旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]18・・・国境へ

 国境の町

 

 下野の国を北進してきた街道は、国境の町、那須町を進みます。この町の西の地域は、那須高原で有名ですが、反対の東側は、幾重にも重なる山々が、厚い壁をつくっています。そして、この壁の中心が、下野と常陸の国、陸奥の国の境界にある八溝山(やみぞさん)。

 街道は、八溝山の裾野に広がる山の合間をすり抜けるようにして、陸奥の国との国境に向かいます。

 

 

 国道へ

 横岡の集落で、旧道に入った街道は、その後、国道294号線に戻ります。この国道は、大田原市の黒羽辺りから、山間を通り抜け、白河へと向かうルートです。

 一方で、幹線道路の国道4号線と東北自動車道路などは、西寄りの那須塩原辺りから白河を目指しています。

 東西に別々のルートを辿る国道は、この後、陸奥の国の玄関口、白河で収れんされていくのです。

 

※再び国道を進む街道。

 

 板屋

 しばらく、国道を歩いた先で、右側の旧道に入ります。この辺り、道路伝いに、わずかな農地が張り付く地形。山と山とのすき間を縫って、人々の営みの土地がつながります。

 

※板屋の集落へと向かう旧道へ。

 

 旧道に入った街道は、間もなく、奈良川と表示された小さな川を横切ります。奈良川は、この先も、街道に寄り添うように流れています。おそらく、この山あいの谷を開いてきた、古くからの流れなのだと思います。

 

※奈良川を渡り、板屋の集落に向かいます。

 

 旧道は、この後、板屋の集落を通ります。道は、少しずつ、上り調子となりますが、それほどの勾配ではありません。

 農家の脇を通り抜け、小さな丘へと向かいます。

 

※板屋の集落を通る街道。

 

 板屋の一里塚

 集落の坂道を上っていくと、切り通しの崖地のところに、「板屋の一里塚」の表示板がありました。

 「近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえない」、と説明書きにあるとおり、おぼろげにしか分からない状態ですが、確かにここが、江戸から44里目の一里塚なのでしょう。

 下野の国の一里塚は、残すところあと1か所。次第に、国境が近づきます。

 

※板屋の一里塚跡。

 

 街道は、緩やかな下り道に変わります。のどかな、集落の風景が続く道。ところどころに、桜の花も見られます。

 

※のどかに続く集落を歩きます。

 

 高瀬

 旧道を進む街道は、やがて、高瀬の集落に入ります。ここには、左に折れて、国道につながる道もありますが、街道は、道なりの方向です。

 道端の案内表示は、「白河の関跡8.9KM」「芦野(遊行柳)2.8KM」と書かれています。

 

 白河の関

 ちなみに、「白河の関跡」は、奥州道中の道沿いにある訳ではありません。私自身も、当初は混乱していましたが、白河市の資料には、

 

 「関の設置年代は5世紀前半頃と認識されていたようである」また、「10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに、官関の機能は失われ、「白河の関」は枕詞として都人の情景の地へと変化する。」

 

 と書かれています。地図を見ても、関所跡は、奥州道中から4キロほど東方の山の中に位置しています。おそらく、古代の街道が、その山中を通っていたのでしょう。

 芭蕉曾良は、陸奥(みちのく)に足を踏み入れた後、白坂の宿場の手前で、東の山に向かいます。そして、この「白河の関跡」を訪ねることになるのです。

 

※道案内表示がある高瀬の集落。

 

 国道へ

 高瀬の集落を過ぎた街道は、右から迫る山並みの裾伝いに続きます。そして、その先で、再び国道へ。

 

※左、高瀬の集落。右、国道に合流する街道。

 左右から迫りくる山並みのすき間を縫って、国道は北上します。この辺り、農地の幅も、幾分狭まってきたような印象です。

 国道先の右手には、大きな石灯籠。往時から、街道を照らしていたのでしょうか。舗装道さえ無かったら、往時の様子が、そのまま残されているような風景です。

 

※石灯籠が残る国道筋。

 

 寄居

 国道沿いに開けた土地は、次第に先細っていくように感じます。目の前に確認できる集落の向こうには、左右からの稜線が重なるような状況です。

 

※次第に農地が減少する街道伝い。

 

 やがて、集落が近づくと、左手の方向に、「寄居」と書かれた標識です。そして、道路の案内は、直進が白河で、左に向かうとJR東北本線の豊原駅につながっているようです。

 街道は、ここで一旦、国道から左にそれて、寄居の集落に入ります。

 

※寄居の集落に入る街道。

 道沿いに、点々と並ぶ住宅は、赤いトタンの屋根が特徴的で、平屋的な構造の、一風変わった建前です。

 かつての街道筋の雰囲気が、それとなく感じられる家並みには、山間の静かな空気が流れています。

 

※寄居の家並み。

 

 旧道が、集落の真ん中で折れ曲がる辺りには、左に分かれる県道がありました。この県道を進んだ先が、豊原駅になるのでしょう。街道は、右に大きく湾曲し、寄居の後半の集落に向かいます。

 道は次第に上り坂。途中には、旧家の建物跡なども見られます。

 この寄居、かつては、”間の宿”(あいのしゅく)と呼ばれていたところです。公式の宿場間に距離が開いている場合、その中間辺りに設けられた休憩所の位置づけです。

 東海道中山道では、よく見かけた”間の宿”。奥州道中の道筋では、あまり無かったような気がします。

 朽ちた感じの旧家の前を通り過ぎ、国道の方向へと向かいます。

 

※寄居の集落の後半へ。白河の関まで6.2KMの表示があります。

 

 国道へ

 街道は、寄居の集落を通り過ぎ、国道に戻ります。

 道は、国道と鋭角に交わりますが、その直前に、右に向かう細い道が見られます。その入り口辺りには、「関東ふれあいの道」の表示柱。そして、半分壊れた、「白河の関」とも判読できる案内表示がありました。

 

※国道との合流点。左に表示柱があり、右に細道があります。

 

 白河の関への道

 細道は、下の写真のような状況です。道を伝うとすぐ先が国道で、その向こうには、山に入る坂道が見通せます。

 この坂道を4~5キロ進んだところにあるのが、先に触れた「白河の関跡」。芭蕉達も、この道をうらめしく眺めながら、街道を国境へと向かったのだと思います。

 

※「白河の関跡」に通じる細道と山道。

 

 曾良が記した『曾良旅日記』。この地点の一文を紹介させて頂きます。

 

 「芦野ヨリ一里半余過テヨリ居村(寄居村)有。是ヨリハタ村(旗村)ヘ行バ、町ハヅレヨリ右へ切ル也」

 

 「是ヨリハタ村(旗村)ヘ行バ」とは、旗村に「白河の関跡」があるのを十分承知していた芭蕉曾良が、”寄居の町はずれから右に曲がって旗村に行けば、「白河の関跡」に行けるのだが”と、思いを巡らせているようにも思えてくるのです。