旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]3・・・白毫寺と大和盆地

 大和盆地

 

 奈良県の北部に広がる大和盆地は、平城京の北の端から明日香の辺りまで、20キロほど続いています。東西は、概ね、5~10キロで、概して、長方形の形です。この土地が、どうして、古代日本の中心地となったのか、興味が尽きることはありません。

 ここで、邪馬台国のことについて、触れることはしませんが、おそらくこの地には、幾つかの力を持った勢力が分散していたのでしょう。いつの日か、そのような勢力が、ある程度一つにまとまって、或いは、九州かどこかの勢力が、この地を治める勢力と手を組んで、大和の王権を確立したのだと思います。

 地理的には、海外の脅威であった、大陸や朝鮮半島と距離を置きながら、瀬戸内海を船で結べば、往来も可能な地。周囲を山で囲まれ、防御には適した地。そして何より、列島の中心地。幾つかの条件がかみ合わさって、大和の歴史が築かれたのだと思います。

 悠久の歴史を想いながら、古代の道を歩きます。

 

 

 白毫寺(びゃくごうじ)へ

 傾斜地につながっている、集落内の細道を進んで行くと、小さな四辻に、「白毫寺」と記された石造りの案内表示がありました。傍には、新しい道標も置かれています。

 山の辺の道を代表する史跡のひとつ白毫寺。この古刹の参道は、ここからおよそ100メートル、左手の山際に向かったところから始まります。

 

※白毫寺の案内表示が置かれた四辻。

 

 山の辺の道の道筋は、この四辻を真っ直ぐに進みます。ただ私たちは、しばし、ルートをそれて、白毫寺を訪れます。

 

 四辻を左折して、急な坂道を上っていくと、やがて、石段の上り口に至ります。どこにでもありそうな、旧来からの住宅地のはずれにあった上り口。その先は、一気に時代が遡り、歴史を歩んだ古刹への険しい石の階段が続きます。

 

※白毫寺の山門に向かう石段。

 白毫寺

 石段を上り進むと、山門が近づきます。弱々しい簡素な造りの山門は、左右の壁の漆喰が剥がれ落ち、風雨に晒されてきた年月が偲ばれます。

 山門を過ぎた後も、その情景はさらに深まる感じです。山の辺の道と白毫寺。どこか、観光地とは質の異なる趣が、漂っているような気がします。

 

 

※白毫寺の山門と境内の方向。

 石段を上り詰めると、その左手が受付です。拝観料500円を支払って、境内へと進みます。

 白毫寺の境内は、それほど広くありません。正面の本堂と、左手奥の宝蔵が建物の中心で、あとは、樹木を配したわずかな平地に史跡などが残っています。

 私たちは、本堂の正面からお堂の中へと足を進めて参拝させていただきました。

 

 縁起

 白毫寺の縁起については、定かではないようです。受付で頂いた資料には、次のように書かれています。

 

 「白毫寺は・・・高円山(たかまどやま)の西麓にある。高円と呼ばれたこの地に天智天皇の第七皇子、志貴皇子離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられるが、当時の草創については他にも天智天皇の御願によるもの、勤操(ごんそう:奈良時代の僧)の岩淵寺の一院とするものなど諸説あり定かではない。」

 

 元々は、7~8世紀が起源のようですが、荒廃と再興を繰り返し、今の姿に近づいたのは、江戸時代だったということです。古代の道と白毫寺、どことなく、融和を感じる光景が見られるものの、歴史的には、それほどの接点は無いのかも知れません。

 

※白毫寺の本堂。

 

 大和盆地

 参拝を終えた後、境内から見えたのは、眼下に広がる大和盆地の姿です。北部地域の平地には、様々な建物が埋め尽くしているように映ります。

 そして、その向こうには、ぐるりと囲む山並みです。京都南部や河内とを隔てている山並みが、盆地の際に連なります。

 

※白毫寺の境内から見た北部地域の大和盆地。

 

 境内から山門を見下ろした方向には、ひと際高い、山の姿も見られます。おそらくそれは、生駒の山なのだと思います。

 山門の屋根の向こうの街並みは、奈良市の南部地域と大和郡山になるのでしょう。たくさんの人々が住まいするこの盆地。古代には、湿地や草が覆う、未開の地だったのかも知れません。

 様々な歴史のドラマを繰り広げ、今に至った盆地の姿を感慨深く眺めつつ、白毫寺の石段を下ります。

 

※白毫寺の山門と大和盆地。

 

 県道と旧道

 白毫寺の石段を下りた後、先の四辻に戻ります。その後、住宅地を通った後で、道は、県道につながります。

 

※県道に合流した山の辺の道。

 

 県道の歩道伝いにしばらく進むと、右側に、下のような鉄の扉が現れます。表示に書かれているように、この前後には、鹿を防ぐ鉄の柵が設置され、厳重な管理がなされています。

 山の辺の道のルートは、指示に書かれている通り。この扉を開けて、階段を下ります。扉には、簡易なロックが付けられているために、開けた後は、必ず元に戻しておかなければなりません。

 

※鹿よけの鉄の扉と柵。

 

 鉄の階段を伝い下りると、あぜ道のような旧道に入ります。開発地と隣接する旧道を、心細く進みます。

 

※開発地の際をすり抜ける旧道。

 

 農地

 しばらくすると、旧道は、農地が広がる地域に入ります。この辺りにも、農地を守るように、鉄の柵が設けられ、ところどころに、先ほどと同様の、鉄の扉が置かれています。

 私たちは、ひとつずつ扉を開け、その先へと進みます。

 

※農地を通る山の辺の道。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]2・・・奈良公園から

 奈良公園

 

 奈良公園は、平城京の東のはずれに位置しています。有名な東大寺を中心に、幾つかの寺院や神社が境内を構えていて、歴史あるお堂や社(やしろ)が点在します。おそらくは、これらの寺社が築かれたのは、8世紀のいずれかの頃でしょう。平城京に都が移され、大和の国の権力が強大化した時代です。

 奈良の都を俯瞰する、春日山の裾野の辺りは、ことのほか神聖な場所だったのだと思います。一方で、平城京から東を望めば、若草山の丘陵地を背景に、美しく荘厳な甍(いらか)や塔が連なっていたことでしょう。

 広々とした敷地を構える奈良公園。たくさんの観光客が往来し、鹿たちと戯れることができる空間です。

 

 

 春日大社

 猿沢の池を右に見て東へと向かいます。途中には、老舗の料亭の建物もあり、歴史の重みが感じられるところです。

 道はその先で、一の鳥居前交差点。そこには、参拝者を春日大社参道へと導き入れる、厳かな朱塗りの鳥居がありました。

 この先は、公園内へと足を進め、真っ直ぐに、春日大社に向かいます。

 

※一の鳥居前交差点。左に折れると、東大寺方面になるところ。

 

 公園内の参道は、舗装道ではありません。心地よい、土の感触を味わいながら、木立の下を歩きます。

 途中、左には、奈良国立博物館の建物も。多くの鹿が戯れる、公園内を進みます。

 もう一度、舗装道を横切ると、右側は、飛火野と呼ばれる空間です。芝生が広がる野原には、鹿の姿が似合います。

 

※舗装道路を横切ってさらに東へ。

 

 参道は、少し先で、大きく右側の方向へ。杉の並木が連なる道をさらに奥へと進みます。

 

※右方向に迂回する参道。

 

 春日大社

 しばらくすると、左手の方向に春日大社の本殿がありました。たくさんの観光客が訪れるこの神社、東大寺興福寺などと同様に、世界遺産を構成する文化財のひとつです。

 ただ、これまでも触れたように、山の辺の道が賑わった、古代の大和の時代には、春日大社などはありません。春日山の麓を通る細道が、三輪山の王権の地(今の桜井市)と、木津や山背(やましろ)などがある、北部の地域を繋いでいたことでしょう。

 

春日大社前。

 

 若宮神社から園外へ

 春日大社を過ぎた後、園内を南へと進みます。途中、左には、若宮神社があるようです。春日大社に関連するこの神社にも、多くの人が集っています。

 道は木々に覆われ、随分と人の姿も減りました。私たちは、園路を辿り、奈良公園の南の出口へと向かいます。

 

若宮神社から奈良公園の南へと向かいます。

 

 薬師寺

 奈良公園を出た先で、「新薬師寺」の表示を見ながら、案内に従って、この先の進路を探します。

 先に、近鉄で頂いた地図を見ても、どうも細部は分かりません。なかなか複雑な経路を辿る古代の道。標識も頼りにしながら慎重に進みます。

 道は、奈良の街の、古くからの住宅地の様相です。入り組んだ細い路地を辿り進んで、わずかな傾斜の坂道を上ります。

 

※細い住宅地の坂道を進みます。左の寺院は不空院。

 

 坂道の左には、古都を感じる白壁の塀。わずかに積まれた石垣や、小さなお寺の山門など、歴史の香りが漂います。

 左手のこの寺院、不空院と呼ばれています。そして、不空院を過ぎた先の右側には、少し大きな寺院です。塀の間に山門がありますが、その日は、そこは閉じられて、中に入ることはできません。

 この寺院、門の傍の石柱は、「新薬師寺」の表示です。山の辺の道を歩く時、ランドマークとして重要な、ひとつのポイントに到着です。

 

※新薬師寺の山門。

 

 新薬師寺は、平城京の南西にある有名な薬師寺とは、関係がないようです。薬師寺は、天武天皇による建立で、元は、藤原京にあったとか。後の世に、今のところに再建されたということです。

 一方で、この新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を祈願して、光明皇后が創建されたもの。こちらこそ、奈良時代を代表する寺院のひとつだったのです。

 新薬師寺は、閑静な住宅地に埋もれるように佇みます。観光客もそれほど多くはないのでしょう。ひっそりと、山の辺の道の一角に、その境内を隠しています。

 先ほどの山門を通り過ぎ、塀を周りこんだ右側が本来の入口です。私たちは、門前から手を合わせ、先の道へと向かいます。

 

※新薬師寺の入口を、左方向へ。道案内が頼りです。

 

 白毫寺(びゃくごうじ)へ

 新薬師寺の正門から、左方向に進んで行くと、道は次第に、山並みに近づきます。その先は、少し複雑ではありますが、地図と共に、表示柱や看板などを頼りにして、古の道を辿ります。

 道は細く、途中から上り坂に変わります。何か所かある、枝分かれの道の角では、「白毫寺」を案内する表示板が頼りです。右に左に折れ曲がる、不思議な道筋を進みます。

 

※細い道は、上り下りと左右への屈曲を繰り返します。上のブロック塀には「白毫寺」の案内です。

 

 古代からの道筋が、どうしてこんなに複雑なのか。俄かには理解できません。ただ、その頃の大和盆地は、大変な荒れ地だったか湿地帯だったのでしょう。

 そのために、山裾の、わずかに安定した場所を辿って、人々は往き来したのかも知れません。

 そんなことを考えながら、次のポイント、白毫寺へと向かいます。

 

※白毫寺へと向かう山の辺の道。

 

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]1・・・古代の道

 山の辺の道

 

 「歩き旅のスケッチ」は、今回から、山の辺の道(やまのべのみち)を描きます。この道は、奈良盆地の東隅、笠置山地の麓を通る古代からの道筋です。

 昨年の春3月、東大寺二月堂のお水取りの行事に合わせ、奈良市から天理市への北のコースを歩いた後、新緑の5月には、桜井市までの南コースに挑戦し、全区間を歩き通すことができました。古代のロマンが漂う山の辺の道。悠久の歴史の香りを感じながら、大和の国の歩き旅を楽しみます。

 

 

東大寺二月堂のお水取り行事、お松明(おたいまつ)。

 

 古代の道

 

 山の辺の道の北端は、奈良公園の辺りです。正確に、どの位置かは分かりませんが、おそらく、古代には、木津方面に繋がっている、平城山(ならやま)に向かう峠の道と接続していたのだと思います。

 この道は、後の時代に下っても、ある程度は活用されていたと思うのですが、元々は、まだ、奈良の都がなかった時代の古道です。その頃は、勿論、奈良公園などありません。東大寺も、興福寺も、なかった時代の道筋です。

 3世紀の末の頃、大和の地に王権が確立されて、三輪山の麓辺りに権力の中枢が置かれます。大和の地や、その周辺を地盤とする豪族たちも、王権との関係性を計りつつ、自らの土地と民とを守るため、幾多の術策を考えていたことでしょう。

 そんな時代の、交流の道。そのひとつが、山の辺の道だったのだと思います。

 

 天理市桜井市などが協賛する、山の辺の道美化推進協議会が発行した資料。

 

 ここで、山の辺の道美化推進協議会発行の資料から、この道の概要が記載された、記事の一部を紹介します。

 

 「山の辺の道は、三輪から奈良へと通じる上古の道。大和平野には南北に走る上・中・下ツ道の官道があり、それぞれ7世紀の初め頃に造られた。上ツ道のさらに東にあって、三輪山から北へ連なる山裾を縫うように伸びる起伏の多い道が山の辺の道である。現在、その道をはっきりと跡づけることはできないが、歌垣(うたがき)で有名な海石榴市(つばいち)から三輪、景行、崇神陵を経て、石上(いそのかみ)から北上する道と考えられている。・・・中でも古代の面影をよく残し、万葉びとの息づかいを伝えるのが桜井市金屋から天理市石上神宮までの、約12キロ。古社寺、古墳、万葉歌碑、多彩な伝承の舞台などが展開し、知らぬ間に歩く者を古代の幻想の世界へと誘ってくれる。」

 

 

 山の辺の道のルート

 山の辺の道のルートは複雑です。インターネットで調べたところ、奈良県が紹介する、次のような地図がありました。

 

奈良県のサイトから得られた地図。赤の線が山の辺の道。

 

 なかなか、ややこしそうな道筋で、ちゃんと辿れる自信などはありません。私たちは、より分かり易い地図を求めて、近鉄奈良駅1階にある、観光案内所へと足を向けました。

 そこで頂くことができたのは、天理・桜井間の南側のコースの道筋です。先に触れた、協議会発行の資料の中に、その地図はありました。

 

 山の辺の道美化推進協議会が発行した資料の中にある南コースの地図の一部。

 

 案内所で尋ねたところ、北側のコースについては、近鉄の事務所の中で頂けるとのこと。早速、近鉄奈良駅の地下にある、その事務所を訪れて、下の地図を入手することができました。この地図は、かなり詳しく記載されているため、私たちにしてみれば、力強い味方です。

 ようやく詳しい地図を手に入れて、歩き旅のスタートです。

 

近鉄が作成されている山の辺の道の地図。

 

 近鉄奈良駅から

 山の辺の道の出発点は、奈良公園の辺りです。私たちは、近鉄奈良駅のすぐ東、東向商店街の中の道を通り抜け、興福寺へと向かいます。 

 

近鉄奈良駅と駅前。

 興福寺へと向かうには、商店街を通らずに、県庁前の大通りを東に進むのが一般的。ただ今回は、入手した地図に従い興福寺の境内の中金堂を目指します。

 賑やかな通りから、途中の角を左折して、緩やかな坂道へ。路地裏のような道を上って、興福寺の境内に入ります。

 

※商店街から左にそれて、興福寺境内に向かいます。

 

 興福寺

 坂道を終えた所は、興福寺の本堂である、中金堂の側面です。右前には、五重の塔の姿も望め、古都奈良の情景が広がります。

 この辺り、奈良の東部に広がっている、奈良公園の入口です。山の辺の道ができた頃には、勿論、このような施設はありません。あるいは、草が覆う荒れ地の中を、木津に通じる、平城山(ならやま、あるいは、”乃楽山”とも書くようです)へと向かう細道が通っていたのかも知れません。

 

興福寺の様子。

 

 猿沢の池

 中金堂を右に折れ、興福寺の西側の境内を南に向けて進みます。その先の右手には、興福寺南円堂西国三十三所霊場の、九番目の札所です。

 私たちは、南円堂で手を合わせ、猿沢の池に通じる階段を下ります。

 

興福寺の南を通る道。猿沢の池を右に見て進みます。

 その先は、左手に興福寺、右方向に猿沢の池を眺めながら、真っ直ぐに東に向けて進みます。正面の奥にあるのは、春日大社の境内です。

 多くの鹿が戯れる、奈良公園の景色を見ながら、古代の人の足跡を踏みしめます。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]23・・・最終回(白河宿と白河城下)

 最終回

 

 「歩き旅のスケッチ[奥州道中]」は、今回が最終回。ようやく、陸奥(みちのく)への玄関口、白河の宿場町に辿り着くことができました。

 この街道は、宇都宮の中心地近くにある、日光道中との分岐点(追分)が出発点。その先は、宇都宮の市街地を通過した後、鬼怒川を越えて氏家へ。そして、丘陵地帯を北上し、大田原、芦野の地を経由して、下野と奥州との国境に至ります。最後は、白坂の宿場から白河の中心地へと歩を進め、白河宿に入ることになるのです。この間、80数キロの道のりを6日間をついやして歩き通すことができました。

 江戸時代に整備された五街道。私たちは、ここ、奥州道中を最後にして、すべての道を踏破することになったのです。

 

 

 白河宿

 一番町を過ぎた後、街道は、右方向に進路をとって、しばらくの間、東向きに進みます。この辺りは天神町。道沿いは、少し昔の商店街の様相です。かつての老舗のような建物も、ところどころに見られます。

 

※立派な蔵が並んだ建物も見られます。味噌や醤油の醸造所のようです。

 

 街道はその先で、クランク状に折れ曲がる、宿場町特有の道筋を通ります。この屈曲した道のところには、「奥州街道と白河の城下」と記された、下のような案内板がありました。

 白河の概要が良く分かる案内板。その内容を紹介させて頂きます。

 

 「小峰城白河城)は、慶長年間(1596~1615)頃に城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代藩主丹羽長重(にわながしげ)によって屋敷地の拡張が図られるとともに、石垣を多用した城郭に改修されました。」

 「白河藩の成立や城郭の改修とあわせて、奥州街道沿いに城下町も発展し、商人や職人が居住して大きな賑わいを見せていました。」

 「記録によれば、寛文年間(1661~73)の城下の町人は7,500人余りで、武家人口とあわせた城下の総人口は1万5,000人ほどと推定されます。現在の福島県では、会津若松会津藩)に次ぐ規模を誇っていました。」

 

※「奥州街道と白河の城下」の案内板。

 

 中町

 クランク状の角地の先は、中町と呼ばれる地域です。ここも、真っ直ぐに、東に向けて進みます。この辺り、昭和期の商店街の雰囲気で、小さなお店が並んでいます。

 

※中町を通る街道。

 

 少し寂しい道筋ではありますが、少し前の時代には、白河市の中心地だったのかも知れません。由緒ありそうな門構えの屋敷もあって、わずかながらも、街道筋の面影が残っています。

 道路上の標識は、白河駅に向かう角まで、0.1キロを示しています。私たちの街道歩きも、いよいよ、終着点に近づきます。

 

白河駅に接近した中町の町並み。

 

 白河駅

 やがて、街道は、白河駅と結ばれる交差点を迎えます。この角を左に向かうと、JR東北本線白河駅

 私たちは、駅へと向かい、ここで、奥州道中歩き旅を完結することになりました。

 関東北部の中心地、宇都宮を出発し、いつの間にか東北の玄関口、白河駅が目の前に。ここまで、80数キロの道のりを歩き終えることになりました。普通ならこの距離は、そう簡単に歩き通せるものではありません。それでも、古(いにしえ)の風景を思い描いて歩いていると、何故か、街道や宿場の魅力に取りつかれてしまうのです。

 

※街道を左折し、白河駅に向かいます。

 

 白河城

 白河駅のホームから、直ぐ近くにそびえ立つ、可憐なお城を眺めていると、東北の地に歩みを進めた感慨が、どこからともなく湧きあがってきたものです。

 この周辺は、わずかに、150年を遡った時代には、大きな内戦が繰り広げられたところです。今では、そんな歴史をどこかに隠して、平和な空気が覆っています。

 

白河城

 

 後書

 街道歩きを終えた後、私たちは新白河で1泊し、翌日、白河の周辺を少しだけ巡ることになりました。

 まず、奥州街道の先線の本町へ。そこには、脇本陣跡の建物も。柳屋と呼ばれるこの脇本陣には、新選組斎藤一一行が宿泊し、ここから、白河口の戦いに出陣したということです。

 

※白河宿柳屋脇本陣

 

 先のブログで触れた通り、私たちは、この日、白河の関跡へと向かうことになりました。白河の関についての詳細は、「歩き旅のスケッチ[奥州道中]20」の記事をご覧いただければと思います。

 この関所、その記事でも記したように、江戸時代に整備された奥州道中の道筋にはありません。道中から、およそ5キロ東を通る、古代からの道沿いに、設けられた関門です。

 芭蕉曾良も、奥州道中の道をそれて訪れた関所跡。もう一度、関跡の風景をご覧いただければと思います。

 

白河の関跡。

 

 終わりに

 

 軽い気持ちで歩き始めた中山道。京都・近江から、少しずつ、先を目指して歩きつなぐと、いつの間にか美濃の地へ。そして、木曽・信州を経て上州へ。いつの日か、関東平野を南下して、日本橋に辿り着くことができました。その後は、東海道甲州道中を制覇して、日光へと向かうことになったのです。こうなれば、奥州への街道も置き去りにはできません。結局、五街道のすべての道を歩き通すことになりました。

 およそ8年の歳月をかけ、歩きつないだ五街道。踏破した直後には、続けての目標は全く白紙の状態でした。思考の中では、日光道中奥州道中の時々に、芭蕉の影を見てきたために、その先の「奥の細道」へも行こうかとも思いつつ、決心はつきません。

 

 そうこうと、考えていたところ、北国街道のことについて、何回か触れる機会がありました。調べてみると、往時の道もよく残っている感じです。近江、越前、越中、越後、そして、信州にまでも繋がっている街道は、相当の長丁場。どこまで歩くことができるのか、自信などはありません。それでも、昨年の晩秋に、軽井沢近くにある、中山道追分宿を訪れて、そこから長野善光寺へと歩みを始めてみたのです。いつの日か、また、このブログの中で、北国街道の風景をお伝えできればと思います。

 

 と言う訳で、次回からは、昨年春に訪れた、奈良県の”山の辺の道”の歩き旅を紹介したいと思います。春の奈良、お水取りから始まって、新緑あふれる初夏までは、本当に爽やかな空気に包まれます。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]22・・・白河宿へ

 終着点

 

 奥州道中の終着点は、白河の宿場を過ぎて阿武隈川を渡った先の、女石追分(おないしおいわけ)のところだと言われています。ただ私たちは、前日に大田原の宿場を発った後、ここ白河まで、2日間で40数キロの道のりを歩き続けてきたために、体力の限界が近づいてきた感じです。そのために、勝手ではありますが、追分までは歩かずに、白河の宿場町を終着点と決めました。

 宿場町は、JR白河駅にもほど近く、交通も便利です。あと、もう少しで阿武隈川とは知りながら、区切りの良いこの地点で旅を終えても、後悔はありません。自分自身で納得し、いよいよ、最後の宿場町、白河宿へと向かいます。

 

 

 戊辰戦争古戦場跡

 街道は、正面の緑の丘に突き当たり、そこから、大きく右方向に進路を変えて、丘の縁に沿うように進みます。

 道が湾曲するところには、「戦死墓」と刻まれた、大きな石碑と、小さな祠がありました。石碑の傍には、「戊辰の役古戦場」の説明板。この辺りで、明治維新時の内戦が繰り広げた様子です。

 

※丘に突き当たり右方向に進路を変える街道。

 ここで、少し長くなりますが、戊辰の役についての説明板の内容を紹介したいと思います。

 

 「市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応四年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩長大垣等の西軍が大挙して三方から白河を攻めた。東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、閏(うるう)四月二十五日、会津兵は一旦西軍を退けたが、五月一日、再び来襲したので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退のやむなきに至り小峰城白河城)は遂に落城、城郭は焼失した。戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めた。」

 「この白河街道の左曲する南側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津戦死者の墓と会津藩松平容保(まつだいらかたもり)の題字の銷魂碑がある。」

 

 わずか、150年ほど前の出来事ではありますが、今の世と余りにもかけ離れた戦いは、いくら想像してみても、現実味がありません。それでも、ウクライナや中東などの動きを見れば、しっかりと、事実を見据えなければならないと、改めて自戒した次第です。

 

戊辰戦争の戦場となった稲荷山の麓。

 

 松並から九番町へ

 「戦死墓」の石碑があったところから、街道は、緩やかな坂道を進みます。ほどなく、新しい住宅地。

 松並と呼ばれるこの地域、稲荷山の丘の麓を取り巻くように続きます。

 

※松並の住宅地。

 

 ぐるりと回り込んだ街道は、その先で、九番町に入ります。この辺り、町名と言い、町並みと言い、やや年代を感じるところです。江戸期からの町かどうかは分かりませんが、次第に市の中心部に近づいてきた雰囲気です。

 

※九番町を進む街道。

 

 しばらくすると、小高い丘は後方に退いて、街が一気に開けます。街道が、七番町から三番町へと進んで行くと、その先で小さな川を渡ります。

 道沿いは、民家が軒を連ねて、旧市街地の様相へ。奥州道中最後の宿場は、もう間もなくのところです。

 

谷津田川を横切る三番町辺りの街道。

 

 高湯山(たかゆさん)道標

 三番町に続く町は、二番町。ここには、ひとつのT字路があり、その角に、「高湯山道標」と記された、古い石造りの道標と説明板がありました。

 ここでは、真っ直ぐ延びる街道に、左手から、ひとつの道が合流します。道標は、「左 江戸海道」「右 那須道」と標記され、街道の分岐点だったことが分かります。

 勿論、「江戸海道」は奥州道中のことでしょう。

 

※高湯山道標。

 

 この、”高湯山”という言葉。この付近の古い地名のようにも思えます。ところが、実は、この名前には、深い理由があるようです。

 詳しくは分かりませんが、”高湯山”は、那須嶽信仰の名称だというのです。信仰の対象の霊場は、那須茶臼岳の西にある、”御宝前(ごほうぜん)”と呼ばれている温泉の湧出地。ここへの登り口は2か所あり、その一つが、”高湯山”だと言うのです。

 芭蕉曾良も訪れた、那須湯本温泉神社。この神社こそ、”高湯山”の入口です。その昔、この地方の人々は、白河のこの地から「那須道」を辿り進んで、”高湯山”へと向かわれたのだと思います。

 

 白河宿

 さて、二番町のすぐ先は、一番町が隣接します。この辺り、老舗の店舗の建物が何軒か見られます。

 下の写真の建物は、呉服屋の奈良屋さん。趣ある松の樹形が良く映える、瀟洒な感じのお屋敷です。

 

※一番町の町並みと奈良屋さん。

 

 白河宿は、先の白坂の宿場からおよそ10キロ離れています。白河藩の城下町として、或いはまた、街道の拠点として発展してきたところです。

 この宿場には、本陣が1軒と、脇本陣が2件あり、旅籠は35軒ありました。今はもう、宿場町の面影は、ほとんど見ることができません。それでも、東北への玄関口の位置づけは、今も昔も変わりがないのだと思います。

 

 少し寂し気な、かつての宿場町の道筋を、ここまでの道中を思い出しつつ進みます。

 

※かつての白河宿の町並み。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]21・・・白坂宿から白河宿へ

 白河市

 

 栃木県との県境にある東北最初の自治体は、福島県白河市陸奥(みちのく)への入口として、古くから重要な場所でした。古代から中世には、白河の関所が設けられ、厳しく、往来が取り締まられていたところです。江戸時代には、五街道のひとつである奥州道中が整備され、その起終点の町として、大変な賑わいだったと思います。

 白河は、また、城下町でもありました。今も、JR東北本線白河駅の北側には、ほっそりとした華奢な姿の天守閣が望めます。幕末から維新にかけて、旧幕府側と新政府とが争った、戊辰戦争の戦地にもなった白河の町。街道が通過する、白坂の宿場においても、その影響は少なからず及んでいたようです。

 

 

 本陣跡

 宿場町を歩いていると、広い敷地の住宅の片隅に、「本陣跡 河内屋 白坂家」と表示された案内板がありました。

 そこには、白坂家の説明として、「元白河結城家の家臣、佐藤と称し市内大和田(白河市の北部)に住す。」と書かれています。白坂家は、その後の白河城主に命じられ、大和田からこの地に移り住み、本陣など、宿場の重要な役割を任ぜられたということです。

 

※本陣跡。

 

 戊辰戦争

 ところで、冒頭でも触れたように、明治維新で揺れ動いた国内の動向は、旧幕府を擁護する会津などの勢力と、薩長土肥を中心とする新政府軍が対立し、激しい戦いを繰り広げることになりました。

 白虎隊で有名な、会津若松での戦いは、良く知られたものですが、この戦いに派生した、幾多のつばぜり合いは、各地で発生していた様子です。ここ、白坂の宿場でも、重要人物が襲撃を受けるなど、何度も血が流されたということが、地元の資料に書かれています。

 さらに、本陣をあずかっていた白坂家16代、白坂市之助という方は、会津兵に間違えられて、官軍に惨殺されたということで、痛ましい限りです。(この内容は、上の写真の案内板にも書かれています。)

 

 宿場の外れ

 街道は、この後、右方向に湾曲する、坂道に入ります。この坂の途中には、「白坂宿 北入口 木戸跡」の表示です。白坂の宿場町は、この辺りまで。ここからは、奥州道中最後の宿場、白河宿を目指します。

 

※白坂宿の北入口。

 

 丘伝い

 坂道の上り下りと、大きな湾曲を繰り返し、丘陵地の中を進みます。道は、整備された国道294号線。白坂と白河とを、最短距離で結んでいる道路なのだと思います。

 

※丘陵地の中を通る国道伝いに歩きます。

 

 街道は、まだしばらく、木々が覆う山道を通ります。それほど険しくはないものの、ひと山越えて、さらに奥の地へと向かうような道筋です。

 

※山の中を通って白河へと向かう街道。

 

 時に、山の尾根を越えながら、少しずつ、北に向かって進んで行くと、前方に集落があり、さらにその向こうには、なだらかな裾野を広げた、美しいひとつの峰が見えました。

 まだ、頂の付近には、白い雪が残っています。見とれるようなこの峰は、いったい、どこの山でしょう。もしかして、磐梯山?とも思えるような位置関係。今更ながら、東北の地に達したのだと、感慨を深めたものでした。

 

※丘陵地を抜けた先に見える集落と磐梯山?。

 

 皮籠(かわご)

 丘陵地を下った先は、皮籠と呼ばれる集落です。交差点の手前に置かれた、道路標識が示すように、ここを左に向かえば、JR東北本線の白坂駅。この先、鉄道は、白坂駅→新白河駅白河駅、の順番に北の地に向かいます。

 

※皮籠の集落の入口。

 

 交差点を過ぎた後、皮籠の集落に入ります。道沿いには、立派な屋敷が軒を連ね、前庭の植え込みは、美しい容姿を誇っています。

 

※皮籠の集落を通る街道。

 

 丘の町

 皮籠の集落を通り過ぎると、再び、緩やかな坂道に変わります。道は、良く整備され、空も大きく開けたような感じです。

 道は、丘陵地へと上るのですが、今度は山の中ではありません。次第に、新しく開発された、近代的な街の様子に変わります。道路標識のところにも、「新白河ライフパーク」や「新白河ビジネスパーク」の道案内がありました。

 

※新しく開発されたような開発地を通ります。

 

 市街地へ

 開発された丘陵地の交差点を横切ると、もう一度、木々が茂る丘の中を進みます。その先は、住宅地が広がる下り道。そして少しの間、街道は、右方向の旧道に入ります。

 この辺り、市街地の周辺の、里山のような雰囲気で、小さな池なども見られます。

 

※再び丘陵地を通る街道。

 

 老久保(おいくぼ)

 旧道を抜け出ると、再び、国道の道に戻ります。そして、少し大きな交差点。この辺りには、郊外型のお店が並び、車の出入りも頻繁で、活気がありそうなところです。

 

※老久保の交差点辺りの様子。

 

 交差点を通り過ぎると、幾つかの店舗なども並んでいますが、次第に農地が広がり、その先で、静かな住宅地に入ります。

 街道の前面には緑の帯が先を横切り、道は、その中に吸い込まれるようにして、真っ直ぐに続いています。

 

※老久保の先線。

 

 白河宿へ

 白河の宿場までは、あともう一息というところ。この丘を越えた先には、古くからの白河の町があるはずです。

 いよいよ、奥州道中の歩き旅も終着点に近づきます。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]20・・・白坂宿へ

 白河の関

 

 奥州に入った街道は、この先、白坂の宿場を通り白河へ。奥深い、東北の玄関口に向かいます。江戸時代に整備された五街道。奥州へと向かう道は、白河の宿場町の外れ辺りで終点を迎えます。

 その後は、仙台道や松前道など、様々な地方の街道が、奥州の国を巡ります。

 時代はさらに遡り、中世や古代に至っても、蝦夷(えぞ・えみし)と呼ばれた、東北の地へと向かう街道はありました。その頃のこの辺りの主要な道は、奥州道中のさらに東の山の中。江戸時代の道筋よりも、やや深い山々のすき間を通り抜けていたようです。その頃に、下野と奥州の国境に設けられた関門が、白河の関と呼ばれています。

 余りにも有名な、白河の関ですが、この関所跡、奥州道中の沿線からは、5キロほど東に離れています。「歌枕(うたまくら)」の地としても、古くから名を馳せた白河の関奥の細道の旅を続けた芭蕉曾良の、目指すべき一つの場所でもありました。

 

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」と、書き記した、『おくのほそ道』の巻頭文にも、「春立る霞の空に、白川(ママ)の関こえんと・・・」の一文がしたためられているのです。

 

 2人は、奥州道中の国境(くにざかい)、境の明神を過ぎた後、白坂宿へと向かう途中で、街道を右にそれ、奥の山へと進路を変えて、白河の関跡へと向かうことになるのです。

 私たちは、街道歩きを終えた翌日に、車で、その地を見届けることになりました。芭蕉の姿を追いながら、陸奥(みちのく)に辿り着いた歩き旅。いつの日か、その先の、奥の細道の道筋にも足を運べたらと思います。

 

 

芭蕉も訪れた白河の関跡。

 

 道筋の整理

 位置関係を、もう少し分かり易くするために、下に、簡単な地図をお示ししたいと思います。おおよそ、青の矢印が、奥州道中の道筋で、赤が、芭蕉曾良が辿り歩いたルートです。「明神の地蔵様」と書かれた辺りが、奥州道中の国境。その先の緑の🏴が、白坂の宿場です。

 芭蕉達は、青の道で国境を越え、白坂へ。そして、その直前で赤の道へと進路を変えて、で示した白河の関跡に向かいます。その後、幾つかの🏴で示した史跡を訪ね、阿武隈川を渡ることになるのです。

 

Google Mapsより。奥州道中のルート。芭蕉達が脇道へとそれ、白河の関跡を訪れ、その後白河へと向かったルート。

 

 

 峠を越えて

 境の明神の参詣を終えた後、再び、国道294号線の街道を歩きます。道は、緩やかな下り坂。この先の白坂の宿場まで、もうそれほど距離はありません。

 

※白坂宿に向けて緩やかに下る街道。

 

 しばらくすると、目の前に、一つの小さな集落が。峠を越えて早々に、奥州の最初の集落に出会います。

 下野と奥州との国境は、山の中とは言うものの、それほど険しい場所ではありません。そこここに集落も点在し、安心して歩けるところです。

 

※奥州最初の集落が近づきます。

 

 白河の関跡への分岐

 集落が近づくと、左手の山際に、石仏や石塔が林立した一角が現れます。古くからの街道の名残りのようで、懐かしい雰囲気を感じます。

 そして、道路際には、幾つかの道案内の表示板。直進は、白河市の名所などが案内されて、中央の1枚が、「白河の関→ 6.5K m」と書かれています。少し分かりにくいと思いますが、下の写真の右端の民家の前を、右に向かう山道があり、そこを上ると、白河の関跡に辿り着くことができるのです。

 芭蕉曾良は、おそらく、この道を伝いながら、関所跡に向かったのだと思います。

 これまでも、折に触れ紹介してきた『曾良旅日記』。その中の、国境の記述の次には、次のように書かれています。

 

 「これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。」

 

 この記載の「古関」こそ、白河の関跡です。まさに、標識通りの道を辿った証の記事だと思います。

 

※石仏石塔群と白河の関跡への分かれ道。

 

 白坂宿

 街道は、その先で、白坂の宿場町に入ります。そこには、新しい標識が置かれていて、「奥州道中 白坂宿 南入口木戸跡」「白河宿へ7.5km」と書かれています。

 真っ直ぐ延びる街道筋は、ごく普通の集落で、宿場町の面影はありません。かつての町並みを想像しながら、先を目指して歩きます。

 

※白坂宿の南の入口。

 

 白坂宿は、前の宿場の芦野宿から、およそ12キロ離れています。元々は、宿場ではなかったものの、芦野・白河間が離れているため、地元の要望に基づいて、宿駅になったということです。*1

 この宿場、かつては、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は27軒ありました。地元発行の資料によれば、本陣と脇本陣の他、

 

 「準脇本陣として、亀屋、若松屋、大旅館は丁子屋、若野屋、鶴屋、大島屋、中丁子屋、角屋、松坂屋、丸屋、品川屋、常陸屋、大谷屋、他に小旅館二十余軒。」

 「旅館には飯盛りと称する娼婦がいて多いところは八十九人、少ないところでも二十三人、その他芸者、料理屋あり三味の音が昼夜たえることなく賑わい、その盛況ぶりはまさに奥州街道随一の宿駅であった。」

 

 と書かれています。

 かつての宿場町を歩いていると、道沿いの田んぼの脇に、「脇本陣跡」と記された、案内板がありました。繁栄を極めた町も、今は、どこか寂し気な、山あいの集落の様相です。

 

脇本陣跡。

 

 落ち着いた、家並みを眺めながら、さらに北へと向かいます。街道は、この先、右に大きく弧を描く、緩やかな上り道。宿場町の後半を迎えます。

 

※白坂宿の後半に入る街道。

 

*1:白坂宿顕彰碑実行委員会発行、「奥州道中 白坂宿」のパンフレットによります。以下、記述する資料は、これによります。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]19・・・国境と境の明神

 二所之関

 

 街道は、いよいよ、陸奥(みちのく)の地に入ります。下野と奥州との境界は、東西に小高く連なる尾根の上。坂道を上った先の、峠あたりに境界線が通っています。

 この峠には、下野側と奥州側に、それぞれ、由緒ある神社が佇みます。玉津島明神と住吉明神の2つの神社。芭蕉と共に旅をした、曾良が記した『曾良旅日記』には、「関明神、関東ノ方ニ一社、奥州の方ニ一社、間廿間計有」と書かれています。

 今では、境の明神という名で知られる、国境の2つの神社。別名、”二所関”とも呼ばれています。”二所関”、とは、相撲部屋の名前として、時々耳にするものですが、その語源になるのが、この”二所関”だと言われています。

 芭蕉の時代から、国境に鎮座する2つの神社は、長い月日の流れの中で、いつの日も、街道の往来を見守ってくれているのでしょう。

 

 

 泉田の一里塚

 寄居の集落を通り過ぎ、国道に戻った街道は、緩やかな上り道を進みます。

 しばらくすると、左前方に、それと分かる一里塚が見えました。この一里塚、泉田の一里塚と呼ばれています。美しく整えられた姿を見ると、大切に保存されていることが分かります。

 

※緩やかな坂道を進んで行くと、一里塚が見えてきます。

 

 一里塚の前面には、しっかりとした案内板も置かれています。この中に記載されてはいませんが、泉田の一里塚は、下野最後の一里塚。奥州との境界は、もう、それほど先ではありません。

※泉田の一里塚。

 

 国道と旧道

 国道と国道傍の旧道を交互に辿りながら、山間の道を進みます。道端には、石像なども残っていて、街道の名残りを伝えています。

 

※石像などが残る街道筋。

 

 やがて、右に大きく迂回する旧道も現れますが、ほどなく、国道に舞い戻るという状況です。

 

※山中の集落に向かう旧道。

 

 山中という集落を通り過ぎると、再び国道に入ります。この辺り、もう道沿いには、農地ができる空間はありません。左右から山が迫り、道筋だけがその隙間を埋めている状態です。

 

※左右から山が迫る国道。

 

 国境へ

 道は、少しずつ標高を高めながら、奥の地へと向かいます。この辺り、急勾配ではないために、それほど身体に負担はかかりません。国境の風景を楽しみに思い描きながら、足取りを進めます。

 しばらくすると、立派な、馬頭観音像。ここにも、街道の風景が残っています。

 

※左、山の中をすり抜ける国道。右、道路脇に残る馬頭観音像。

 

 最後の集落

 さらに進むと、今度は、左上の崖地の上に、これも大きなお地蔵さんが見えました。「明神の地蔵様」と呼ぶようで、傍には、石像なども置かれています。

 道の先の集落は、それほど戸数はありません。地図を見ると、もうそろそろ、国境。下野(しもつけ)最後の集落かも知れません。

 

※明神の地蔵様が置かれた街道筋。

 

 街道は、大きく右に曲がります。その先は、少し勾配を増した上り坂。一気に、尾根の上へと向かいます。

 道沿いには、まだ、何軒かの民家が見られます。斜面伝いのわずかな場所で、畑作などが行われているようです。

 

※尾根に向かって勾配を強める街道。

 

 国境(くにざかい)

 坂道の勾配が、さらに強まったところには、栃木県の境界ゲート。「お気をつけて」と書かれています。目の前は、峠でしょうか。坂道が頂のような状態で、その上に、「福島県」「白河市」と表示された標識が置かれています。

 上り坂の左には、鳥居の姿もありました。これが、冒頭で紹介した、下野側に置かれた神社、玉津島明神なのでしょう。

 いよいよ、国境(くにざかい)。街道は、陸奥(みちのく)を迎えます。

 

※国境を視野に捉えた街道。

 

 玉津島明神

 鳥居の前まで足を運ぶと、その傍に、「境の明神 玉津島神社」と表示された表示柱がありました。

 私たちは、境内へと歩を進め、本殿前で参拝です。

 

 『曾良旅日記』には、この辺りの様子について、次のように記しています。

 

 「両方ノ門前二茶や(ママ)有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。」

 

 かつては、この門前に、峠の茶屋があったのでしょう。往き交う人は、2か所ある境の明神に参詣して、茶屋で一息入れたのかも知れません。

 

※津島明神(下津側)。

 

 国境の峠

 玉津島明神を後にした街道は、ほどなく、峠を迎えます。ここが、下野と奥州の国境。いよいよ、街道は、陸奥(みちのく)の地に入ります。 

 

 住吉明神(境神社)

 国境を越えたすぐ先は、今度は、住吉明神の鳥居です。私たちは、ここでも参拝の柏手を打ちました。

 

住吉明神(境神社)

 

 境の明神

 ここまで、2つある境の明神の名称を、下野側=玉津島明神、奥州側=住吉明神、として紹介してきましたが、実は、反対に書かれた資料もあるため、少し注意が必要です。

 この混乱を解決する糸口が、奥州側の住吉明神の説明板に書かれていたので、少し紹介したいと思います。

 

 「旧奥州街道に面して、陸奥福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が二社並立している。陸奥側の境の明神は、玉津島明神を祀り、下野側の明神は住吉明神を祀っている。」(注:この段階で神社名は反対になっています。)

 「玉津島明神(女神・衣通姫(そとおりひめ))と住吉明神男神中筒男命)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。」

 

 つまり、どちらも、津島明神であり住吉明神であるという、不思議な状態が、ここ、境の明神では、受け入れられているのです。

 

※奥州側の住吉明神本殿。

 街道は、国境を過ぎた後、奥州最初の宿場町、白坂宿へと向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]18・・・国境へ

 国境の町

 

 下野の国を北進してきた街道は、国境の町、那須町を進みます。この町の西の地域は、那須高原で有名ですが、反対の東側は、幾重にも重なる山々が、厚い壁をつくっています。そして、この壁の中心が、下野と常陸の国、陸奥の国の境界にある八溝山(やみぞさん)。

 街道は、八溝山の裾野に広がる山の合間をすり抜けるようにして、陸奥の国との国境に向かいます。

 

 

 国道へ

 横岡の集落で、旧道に入った街道は、その後、国道294号線に戻ります。この国道は、大田原市の黒羽辺りから、山間を通り抜け、白河へと向かうルートです。

 一方で、幹線道路の国道4号線と東北自動車道路などは、西寄りの那須塩原辺りから白河を目指しています。

 東西に別々のルートを辿る国道は、この後、陸奥の国の玄関口、白河で収れんされていくのです。

 

※再び国道を進む街道。

 

 板屋

 しばらく、国道を歩いた先で、右側の旧道に入ります。この辺り、道路伝いに、わずかな農地が張り付く地形。山と山とのすき間を縫って、人々の営みの土地がつながります。

 

※板屋の集落へと向かう旧道へ。

 

 旧道に入った街道は、間もなく、奈良川と表示された小さな川を横切ります。奈良川は、この先も、街道に寄り添うように流れています。おそらく、この山あいの谷を開いてきた、古くからの流れなのだと思います。

 

※奈良川を渡り、板屋の集落に向かいます。

 

 旧道は、この後、板屋の集落を通ります。道は、少しずつ、上り調子となりますが、それほどの勾配ではありません。

 農家の脇を通り抜け、小さな丘へと向かいます。

 

※板屋の集落を通る街道。

 

 板屋の一里塚

 集落の坂道を上っていくと、切り通しの崖地のところに、「板屋の一里塚」の表示板がありました。

 「近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえない」、と説明書きにあるとおり、おぼろげにしか分からない状態ですが、確かにここが、江戸から44里目の一里塚なのでしょう。

 下野の国の一里塚は、残すところあと1か所。次第に、国境が近づきます。

 

※板屋の一里塚跡。

 

 街道は、緩やかな下り道に変わります。のどかな、集落の風景が続く道。ところどころに、桜の花も見られます。

 

※のどかに続く集落を歩きます。

 

 高瀬

 旧道を進む街道は、やがて、高瀬の集落に入ります。ここには、左に折れて、国道につながる道もありますが、街道は、道なりの方向です。

 道端の案内表示は、「白河の関跡8.9KM」「芦野(遊行柳)2.8KM」と書かれています。

 

 白河の関

 ちなみに、「白河の関跡」は、奥州道中の道沿いにある訳ではありません。私自身も、当初は混乱していましたが、白河市の資料には、

 

 「関の設置年代は5世紀前半頃と認識されていたようである」また、「10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに、官関の機能は失われ、「白河の関」は枕詞として都人の情景の地へと変化する。」

 

 と書かれています。地図を見ても、関所跡は、奥州道中から4キロほど東方の山の中に位置しています。おそらく、古代の街道が、その山中を通っていたのでしょう。

 芭蕉曾良は、陸奥(みちのく)に足を踏み入れた後、白坂の宿場の手前で、東の山に向かいます。そして、この「白河の関跡」を訪ねることになるのです。

 

※道案内表示がある高瀬の集落。

 

 国道へ

 高瀬の集落を過ぎた街道は、右から迫る山並みの裾伝いに続きます。そして、その先で、再び国道へ。

 

※左、高瀬の集落。右、国道に合流する街道。

 左右から迫りくる山並みのすき間を縫って、国道は北上します。この辺り、農地の幅も、幾分狭まってきたような印象です。

 国道先の右手には、大きな石灯籠。往時から、街道を照らしていたのでしょうか。舗装道さえ無かったら、往時の様子が、そのまま残されているような風景です。

 

※石灯籠が残る国道筋。

 

 寄居

 国道沿いに開けた土地は、次第に先細っていくように感じます。目の前に確認できる集落の向こうには、左右からの稜線が重なるような状況です。

 

※次第に農地が減少する街道伝い。

 

 やがて、集落が近づくと、左手の方向に、「寄居」と書かれた標識です。そして、道路の案内は、直進が白河で、左に向かうとJR東北本線の豊原駅につながっているようです。

 街道は、ここで一旦、国道から左にそれて、寄居の集落に入ります。

 

※寄居の集落に入る街道。

 道沿いに、点々と並ぶ住宅は、赤いトタンの屋根が特徴的で、平屋的な構造の、一風変わった建前です。

 かつての街道筋の雰囲気が、それとなく感じられる家並みには、山間の静かな空気が流れています。

 

※寄居の家並み。

 

 旧道が、集落の真ん中で折れ曲がる辺りには、左に分かれる県道がありました。この県道を進んだ先が、豊原駅になるのでしょう。街道は、右に大きく湾曲し、寄居の後半の集落に向かいます。

 道は次第に上り坂。途中には、旧家の建物跡なども見られます。

 この寄居、かつては、”間の宿”(あいのしゅく)と呼ばれていたところです。公式の宿場間に距離が開いている場合、その中間辺りに設けられた休憩所の位置づけです。

 東海道中山道では、よく見かけた”間の宿”。奥州道中の道筋では、あまり無かったような気がします。

 朽ちた感じの旧家の前を通り過ぎ、国道の方向へと向かいます。

 

※寄居の集落の後半へ。白河の関まで6.2KMの表示があります。

 

 国道へ

 街道は、寄居の集落を通り過ぎ、国道に戻ります。

 道は、国道と鋭角に交わりますが、その直前に、右に向かう細い道が見られます。その入り口辺りには、「関東ふれあいの道」の表示柱。そして、半分壊れた、「白河の関」とも判読できる案内表示がありました。

 

※国道との合流点。左に表示柱があり、右に細道があります。

 

 白河の関への道

 細道は、下の写真のような状況です。道を伝うとすぐ先が国道で、その向こうには、山に入る坂道が見通せます。

 この坂道を4~5キロ進んだところにあるのが、先に触れた「白河の関跡」。芭蕉達も、この道をうらめしく眺めながら、街道を国境へと向かったのだと思います。

 

※「白河の関跡」に通じる細道と山道。

 

 曾良が記した『曾良旅日記』。この地点の一文を紹介させて頂きます。

 

 「芦野ヨリ一里半余過テヨリ居村(寄居村)有。是ヨリハタ村(旗村)ヘ行バ、町ハヅレヨリ右へ切ル也」

 

 「是ヨリハタ村(旗村)ヘ行バ」とは、旗村に「白河の関跡」があるのを十分承知していた芭蕉曾良が、”寄居の町はずれから右に曲がって旗村に行けば、「白河の関跡」に行けるのだが”と、思いを巡らせているようにも思えてくるのです。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]17・・・芦野宿

 奥の細道

 

 越堀(こえぼり)の宿場町辺りから街道を西にそれ、高久へと足を向けた芭蕉曾良は、那須温泉を訪れて、温泉神社に参詣します。そして、神社近くにある、殺生石(せっしょうせき、謡曲の舞台にもなっています)を訪ねることになるのです。*1

 

  湯をむすぶ 誓ひも同じ 石清水

 

 その後2人は東に向かい、芦野の宿場で奥州道中に入ります。ここまでの2人のルートは、ほとんどが奥州道中を避けてでもいるように、東に西に、ジグザグの道を辿っています。そして、この芦野からしばらくは、忠実に、奥州道中を進むことになるのです。

 私たちは、ここで再び、芭蕉の姿を追いながら、街道歩きを続けます。

 

※茶色の線が奥の細道のルート図(”奥の細道むすびの地記念館”(大垣市)の展示パネルより)。青線(⇒)は、日光道中から奥州道中のルート。芭蕉達は、青ルートを挟んでジグザグに進んでいます。

 

 芦野宿へ

 芦野温泉の湯宿を発って、奥州道中に戻ります。前日歩いた旧道を、少しだけ先に向かうと、元の県道と合流です。

 周囲一帯は、盆地のような平地のすき間に、水田地帯が広がります。

 

※旧道から県道に戻ります。

 

 農地に挟まれた県道を進んで行くと、その先で、信号のない交差点を迎えます。左右を横切る広い道は国道294号線。これから先は、この道を軸としてして、街道は奥州の地へと向かいます。

 ただここは、この交差点を横切って、真っ直ぐに、向かいの集落に入ります。この集落こそ、次の宿場町、芦野宿になるのです。

 

※国道と交差する県道。街道は直進です。

 

 芦野宿

 集落に踏み入ると、辺りの様子は一変します。そこは、どこか懐かしく、郷愁を感じる光景が広がります。

 小川に架かる小さな橋、寂しく残る並木の名残り、そして、地蔵尊の祠でしょうか。子どもの頃に見たような、農村の町並みが続きます。

 

※どこか懐かしい芦野宿の入口辺りの風景。

 

 街道は、この辺りから、芦野の宿場町に入ります。前の宿場の越堀宿から、およそ9キロの地点です。

 芦野宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅篭は25軒ありました。それほど大きくはない宿場町ではありますが、ここは、下野の最後の宿場。この先はもう、陸奥(みちのく)の、白坂宿になるのです。

 

※宿場町特有の屈曲した曲がり角がある道筋。

 

 クランク状に折れ曲がる角を過ぎると、しなやかに弧を描く道筋に入ります。この道沿いが、芦野宿の中心地。今は、往時の姿はないものの、どことなく、宿場町の雰囲気が感じられる町並みです。

 

※芦野宿の様子。

 

 仲町通り

 街道は、仲町通りと表示された道筋を進みます。かつては、この辺りに、本陣や脇本陣がありました。今は、道端のところどころに、常夜灯の形を模したモニュメントが置かれていて、そこにあった旅籠やお店の屋号などが書かれています。

 

仲町通り。

 

 「奥州道中 芦野宿」の表示柱と、「住吉屋」のモニュメントをご覧いただきたいと思います。道筋には、このようなモニュメントが、あちこちに置かれています。

 ところで、この付近には、左から宿場に入る脇道があり、そこを逆に伝っていくと、那須高原につながります。想像ですが、芭蕉達は、那須温泉を後にして、この道を歩きつつ、ここ芦野の地へと辿り着いたのかも知れません。

 

※芦野宿の表示柱とモニュメント。

 街道は、再び、クランク状に折れ曲がる、枡形(ますがた)と呼ばれる道筋を通ります。芦野の宿場は、この時代を迎えても、往時の道の流れを、忠実に残しています。

 

※再びクランク状の曲がり角を迎えます。

 

 宿場の北へ

 街道は、仲町の通りを過ぎて、宿場町の北の区域に入ります。この通りは、真っ直ぐ延びる直線道路。それでも、まだ、ところどころに、屋号入りのモニュメントが見られます。

 

※宿場町の北の区域の様子。

 

 遊行柳(ゆぎょうやなぎ)

 ここで少し話はそれて、遊行柳のことについて触れておきたいと思います。

 冒頭の写真の中で、青い矢印の先端が当たる場所に、「遊行柳」と書かれているのをご覧いただけると思います。ここは、芭蕉達が訪れた名所・旧跡で、『おくのほそ道』の本文にも、そのことが書かれています。

 

 「又、清水ながるゝの柳は、蘆野(芦野)の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此所の郡守戸部某(こほうなにがし)の「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立ちより侍(はべり)つれ。

  田一枚  植えて立去る  柳かな  」

 

 少し分かりにくい内容ですが、芦野の郡守をされていた芦野民部(文中では、”戸部”)資俊は俳人でもあり、芭蕉の弟子だったようです。この方が、遊行柳を芭蕉に見せたいと、手紙などに綴っていたのでしょう。

 そこで、この機に、2人はここを訪れたのですが、実は、遊行柳は、芭蕉が慕う西行法師も立ち寄っていたのです。

 謡曲などの演目にもあるという、遊行柳。東海道藤沢宿時宗の寺院、遊行寺とも関わりがあるようです。

 遊行柳に、西行法師の影を見て、また、時宗を広めた一遍上人を偲びつつ、芭蕉曾良は、さぞ、感慨を深めたことでしょう。

 

 この、遊行柳は、冒頭の地図では、芦野宿の南にポイントが置かれていますが、実は、「蘆野宿の北はづれ、西のかた、畑の中」(『奥細道菅菰抄』(すがごもしょう))と記されているように、今も、芦野宿の北西にある農地に残っているようです。私たちは、道端であれば立ち寄ろうと思っていたのですが、街道からは少し離れています。残念ながら、今回は寄らず仕舞いになりました。またいつの日か、訪れてみたいと思います。

 

 さて、街道は、芦野の宿場を終えて、国道へ。そして、次の集落の直前で、再び旧道に入ります。

 

※芦野宿の次の集落、横岡の旧道に入ります。

 

*1:『おくのほそ道』には、「殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰(やまかげ)にあり。石の毒気いまだほろびず。」との一文があります。芭蕉たちは、謡曲殺生石」を偲んでここを訪れたのだと思います。