの、街道の趣が感じられるところです。

 

※石畳の道も残っています。

 

 園原町

 石畳の坂道を下って行くと、ひとつの集落に行き着きます。そこは、天理市の園原町と呼ばれるところ。ようやく、民家が見られる地域へと足を踏み入れた感じです。

 道端の案内表示は、この次の目標地点の夜都伎神社(やつぎじんじゃ)まで、あと1キロを示しています。

 

※園原町の集落。

 

 天理観光農園

 残念ながら、写真には収められてはいませんが、園原の集落には、「天理観光農園」という、小さなお店がありました。中には入っていないため、どのような施設なのか、お伝えはできないものの、古道歩きの休憩地として、絶好の場所でした。

 確か、トイレもあったように思います。私たちは、この施設の前のベンチを借りて、しばしの休憩をすることに。水分補給と小腹を満たし、再び先を目指します。

 

 丘陵地

 園原では、この先、西向きに進路を変えて広々とした丘陵地を下ります。目の前は、大和の盆地。そして、生駒の山々も望めます。

 

※園原町の丘陵地を西向きに下ります。

 

 緩やかな丘陵地には、広い区画の棚田のような水田が連なります。そして、その先で、道は左に進路を変えて、再び南へと向かいます。

 この辺り、右方の斜面には、みかんのような果樹畑。明るい光をふんだんに浴び、心地よさそうに茂っています。

 

※水田と果樹園の中を南へと向かいます。

 丘陵地を横切る道は、崖地の際も通ります。農地から次の農地に向かう間、左から道に迫る尾根の先を周るのです。

 

※丘陵地の尾根の先端をすり抜けます。

 

 夜都伎神社(やつぎじんじゃ)

 丘陵地の尾根を過ぎると、その先に、天理市乙木町の集落が現れます。山の裾野の丘陵地。緑に覆われるようにして、木造の落ち着いた家々が並んでいます。

 そして、この集落の入口に、厳かな雰囲気の、神社の鳥居が見えました。

 

天理市乙木町の集落。左の鳥居が夜都伎神社。

 鳥居の傍に近づくと、下のような、立派な案内板がありました。そこに書かれた神社の縁起を少し紹介したいと思います。

 

 「天理市乙木町の北方、集落からやや離れた宮山に鎮座し、俗に春日神社といい春日四伸を祀る。乙木にはもと夜都伎神社と春日神社の二社があったが、夜都伎神社の社地を隣町の竹之内の三間塚池と交換して春日神社一社とし社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。」

 

 どうも、この記事だけでは、理解できない内容で、何とも説明できません。名前からは、かなりの由緒ある神社だと思うのですが、古代とのつながりは不明です。

 春日大社と関連があるとしても、遡れるのは奈良時代まで。少し物足りない思いを抱いて、先の道を急ぎます。

 

※夜都伎神社の説明板。

 

 振り返って見たところ、鳥居の先は鬱蒼とした参道です。この先に、本殿などがあるようですが、そこへは、立ち寄ることはなく、乙木の集落へと向かいます。

 

※夜都伎神社の鳥居と参道。

 

 乙木町

 山の辺の道は、この先で、乙木町の集落に入ります。道筋は、古代から集落内を通っていたのか、或いは、道の傍に集落が張り付いたのか。今ではほとんど、旧来の集落内の小径のような状態です。

 外部からの観光客の姿など、似つかわしくないような、そんな集落の小径に沿って歩きます。

 

※乙木町内を通る山の辺の道。

 

 長閑な風が流れる中に、軒を連ねる木造民家。古代の道は、この先で、幾つもの歴史ある集落を通ります。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]10・・・石上神宮から内山永久寺跡へ

 南コース

 

 石上神宮(いそのかみじんぐう)の参詣を終えた後、山の辺の道は、南コースに入ります。これまでの北コースでも、幾つもの寺社や古代史跡に立ち寄りながら歩き進めてきましたが、この先の南コースは、さらに趣が深まります。これまでから触れてきた、古代大和の王権が確立された纏向(まきむく)の地。そして、その周辺の三輪山の麓の地域を巡るように歩きます。道筋は、相変わらず複雑ですが、要所要所に道案内が置かれているため、行く先を誤ることはありません。しかも、休日には多くの人が散策し、人気のハイキングコースでもあるのです。

 ハイカーのグループに出合いながら、或いは、足早の人に追い抜かれつつ、初夏の香りが漂う古里、”まほろば”の地を巡ります。

 

※山の辺の道南コースの道筋(石上神宮から長柄駅付近まで)(山の辺の道美化促進協議会発行地図より)

 

 

 鶏のいる境内

 石上神宮の参詣を終えた後、境内の途中から南に向かう、山の辺の道に入ります。この分岐点の辺りには、たくさんの鶏の姿が見られます。艶やかなその容姿。神社で見るのは珍しい、と思いきや、どうもいわれがあるようです。

 

※境内の途中に、南に向かう道があります。これが山の辺の道です。

 境内に掲示された「なぜ鶏さんがいる」と表示された資料には、次のように書かれています。

 

 「神代の昔、天の岩戸開きの神話に、常世の長鳴き鳥を鳴かせて闇を払い夜明けを告げ、天の岩戸を開いたという神話により、鶏は神道と大変関係の深い吉祥の霊鳥とされています。この謂れにより当宮には鶏を境内に放し御神鶏として大切にしております。ちなみに、鳥居の語源は天の岩戸開きの折、長鳴き鳥を止めた(鳥の止まり木)→(鳥の居る木)→(鳥居)という説があります。」

 

 ”鳥居”の語源については、これまで、考えたこともなかったことで、この記事を読んだとき、(真偽は別として)、目からうろこの状態となりました。

 

※境内の掲示板。

 境内から、山の辺の道に入った先には、簡易な神殿風の鶏舎などもありました。基本的には放し飼いだと思うのですが、こうした施設も必要となるのでしょう。鶏の楽園とはいいつつも、天敵は狙っています。

 

※山の辺の道沿いに設置された鶏舎。

 森の中

 境内から南に向かうと、鬱蒼とした木々が覆う、森の中に入ります。そして、少し先には、小さな池。道幅が狭い砂利道を奥へ奥へと進みます。

 

※境内の南の外れ。

 

 杣之内

 小さな池を左に見ながら、森の中を進んで行くと、やがて、ひとつの集落に入ります。この集落、丘のすき間のわずかな土地に、何軒もの立派な民家が並んでいます。

 道は一旦左に折れて、その先で右折です。

 

※杣之内(そまのうち)の集落に入った山の辺の道。

 

 杣之内の集落内を進んで行くと、道は次第に上り道へと変わります。この先再び、丘陵地の森の中へと向かうような感覚です。

 

※再び坂道に入った山の辺の道。

 

 山道へ

 道はやがて、国道25号線の道路下を潜ります。コンクリートのボックスで守られた山の辺の道。その先は、確かに、山道の様相です。

 

※国道下をくぐり抜ける道。

 

 坂道の正面で、道は2手に分かれます。標識は、右方向が、次に向かう内山永久寺跡を指し示し、その距離は、わずか0.1kmとの表示です。

 ただ、初夏の空気が漂う道は、徐々に体力を奪っていくような過酷さもあるところ。汗を拭きつつ、坂道を上ります。

 

※次の目標地点、内山永久寺跡へと向かう坂道。

 

 芭蕉句碑

 しばらく進むと、再び道案内がありました。そして、そのすぐわきのところには、「芭蕉句碑」と表示された案内板と、立派な句碑が置かれています。

 

  うち山や とざましらずの 花ざかり

 

 案内板の記載によると、芭蕉がこの地を訪れたのは、まだ彼が若い頃。江戸に住まいを求める以前で、出生地の伊賀上野におられた頃だということです。

 若き日の芭蕉翁は、住まい近くの名所などを巡られて、小さな旅を繰り返していたのでしょう。古くからの大寺院、内山永久寺は、その頃、まだ立派な寺院の姿が残されていたようで、芭蕉は、寺院を見ながら感慨を深めていたのだと思います。

 

 ”内山は、近隣の人こそ知る花の名所なのでしょう。外から来た者は、そんなこととは知らずして、見事な花を愛でさせていただきました。”

 

芭蕉句碑のところを左に進みます。

 

 万葉の光景

 しばらくすると、右手には、小さなため池が見られます。遠近に重なる山々は、様々な明るさの緑の主張が素晴らしく、空からの淡い青の光を受け止めて、見事な景観を作っています。

 優しい自然に包まれたような景観は、まさに、”まほろば”ともいえるような景色です。万葉の人々は、このような景観を眺めつつ、この地に暮らしていたのでしょう。

 ただこの辺り、次に触れるように、12世紀前半に内山永久寺が創建され、大伽藍が築かれていたようです。時代と共に変容する景観を想いつつ、永久寺跡へと向かいます。

 

※”まほろば”を彷彿とさせる光景。ここに内山永久寺の大伽藍が展開されていたようです。

 

 内山永久寺

 少し坂を上って行くと、木々の奥へと続く道に向かいます。そして、森に入る直前に、「内山永久寺 絵図」と記された、簡易な案内板がありました。そこには、「内山永久寺跡」の標柱も設置され、この辺りがかつての寺院跡だったことが分かります。

 

※内山永久寺跡。

 

 案内板に従って、少し石段を上って行くと、そこには、下のような立派な寺院の絵図がありました。

 見ての通り、見事な境内が設けられ、室町の時代には、相当な力を有した大寺院だった様子です。このような大寺院が、どうして姿を消したのか、不思議と言う他ありません。

 芭蕉も目にした大伽藍。明治維新の転換期を渡り切れずにいたのでしょうか。今では、この絵図を眺めて往時を偲ぶばかりです。

 

※内山永久寺の絵図。

 絵図を背に振り返ってみたところ、そこに広がる光景は、典型的な自然溢れる大和の姿。どう見ても、中世の大伽藍があった地とは思えません。

 歴史のいたずらのような景観を眺めつつ、山の辺の道を進みます。

 

※内山永久寺跡の展望所からの景観。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]9・・・石上神宮へ

 天理市

 

 山の辺の道は、この先、天理市の東の隅を縦断します。道沿いは、市街地からは少し離れた場所ですが、天理教の大きな施設があちこちに見られます。この天理市は、おそらく、天理教の城下町。ひとつの宗教が地域を席巻するという、信じられない世界です。

 人々は、この街を、どのように捉えているのでしょう。住民の方々には、少し失礼なことながら、外部の者が街を歩くと、異様な雰囲気を感じざるを得ないのです。

 そんな特異な街ながら、今歩く古代の道は、日本の原点とも言える場所。大和王権初代の王、崇神天皇の時代に興った石上神宮(いそのかみじんぐう)を経て、王権の故郷でもある、纏向遺跡(まきむくいせき)や大神神社(おおみわじんじゃ)が鎮座する、大和のまほろ*1の地を進みます。

 

 

 林道

 丘陵の森の中に入った道は、しばらく、幅の狭い林道のような道筋を進みます。途中には、竹林が道を覆うような場所もありました。

 それでも、ところどころに標識があり、心細さはありません。行く手を誤ることはなく、忠実に古代の道を辿ります。

 

※丘陵地の竹林を通る古代の道。

 

 石上大塚古墳

 竹林の途中には、「石上大塚古墳」と記された表示板がありました。ここから右に30m上ったところに、前方後円墳があるようです。さずがに古代の道が通る場所。この辺りにも、たくさんの古墳が築かれていた様子です。

 古墳の名前からも分かるように、もうここは、天理市石上(いそのかみ)と呼ばれる地域です。次の目標地点である石上神宮も、同じ”石上”。ただ、神宮は、天理市布留町に属しています。

 

※石上大塚古墳と書かれた表示板。

 

 里へ

 道はこの先で林の中を通り抜け、果樹などが植えられた山沿いの農地へとつながります。ひとつの丘陵地を横切って、次の平地に向かうような地形です。

 

※林の中の道を過ぎ、農地の道に変わります。

 

 山道から、今度は、農道へと姿を変えた山の辺の道。平坦なところは水田で、斜面には果樹などが植わっています。左右から丘が迫る狭い農地を通り抜け、次の集落へと向かいます。

 

※狭い場所に水田と果樹園が隣接しています。

 

 豊田町から豊井町

 山間の農地を過ぎると、小さなため池なども見られます。やがて、集落が現れて、新しい民家が並ぶ通りの先には、車が走る幹線道路が見えました。

 道は次第に天理市の街中へと迫りつつある様子です。

 

豊田町の集落を通り、前方の自動車道に近づきます。

 

 道は、この先で、県道に合流します。この辺り、天理市豊田町。一気に視界が開けると、右前方には、天理の街が見渡せます。

 私たちは、しばらくの間、県道の歩道に沿って南下して、豊井町の交差点へと向かいます。

 

※県道と合流した山の辺の道。

 

 県道は、この先、真っ直ぐに南下していて、道沿いには、幾つもの立派な建物が見られます。これらはおそらく、天理教に関連する建物なのでしょう。ちょっと異様な光景ですが、ここから、右方向の街中と比べると、”まだ序の口”、といったところです。

 

 一区切り

 山の辺の道の道筋は、次の豊井の交差点を左折して、少し山際に向かいます。ただ、私たちは、この日の歩き旅は、ここで一区切り。交差点を右折して、天理駅へと向かいます。

 

※この先の豊井の交差点で、今回の歩き旅は一区切りです。

 

 石上神宮

 豊井の交差点から先の行程は、およそ2か月の間を置いて、昨年(2023年)の5月の下旬に歩くことになりました。本来は、交差点から山際を経由して石上神宮へと入るのですが、私たちは天理駅から、直接、石上神宮へ。

 そして、石上神宮の辺りから、正規の道に入ります。(天理駅から石上神宮までは、およそ2kmの距離があります。路線バスの便が悪く、徒歩もしくはタクシー利用になります。)

 

石上神宮参道入口。左下の標識にあるように、ここが山の辺の道となります。

 

 石上神宮の参道に入って行くと、木々が空を覆い隠し、厳かな雰囲気が漂います。木漏れ日の優しい光は、山際に鎮座する古代の神が、人々を誘っているようにも感じます。

 

石上神宮参道。

 

 参道にある、石造りの標柱や重厚感ある鳥居などを見ていると、この神社の格式が偲ばれます。

 また、下の写真の石柱の少し奥には、万葉集に納められた、柿本人麻呂の歌の碑などもありました。

 

石上神宮の参道。右は、柿本人麻呂の歌碑。

 

 石上神宮(いそのかみじんぐう)

 山の辺の道筋は、石上神宮の参道を進んだ先で、本殿の直前を右方向に折れ進みます。ただ、折角の神宮です。私たちは、本殿へと足を延ばして、参拝させて頂きました。

 石上神宮の本殿への入口は、鮮やかな朱塗り塀で囲まれた、木目調の楼門です。色調が統一されない理由があるのでしょうか。少し、不思議な楼門を潜ります。

 

石上神宮の楼門。

 楼門を通った先は拝殿です。立派な檜皮葺の屋根が特徴的で、平日でも、多くの人が訪れます。

 この、拝殿奥が本殿で、私たちは、厳かに祈りを捧げたものでした。

 

石上神宮拝殿。

 資料を見ると、この神社は、元は、物部氏氏神だったとか。後に、大和に王権が誕生し、物部氏も、重要な役割を演じることになりますが、王権との関係性の証ででもあるように、初代の王、崇神天皇がこの地に石上の御祭神を祀ることになったのです。

 

 古代日本史

 古代の大和のことについては、何故か、歴史でも詳しく学ばなかったような気がします。一般には、邪馬台国畿内説や九州説があったという程度です。いつの間にか、時代は飛鳥へと移り過ぎ、聖徳太子天智天皇中大兄皇子)など、飛鳥の時代に流れ進んで行くのです。

 ただ、実際は、国の成り立ちの原点は、山の辺の道が通っている、天理市の辺りから桜井市にかけての地域だと言われています。このブログを通じ、この先の道筋を歩く中で、僅かではありますが、この辺りのことについて触れて行きたいと思います。

 冒頭で少し触れた、”まほろば”という言葉。彼の、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、次の歌を残しています。

 

   倭(やまと)は 国のまほろ

   たたなづく 青垣

   山隠(やまごも)れる

   倭しうるはし

 

*1:司馬遼太郎著『北のまほろば』の冒頭には、次のような一文が綴られています。「”まほろば”が古語であることは、いうまでもない。・・・伝説の日本武尊ーが、異郷にあって望郷の思いをこめて、大和のことをそう呼んだ。」

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]8・・・天理市へ

 白川ダム

 

 古代の道は、弘仁寺を出た先で、近代的な道筋に変わります。しばらくは、舗装された幹線道路を歩きつつ、工場や整備された公園などを眺めながらの行程です。そして、その先にあったのが、白川ダムと呼ばれるところ。山際の広大な敷地のところに、満々と水をたたえた人工の貯水池がありました。

 笠置山地の裾野の地域を複雑に辿る歴史の道は、あちこちで、往時のままの景色が見られ、奥ゆかしい道筋です。ところが、白川ダムの前後の区間は、開発に抗いきれない、人工の風景が広がります。

 

 

 虚空蔵町

 弘仁寺の境内を後にして、虚空蔵町の坂道をゆっくりと下ります。途中、道路際には、東海自然歩道の案内板や、まだ新しい公衆トイレの建物などがありました。

 丘陵地の稜線に挟まれたわずかなすき間を利用して、民家が並び、細い道が通っています。

 

※虚空蔵町の道筋。

 

 天理市

 しばらくすると、少しずつ農地が広がり、正面は視界が開けます。遠方に見えるのは、生駒の山並みなのか。大和盆地の東の峰が連なります。

 地図を見ると、もうこの辺りから、天理市になるようです。いよいよ、奈良市を離れ、次の市域に入ります。

 

※農地が少しずつ広がってきます。

 

 県道

 農地の傍を進んで行くと、やがて、県道と合流です。ここからは、古代の道は姿を消して、人工の整備された道筋に変わります。

 道沿いや丘の上には、工場なども点在する、開発途中の地域です。

 

※県道に合流した山の辺の道。

 

 小高い丘が散らばる中を、道は巧妙にすり抜けて、南へと向かいます。ところどころに、旧道の名残りもあって、道路整備の変遷が見られるようなところです。

 

※丘の間をすり抜ける県道。

 

 丘へ

 県道を少し歩いたその先で、左手の丘に向かう分岐道に入ります。そこからは、少し急な上り坂。道路に沿って整備された坂の歩道を歩きます。

 辺りの丘は木々が覆い、民家などの建物はありません。それでも、空は開けて、清々しい空気が漂います。

 

※県道から、左手の丘に向かう道に向かいます。

 

 古墳公園

 急坂を上り進むと、右方向の丘の中に、芝生の公園が現れました。この公園、古墳公園と呼ぶようです。

 この辺りには、数多くの古墳跡があるようで、古代の豪族たちが、権力を誇っていたところなのかも知れません。

 

※道は古墳公園の傍を通り、その先を右方向へと進みます。

 

 古墳公園の角のところを右折して、傾斜が迫る道筋を南へと向かいます。道端の標識は、次の目標地点である石上神宮(いそのかみじんぐう)まで、4.8kmの表示です。

 

※古墳公園を右に見て南に向かいます。

 

 少し進むと、右手には、古墳公園の入口がありました。立派な石造りの碑が置かれ、奥には、でこぼこの幾つもの塚が見られます。美しく整備された公園は、休日には、たくさんの人々が訪れることでしょう。

 

※古墳公園の入口。

 

 白川ダム

 山沿いに続く道を進んで行くと、正面に、鉄柵で囲まれた立派な施設が現れました。ここは何かと思ったところ、入口には、「白川ダム」の表示です。そして、山の辺の道の道案内も、この施設の中を指示しています。

 

※白川ダムの入口。

 

 私たちは、入口から先へと進み、満々と水を湛えたダムの水面を眺めながら、しばらくの休憩です。

 

 このダムは、高瀬川と楢川の水を貯水した、農業利用のダムですが、大々的に整備された今日では、洪水対策の役割も担っていると言うことです。

 休憩中、車の出入りが頻繁で、人々の憩いの場ともなっているのかも知れません。

 

※白川ダムの全景。

 ダム周辺の風景は、どことなく、古代の香りが漂うものの、水面の周囲は、コンクリートで囲まれた人工の構造物。山の辺の道の道筋は、このダムの周囲を巡る、堤の道そのものです。

 湖面に竿を出し、獲物の影を待つ人たちの姿を見ながら、ダムの道を進みます。

 

※ダムの堤の道とダムの様子。

 

 約半周、この堤を進んだ先で、右下へと向かう道の方向へ。その先は、ダムからの放水路なのでしょう。真っ直ぐに整備された水路に沿って進みます。

 

※放水路のような水路沿いを進みます。

 

 名阪国道

 放水路の水門を越えた辺りで、高架の道路に突き当たります。この道は、名阪国道と呼ばれている、自動車専用道路です。

 道は、ここを右へと向かい、直ぐに、左方向の高架下を通ります。

 

名阪国道に突き当たる道。

 

 高架をくぐる角地にも、しっかりと、案内表示が置かれています。表示の指示に従って、高架の下に入ります。

 

名阪国道の高架下に入る角地。

 

 山道へ

 高架下を出た先は、真っ直ぐに、次の丘へと向かいます。丘の斜面には、果樹と共に、白いシートで覆われた、不思議な場所がありました。

 今は、はっきりとは思い出せない状態ですが、ブドウか何かの栽培地だったような気がします。

 この先道は、この丘を右方向から周り込み、森の中へと向かいます。

 

※果樹園が広がる丘。この丘を右方向から周り込みます。

 

 坂道を上り進んで、果樹園の丘の周りを巡ります。

 

※丘を周りこむ道。

 

 やがて、頂上に近づくと、左には、水道のタンクを思わせる、円形の建物がありました。おそらく、天理市の上水施設のひとつでしょう。

 道は、この先で、森の中へと入ります。

 

※水道タンクのような建物の横を通ります。

 

 この先しばらく、開発された地域を離れ、旧道に戻ります。木々が覆う山道のような状態ですが、どこか懐かしい、山の辺の道に出合うのです。

 

※歴史の道に戻った山の辺の道。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]7・・・弘仁寺へ

 奈良市の南縁

 

 奈良公園を起点として、大和盆地の東の際を、蛇行しながら南に向かう山の辺の道。この道は、天理市を経由して桜井市大和川まで続いています。途中、奈良市山町の円照寺を訪れた後、天理市にほど近い弘仁寺へと向かうのですが、この辺りは、まだ奈良市の領域です。

 随分と長い時間を歩いてきても、なかなか、奈良市から抜け出ることはできません。奈良市南縁の、高樋町(たかひちょう)の坂道を上り進んで、天理市との境界にある虚空蔵町へと向かいます。

 

 

 高樋町へ

 帯解(おびとけ)の幾つかの集落を通り過ぎると、道は、山際の木々が迫る道筋に変わります。

 山の斜面を削り取り、丘の向こうにつながる道は、今はそれほど利用されていない様子です。車は滅多に通らない、静かな区間と言えるでしょう。

 

※集落が途絶えた舗装道。

 道は、上り坂から下りに転じ、その先で、県道に合流します。そこからは、民家も現れ、道の角には、新しい標識もありました。

 この標識、「天理市 弘仁寺1.2km」の表示です。ただ方向は、県道を示しているようにも思えます。

 地図を見ると、古代の道は、交差点から左手の旧道へと向かうはず。しばらく思案をした後に、旧道の方へと向かいます。

 

※県道と合流する山の辺の道。

 

 正暦寺(しょうりゃくじ)

 旧道の入口には、「正暦寺」と記された案内板がありました。この先の目標地点、弘仁寺とは違っていますが、地図では確かにこの方向。坂の上の集落を目指して進みます。

 

※旧道の入口。

 

 高樋町

 坂道を上って行くと、道沿いには民家が軒を連ねて並んでいます。古代の道を囲むようなこの集落は、古くから、人々が住まいしていたのかも知れません。

 奈良市の高樋町(たかひちょう)と呼ばれる町は、独特の風情を有しています。

 

※古くからの集落の中を通る道。

 

 時計台

 細く続く坂道を上り進むと、三叉路の交差点が現れました。標識は、左に向かえば正暦寺、右方向が弘仁寺の表示です。

 旧道の入口にあった案内表示の「正暦寺」は、ここを左折した先にあるようです。

 よく見ると、三叉路の標識下には、不思議な形の時計台。近鉄で戴いた地図の中にも、ランドマークのひとつとして、示されているものです。

 そもそも、時計台とある以上、もっと大きく目立つものだと思っていたのですが、これがそうなのかと、少し拍子抜け状態となりました。

 

正暦寺への分岐点と時計台。

 

 右方向に向かった道は、まだ上り坂が続きます。高樋町の道筋は、相変わらず道の左右に民家を並べ、急な斜面に集落を広げています。

 

※上り坂が続く山の辺の道。

 

 弘仁寺へ

 民家の間をすり抜けて、少し開けたところに出た先で、道は、2方向に分かれます。左手が、道なりの方向で、道案内には、「弘仁寺参詣道」と書かれています。案内板の下の方には、左手が表参道で、右方向が徒歩道との表示です。

 私たちは、躊躇なく、右の道を選びます。

 この道は、農道のような細い道。小さな川を越え農地を進み、さらに、先ほど交差点で確認した県道の先線を横切って、向かいの山に入ります。

 

弘仁寺への分岐道。右方向が山の辺の道。写真右手の山に向かいます。

 

 県道を渡ったところで、民家の敷地のようなところに入ります。道は、案内表示にあるように、民家横の小径です。

 少し不安に感じつつ、おそるおそる通らせていただきました。

 

※民家の敷地のような小径を通ります。

 道はその先で、傾斜の畑地に入ります。そして、その途中のところで右折です。そこには、弘仁寺の案内板が置かれているため、迷うことはありません。森の中へと入りこむ、寂し気な道ですが、安心して進みます。

 

※斜面の農地から弘仁寺の境内がある森の中へと進みます。

 

 弘仁

 森の道を少し歩くと、正面に弘仁寺の山門が現れました。少し古そうな門ですが、歴史を重ねた重厚さを感じます。

 山門の中央には、賽銭箱を思わせる、木の箱です。そして、そこには、「入山志納料 二百円」と書かれています。

 

弘仁寺の山門。

 

 私たちは、入山料を投入し、境内へと入ります。

 普通なら、山の辺の道の道筋は、境内を取り囲むようなルートを辿るはず。ところが、ここ、弘仁寺では、境内を横切るように通っています。不思議な感じはするものの、これこそが、古代の道の醍醐味かも知れません。

 私たちは、本堂と明星堂で手を合わせ、しばらくの間、万葉の空気を味わいました。

 

弘仁寺本堂。

 

 資料によると、弘仁寺は、弘法大師が開かれたと書かれています。平安時代初期の頃の創建だと言うことで、古代の道が賑わった、大和王権の時代と比べると、まだ今日に近い時代の施設だと言えなくもありません。

 静かな境内を眺めながら、休息のひと時を過ごします。

 

 帰路

 道は、弘仁寺の本堂前を横切って、境内の反対方向に続いています。その先で、石で組まれた階段を下り進んで、幅の狭い舗装道に下り立ちます。

 

※境内の反対側にある石段を下ります。

 

 虚空蔵町

 この辺り、左右からの丘の尾根に挟まれた、わずかなすき間を利用して、立派な民家が並んでいます。道は、これらの民家の前を、緩やかに蛇行しながら下っています。

 奈良市虚空蔵町と呼ばれる地域。弘仁寺本尊の虚空蔵菩薩に由来しているのだと思います。古刹と共に、長い歴史を歩まれてきたのでしょう。

 

※虚空蔵町の道筋。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]6・・・円照寺から弘仁寺へ

 帯解(おびとけ)

 

 大和盆地の東に連なる山の裾野を辿る道。この道は、概ね、丘陵地帯を縫うように続いています。ある場所は、森のような木々が覆う山道を、またある場所は、広々とした見晴らしの良い丘の斜面を通ります。

 円照寺を過ぎた後、次の目標地点は弘仁寺。何れの寺院も山際の森の中にありますが、山の辺の道の道筋は、この間に、一旦、開けた場所を通ります。奈良市山町と呼ばれるこの地域、少し西に向かえば、JR桜井線の帯解(おびとけ)駅に至ります。

 帯解という地名、私にとっては初めて耳にする名前です。地図を見ると、駅近くには、帯解寺があるようです。珍しい名前のこのお寺、平安時代に創建された寺院のようですが、さらに古い時代からの言い伝えもあるようです。

 この地には、古くから、腹帯をした地蔵様があったとか。時の皇后が、懐妊祈願に訪れて、その後無事に出産され、腹帯が解けたため、”帯解”と名付けられたというのです。

 何故か微笑ましくなるこの地名。私たちの歩き旅の節目の場所ともなりました。

 

 

 円照寺

 山道を下ったところで、円照寺の参道に入ります。杉の林に覆われた参道は、整然とした状態で、境内へと続いています。

 

※円照寺の参道。

 参道をしばらく進むと、道を塞ぐように設置された山門がありました。そして、その奥に見えたのが本堂らしき建物です。境内には、工事関係の車両が見られ、整備の真っ最中の様子です。

 お参りのため山門を潜ってみると、そこには「立入禁止」の看板が。近くにおられた地元の方から、「ここは中へは入れませんよ」と告げられて、はじめて、一般の寺院ではないことを知ることになりました。

 

※円照寺の山門。

 

 近鉄奈良駅で頂いた、山の辺の道の地図の中には、円照寺のことについて、次のように書かれています。

 

 「別名、山村御殿。中宮寺法華寺と並び三門跡寺院の一つで、華道山村家家元。拝観はできませんが清められた参道や静かな門前周辺には尼寺らしい落ち着いた雰囲気が漂います。」

 

 なるほど、それは仕方がないものと諦めて、境内の入口から、手を合わさせて頂きました。

 

※静かな雰囲気の円照寺境内。

 

 南へ

 私たちは、再び、山の辺の道に戻ります。北側の山道から参道へと入った道は、円照寺山門の少し手前で、南の方角に向かいます。

 その入り口には、何故か、「西国 三十三所霊場」と刻まれた、石柱が置かれています。この辺りには、西国三十三所の観音御霊場はありません。何か他に、そのような一連の霊場があるのかと、首を傾げたものでした。

 道は、南に向かう細い石段の方向です。再び、森の中へと足を進めて、先の道を急ぎます。

 

※円照寺山門近くから南に向かう山の辺の道。

 

 道は、すぐに峠を越えて、下り道に変わります。木々が迫る細い道。その先は、明るい光が注いでいます。

 

※円照寺の山道を通ります。

 

 万葉の風景

 山道を通り抜けると、竜王池と表示された溜池がありました。その堤のところには、万葉歌碑や幾つかの説明板。なだらかに続く丘陵地の風景を眺めていると、万葉の香りが漂ってくるに感じます。

 説明板を見てみると、この辺りには、「山村廃寺(ドドコロ廃寺)」があったとか。また、周辺には、古墳群が何か所もあるようです。大和王権の前後の時代には、この辺りも権力の影響を強く受けていたのかも知れません。

 

竜王池。

 

 道は、池の手前を右折して、緩やかに下って行く、舗装道を進みます。この先は、丘と丘に挟まれた、緩やかな斜面の平坦地。そこには、水田や畑などの区画された農地が広がります。

 

 

※左端のため池を見て、右方向へ。

 

 一区切り

 農地の中を、標識を頼りにして、ジグザグに進みます。午後から歩き始めて、ここまでおよそ3時間。地図を見ると、農地のはずれにバス停があるようです。

 この先は、再び山際へと向かうことになるために、ここは、区切りの良いところです。この日の歩き旅はここまでにして、バスで、奈良方面まで戻ることになりました。

 

※緩やかな斜面の農地を下ります。

 

 途中、左に向かう坂道があり、標識は、山の辺の道を示しています。そこから先は翌日にして、私たちは、農地の先を下ります。

 

※山の辺の道の先線。

 

 やがて、主要道路の県道が、南北に走っています。そして、その先に、山村町のバス停です。

 私たちは、ここからバスに乗り、奈良の街中に戻ります。

 

※山村町のバス停。

 

 帯解駅

 翌日は、JR帯解駅に車を置いて*1、そこから昨日の区切りの地点に戻ります。少し上り坂ではありますが、およそ15分間、帯解の町中を歩き進んで、その地点に着きました。

 

※JR桜井線の帯解駅

 

 続きの道

 農地の中の坂道を上っていくと、少し広めの、舗装道路に合流します。道端の角地には、「高樋町(たかひちょう)・弘仁寺」を示す標識です。

 私たちは、標識に基づいて、坂の上へと向かいます。

 道沿いは、古からの集落の様相で、農家の建物が目立ちます。

 

弘仁寺へと向かう道。

 坂道

 坂道を進んで行くと、道沿いには、小さな工場なども見られます。それほど険しい勾配ではないものの、どこまでも、上り道は続きます。

 

弘仁寺へと向かう道は、上り坂が続きます。

 この辺り、舗装道路を辿るために、古代の道の感覚はありません。やや興ざめな区間ではありますが、先の道に期待を込めて、一心に歩きます。

 

※「上山」と表示されたバス停がありました。ただここは、今もバス路線かどうかは分かりません。

 

*1:帯解駅のすぐ南には、格安のコインパーキングがありました。この日の目標地点は天理なので、帰りは電車で天理駅から帯解駅に戻る予定です。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]5・・・円照寺へ

 崇道天皇

 

 山の辺の道の道沿いには、幾つもの神社や寺院が境内を構えています。また、数多くの歴史の跡や遺跡なども残っていて、悠久の時の流れが感じられる道筋です。

 道は、白毫寺を過ぎた後、八阪神社を左に見ながら、その先で円照寺へと向かうのですが、途中には、崇道天皇(すどうてんのう)の陵(みささぎ)前を通ります。

 どこかで耳にした、聞き覚えがあるこの天皇。一般には、早良親王(さわらしんのう)として知られています。奈良時代の末の頃、時の桓武天皇平城京から長岡京へと都を移そうとしていた時、天皇の腹心の人物が殺害されてしまうのです。その事件の罪を着せられ、長岡京の乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されることになったのが、他でもない、早良親王だったのです。

 親王は、絶食の後憤死したとされていますが、その後、桓武天皇周辺に様々なわざわいが起こったことから、後に、”崇道天皇”という称号が与えられ、手厚く祀られることになりました。東大寺などに住まいして、仏の道に帰依した人が、政権の綾により還俗し、不本意な生涯を送ることになったのです。

 後の世の人々は、この方の無念を思い、大和盆地が見渡せる山の辺の道の一角に、陵を設けたのだと思います。そんな歴史を想いつつ、山の辺の道を歩きます。

 

 (崇道天皇に関する記事は、私の以前のブログでも紹介しています。)

 

soranokaori.hatenablog.com

 

長岡京の乙訓寺にある早良親王供養塔。

 

 藤原町

 民家の脇の細道を進んだ先は、雑木林が目の前にあり、その手前には小さな川が流れています。道は、その川に沿って、少し下流の方向へ。

 やがて、視界が開けると、見晴らしのよい丘陵地のような場所に出て行きます。そこは、農地が広がって、ところどころに、新しそうな住宅も見られます。

 この辺り、まだ奈良市の領域です。地名は、奈良市藤原町。天智天皇の時代から、要職に就いた藤原氏と関連があるのかどうか。由緒ある町のようにも思えます。

 

※遠方も見渡せる丘陵地のような場所を通ります。

 

 緩やかな傾斜地に広がる農地。その向こうには、大和盆地の西に連なる生駒の山地も見られます。

 春先ののどかな風を受けながら、大和路を歩きます。

 途中、分かれ道のところには、円照寺への道を示す案内表示がありました。角々に設置された標識を頼りにすれば、道を間違うことはありません。

 

※大和盆地と生駒の山地も望めます。農道の分岐に設置された案内表示を頼りに進みます。

 

 小高い丘や農地の中を通る道。緩やかに弧を描き、或いはまた、丘を上って下ります。古代を生きた人々も、山々や里の景色を愛でながら、この道を往き来していたのかも知れません。

 

※のどかな景色の中を1本の道がつながります。

 

 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)

 ひとつの丘を越えた後、道は、集落に入ります。坂を下って、集落の中心部に近づくと、その一角に小さな神社がありました。

 白山比咩神社と表示されたこの神社、石川県の加賀一宮にゆかりがある、白山信仰に由来する神社だということです。どうしてこの地にそんな神社があるのかと、不思議に思った次第です。

 

※ 白山比咩神社。

 

 八島町

 藤原の集落を通過した後右折して、西方向に下ります。この辺り、奈良市の八島町というところ。丘と丘に挟まれた、谷のような地形の道を進みます。

 

※八島町に入った道。

 

 坂道の途中には、嶋田神社と表示された小さな神社もありました。左右から小高い丘が迫る場所。見晴しは、少し遮られた状態です。

 

※嶋田神社。

 

 道はこの先も、緩やかな坂道です。石垣を配した民家の傍を、ゆっくりと下ります。

 

※八島町の下り道。その先が崇道天皇陵です。

 

 崇道天皇陵(すどうてんのうりょう)

 坂道を下り進んだ先にあったのが、冒頭でも紹介した、崇道天皇の陵(みささぎ)です。小高い丘の先端に設けられた陵は、大和盆地を見下ろすような場所にあり、不遇の人を手厚く弔っているようにも思えます。

 一方で、盆地の方からも、この陵の姿を望めるのかも知れません。多くの人が陵墓を望み、世の平安を念じてきたのでしょう。

 陵の入口辺りには、宮内庁の表示板。そこには、「崇道天皇 八嶋陵」と書かれています。厳かな雰囲気の陵墓の前で手を合わせたものでした。

 

※山の辺の道の右にある、崇道天皇陵。

 

 正面からの天皇陵をご覧いただければと思います。実際には、天皇として即位していない方ですが、このように、”天皇”として認知され、今も宮内庁が厳重管理をしています。

 

※正面から見た天皇陵。

 

 山道

 崇道天皇陵を過ぎた後、道は、すぐに左折して、山道のようなところに入ります。実際は、丘の中を進む道。木々が覆い、土の道が続きます。

 この道は、次の目標地点、円照寺へとつながる道で、標識を確認しながら進みます。

 

※山道のような雰囲気に変わります。

 

 途中には、お地蔵さんや小さな祠なども見られます。道は、少しずつ、神聖なところへと近づいてきた雰囲気です。

 

※山道には、お地蔵さんなどが集まっている場所もありました。

 

 しばらくすると、山道のすき間から、整備された砂利の道が現れました。この道は、円照寺の、正規の参道なのでしょう。

 今歩いている山の辺の道。こちらは、山の中を縫うように進んだ後で、この参道につながります。

 いよいよ、次の目標地、円照寺はすぐそこです。

 

※山の辺の道は、このように正規の参道につながります。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]4・・・鹿野園辺り

 古道の魅力

 

 古代の道が、本当にどのようなルートを辿っていたのか、おそらく今では、よく分からないのだと思います。特に、山の辺の道の北コース、奈良公園から数キロは、整備された公園内と、住宅が連なる中を縫うように進んでいます。むしろ、本来の道筋が、分からないのが当然とも言えるでしょう。

 それでも、白毫寺を過ぎてから八阪神社辺りの道は、少し趣が異なります。この間は、奈良盆地の東側、笠置山地の山裾を絶妙につないでいるようなルートです。ところどころに史跡も残り、古代の道を彷彿とさせるような道筋です。

 

 

 旧道

 白毫寺を過ぎた後、農地の中の旧道を進んだ先に、児童福祉関連の立派な施設がありました。道は、その建物を右に見て、緩やかな坂道を上ります。

 

※児童福祉関連の施設。病院も併設されているようです。

 

 舗装された旧道を少し進むと、再び農地が広がります。そして、農道の分かれ道には、「円照寺」の方向を示す案内表示。山の辺の道の表記もあって、貴重な道しるべになりました。

 この先も、このような案内板が頼りです。手にした地図は、通過するポイントと、概ねの距離の確認のみ。ルートの細部は、現地の表示を頼るのが最適です。

 

※「円照寺」への道案内。

 

 集落の道

 農地の中を進んで行くと、その先は、小さな谷へと下る道。雑木林をすり抜けて、小さな橋を渡ります。

 

※小さな谷へと下る道。

 

 丘のすき間を流れる川は、窪んだ地形をつくっています。その川沿いのところには、何軒かの民家もありました。この先、道は再び上り坂。なだらかな丘陵地の斜面にも、民家が並び、古くからの集落の様相です。

 

※谷を越え、丘に連なる民家の前を通ります。

 

 緩やかな上り道を進んで行くと、小高い丘が進路を遮り、道は2方向に分かれます。ここはまた、山の辺の道の表示柱が貴重な地点。進路は、道なりの方向とは反対の、鋭角に左に折れる坂道です。

 

※表示柱を頼りに、鋭角に左方向へと進みます。

 

 八阪神社

 坂道を上った先で、今度は右に折れ、丘の縁を周るような道筋を進みます。途中、右手を見ると、山裾に張り付いた、緩やかな農地の斜面が広がります。

 この辺り、鹿野園(ろくやおん)と呼ばれる地域で、奈良独特の古(いにしえ)の響きを感じます。道端に建てられた説明板にも、幾つかの史跡の紹介がありました。

 道沿いは、古くから人々の営みが続けられてきたのでしょう。そして、様々な歴史や文化が育まれてきたのだと思います。

 

※鹿野園の風景と史跡の案内板。

 山裾の細い道を辿り進むと、今度は、八阪神社の鳥居です。こちらも歴史がありそうな神社ですが、私たちは、鳥居前で柏手を打ち、先の道へと向かいます。

 ちなみに、ここの神社は、「阪」の字を使っています。有名な京都祇園は、「八坂神社」と書きますが、その違いは分かりません。

 

八阪神社

 集落と溜池

 やがて、道は下り坂に変わります。そして、その先で、少し大きな集落に入ります。この集落も、鹿野園(ろくやおん)。新旧が入り混じる、民家のすき間をすり抜けます。

 

※鹿野園の集落に入る道。

 

 道は、その先で、小さなため池に向かいます。このため池の堤の道が山の辺の道になるようです。堤の入口辺りには、次のような万葉歌碑がありました。

 

   かるたかの たかまとやまを たかみかも

    いてくるつきの おそくてるらむ  大伴坂上郎女

 

 意味は良く分かりませんが、高円山の上から出る月は、山が高いがゆえに照りだすのが遅い、とでも解釈するのでしょうか。言い換えれば、大成するのは大器晩成型の人?何とも勝手な解釈で、申し訳ない思いです。

 

※ため池のところにあった万葉歌碑。堤の道が山の辺の道です。

 

 古道

 溜池の堤を辿って行くと、道は、雑木林に入ります。そして、その先は竹林です。わずかな幅のこの道は、確かに、古代の雰囲気を感じます。

 史跡と史跡を結びながら、山に沿って、ぐねぐねと続いています。

 

※古代の道を感じさせる道筋。

 

 この先しばらくは、竹藪の中を進みます。田畑として、開拓されずに残ったような里山ですが、このような山の恵みも、人々の生活には欠かせない、重要な要素となっているのでしょう。

 

※竹藪を進む山の辺の道。

 

 舗装道

 やがて道は、整備された林の中に入ります。その先で、少しずつ空が開けて、ひとつの丘を横切ってきたような感覚です。

 

※整然とした林の中を通ります。

 林の中を進んだ道は、一旦、舗装道路に入ります。右手に迫る小さな丘に沿うように、弧を描きながら進みます。

 

※一旦舗装道路に出た山の辺の道。

 

 ところどころに民家が見られる舗装道。その先には、立派な集合住宅などもありました。この住宅、どうも、自衛隊の官舎のような感じです。あまり活用されていないのか、空き室が目立っていたように思います。

 住宅前の角地に置かれた案内板には、次のポイントの円照寺まで、2.3キロの表示です。この辺り、案内表示が置かれているため、道を間違うことはありません。私たちは、矢印に従って、右方向に進みます。

 

※集合住宅の前を通ります。

 

 舗装道を少し進むと、一般の住宅脇に、簡易な山の辺の道の案内表示がありました。舗装された道の隣の、住宅地傍の細い道。少し分かりにくい道ですが、そこが、山の辺の道になるようです。

 不安を覚えながらも、表示通りに細道に入ります。

 

※住宅地脇の細道に入る山の辺の道。