旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]19・・・国境と境の明神

 二所之関

 

 街道は、いよいよ、陸奥(みちのく)の地に入ります。下野と奥州との境界は、東西に小高く連なる尾根の上。坂道を上った先の、峠あたりに境界線が通っています。

 この峠には、下野側と奥州側に、それぞれ、由緒ある神社が佇みます。玉津島明神と住吉明神の2つの神社。芭蕉と共に旅をした、曾良が記した『曾良旅日記』には、「関明神、関東ノ方ニ一社、奥州の方ニ一社、間廿間計有」と書かれています。

 今では、境の明神という名で知られる、国境の2つの神社。別名、”二所関”とも呼ばれています。”二所関”、とは、相撲部屋の名前として、時々耳にするものですが、その語源になるのが、この”二所関”だと言われています。

 芭蕉の時代から、国境に鎮座する2つの神社は、長い月日の流れの中で、いつの日も、街道の往来を見守ってくれているのでしょう。

 

 

 泉田の一里塚

 寄居の集落を通り過ぎ、国道に戻った街道は、緩やかな上り道を進みます。

 しばらくすると、左前方に、それと分かる一里塚が見えました。この一里塚、泉田の一里塚と呼ばれています。美しく整えられた姿を見ると、大切に保存されていることが分かります。

 

※緩やかな坂道を進んで行くと、一里塚が見えてきます。

 

 一里塚の前面には、しっかりとした案内板も置かれています。この中に記載されてはいませんが、泉田の一里塚は、下野最後の一里塚。奥州との境界は、もう、それほど先ではありません。

※泉田の一里塚。

 

 国道と旧道

 国道と国道傍の旧道を交互に辿りながら、山間の道を進みます。道端には、石像なども残っていて、街道の名残りを伝えています。

 

※石像などが残る街道筋。

 

 やがて、右に大きく迂回する旧道も現れますが、ほどなく、国道に舞い戻るという状況です。

 

※山中の集落に向かう旧道。

 

 山中という集落を通り過ぎると、再び国道に入ります。この辺り、もう道沿いには、農地ができる空間はありません。左右から山が迫り、道筋だけがその隙間を埋めている状態です。

 

※左右から山が迫る国道。

 

 国境へ

 道は、少しずつ標高を高めながら、奥の地へと向かいます。この辺り、急勾配ではないために、それほど身体に負担はかかりません。国境の風景を楽しみに思い描きながら、足取りを進めます。

 しばらくすると、立派な、馬頭観音像。ここにも、街道の風景が残っています。

 

※左、山の中をすり抜ける国道。右、道路脇に残る馬頭観音像。

 

 最後の集落

 さらに進むと、今度は、左上の崖地の上に、これも大きなお地蔵さんが見えました。「明神の地蔵様」と呼ぶようで、傍には、石像なども置かれています。

 道の先の集落は、それほど戸数はありません。地図を見ると、もうそろそろ、国境。下野(しもつけ)最後の集落かも知れません。

 

※明神の地蔵様が置かれた街道筋。

 

 街道は、大きく右に曲がります。その先は、少し勾配を増した上り坂。一気に、尾根の上へと向かいます。

 道沿いには、まだ、何軒かの民家が見られます。斜面伝いのわずかな場所で、畑作などが行われているようです。

 

※尾根に向かって勾配を強める街道。

 

 国境(くにざかい)

 坂道の勾配が、さらに強まったところには、栃木県の境界ゲート。「お気をつけて」と書かれています。目の前は、峠でしょうか。坂道が頂のような状態で、その上に、「福島県」「白河市」と表示された標識が置かれています。

 上り坂の左には、鳥居の姿もありました。これが、冒頭で紹介した、下野側に置かれた神社、玉津島明神なのでしょう。

 いよいよ、国境(くにざかい)。街道は、陸奥(みちのく)を迎えます。

 

※国境を視野に捉えた街道。

 

 玉津島明神

 鳥居の前まで足を運ぶと、その傍に、「境の明神 玉津島神社」と表示された表示柱がありました。

 私たちは、境内へと歩を進め、本殿前で参拝です。

 

 『曾良旅日記』には、この辺りの様子について、次のように記しています。

 

 「両方ノ門前二茶や(ママ)有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。」

 

 かつては、この門前に、峠の茶屋があったのでしょう。往き交う人は、2か所ある境の明神に参詣して、茶屋で一息入れたのかも知れません。

 

※津島明神(下津側)。

 

 国境の峠

 玉津島明神を後にした街道は、ほどなく、峠を迎えます。ここが、下野と奥州の国境。いよいよ、街道は、陸奥(みちのく)の地に入ります。 

 

 住吉明神(境神社)

 国境を越えたすぐ先は、今度は、住吉明神の鳥居です。私たちは、ここでも参拝の柏手を打ちました。

 

住吉明神(境神社)

 

 境の明神

 ここまで、2つある境の明神の名称を、下野側=玉津島明神、奥州側=住吉明神、として紹介してきましたが、実は、反対に書かれた資料もあるため、少し注意が必要です。

 この混乱を解決する糸口が、奥州側の住吉明神の説明板に書かれていたので、少し紹介したいと思います。

 

 「旧奥州街道に面して、陸奥福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が二社並立している。陸奥側の境の明神は、玉津島明神を祀り、下野側の明神は住吉明神を祀っている。」(注:この段階で神社名は反対になっています。)

 「玉津島明神(女神・衣通姫(そとおりひめ))と住吉明神男神中筒男命)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。」

 

 つまり、どちらも、津島明神であり住吉明神であるという、不思議な状態が、ここ、境の明神では、受け入れられているのです。

 

※奥州側の住吉明神本殿。

 街道は、国境を過ぎた後、奥州最初の宿場町、白坂宿へと向かいます。