旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]20・・・白坂宿へ

 白河の関

 

 奥州に入った街道は、この先、白坂の宿場を通り白河へ。奥深い、東北の玄関口に向かいます。江戸時代に整備された五街道。奥州へと向かう道は、白河の宿場町の外れ辺りで終点を迎えます。

 その後は、仙台道や松前道など、様々な地方の街道が、奥州の国を巡ります。

 時代はさらに遡り、中世や古代に至っても、蝦夷(えぞ・えみし)と呼ばれた、東北の地へと向かう街道はありました。その頃のこの辺りの主要な道は、奥州道中のさらに東の山の中。江戸時代の道筋よりも、やや深い山々のすき間を通り抜けていたようです。その頃に、下野と奥州の国境に設けられた関門が、白河の関と呼ばれています。

 余りにも有名な、白河の関ですが、この関所跡、奥州道中の沿線からは、5キロほど東に離れています。「歌枕(うたまくら)」の地としても、古くから名を馳せた白河の関奥の細道の旅を続けた芭蕉曾良の、目指すべき一つの場所でもありました。

 

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」と、書き記した、『おくのほそ道』の巻頭文にも、「春立る霞の空に、白川(ママ)の関こえんと・・・」の一文がしたためられているのです。

 

 2人は、奥州道中の国境(くにざかい)、境の明神を過ぎた後、白坂宿へと向かう途中で、街道を右にそれ、奥の山へと進路を変えて、白河の関跡へと向かうことになるのです。

 私たちは、街道歩きを終えた翌日に、車で、その地を見届けることになりました。芭蕉の姿を追いながら、陸奥(みちのく)に辿り着いた歩き旅。いつの日か、その先の、奥の細道の道筋にも足を運べたらと思います。

 

 

芭蕉も訪れた白河の関跡。

 

 道筋の整理

 位置関係を、もう少し分かり易くするために、下に、簡単な地図をお示ししたいと思います。おおよそ、青の矢印が、奥州道中の道筋で、赤が、芭蕉曾良が辿り歩いたルートです。「明神の地蔵様」と書かれた辺りが、奥州道中の国境。その先の緑の🏴が、白坂の宿場です。

 芭蕉達は、青の道で国境を越え、白坂へ。そして、その直前で赤の道へと進路を変えて、で示した白河の関跡に向かいます。その後、幾つかの🏴で示した史跡を訪ね、阿武隈川を渡ることになるのです。

 

Google Mapsより。奥州道中のルート。芭蕉達が脇道へとそれ、白河の関跡を訪れ、その後白河へと向かったルート。

 

 

 峠を越えて

 境の明神の参詣を終えた後、再び、国道294号線の街道を歩きます。道は、緩やかな下り坂。この先の白坂の宿場まで、もうそれほど距離はありません。

 

※白坂宿に向けて緩やかに下る街道。

 

 しばらくすると、目の前に、一つの小さな集落が。峠を越えて早々に、奥州の最初の集落に出会います。

 下野と奥州との国境は、山の中とは言うものの、それほど険しい場所ではありません。そこここに集落も点在し、安心して歩けるところです。

 

※奥州最初の集落が近づきます。

 

 白河の関跡への分岐

 集落が近づくと、左手の山際に、石仏や石塔が林立した一角が現れます。古くからの街道の名残りのようで、懐かしい雰囲気を感じます。

 そして、道路際には、幾つかの道案内の表示板。直進は、白河市の名所などが案内されて、中央の1枚が、「白河の関→ 6.5K m」と書かれています。少し分かりにくいと思いますが、下の写真の右端の民家の前を、右に向かう山道があり、そこを上ると、白河の関跡に辿り着くことができるのです。

 芭蕉曾良は、おそらく、この道を伝いながら、関所跡に向かったのだと思います。

 これまでも、折に触れ紹介してきた『曾良旅日記』。その中の、国境の記述の次には、次のように書かれています。

 

 「これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。」

 

 この記載の「古関」こそ、白河の関跡です。まさに、標識通りの道を辿った証の記事だと思います。

 

※石仏石塔群と白河の関跡への分かれ道。

 

 白坂宿

 街道は、その先で、白坂の宿場町に入ります。そこには、新しい標識が置かれていて、「奥州道中 白坂宿 南入口木戸跡」「白河宿へ7.5km」と書かれています。

 真っ直ぐ延びる街道筋は、ごく普通の集落で、宿場町の面影はありません。かつての町並みを想像しながら、先を目指して歩きます。

 

※白坂宿の南の入口。

 

 白坂宿は、前の宿場の芦野宿から、およそ12キロ離れています。元々は、宿場ではなかったものの、芦野・白河間が離れているため、地元の要望に基づいて、宿駅になったということです。*1

 この宿場、かつては、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は27軒ありました。地元発行の資料によれば、本陣と脇本陣の他、

 

 「準脇本陣として、亀屋、若松屋、大旅館は丁子屋、若野屋、鶴屋、大島屋、中丁子屋、角屋、松坂屋、丸屋、品川屋、常陸屋、大谷屋、他に小旅館二十余軒。」

 「旅館には飯盛りと称する娼婦がいて多いところは八十九人、少ないところでも二十三人、その他芸者、料理屋あり三味の音が昼夜たえることなく賑わい、その盛況ぶりはまさに奥州街道随一の宿駅であった。」

 

 と書かれています。

 かつての宿場町を歩いていると、道沿いの田んぼの脇に、「脇本陣跡」と記された、案内板がありました。繁栄を極めた町も、今は、どこか寂し気な、山あいの集落の様相です。

 

脇本陣跡。

 

 落ち着いた、家並みを眺めながら、さらに北へと向かいます。街道は、この先、右に大きく弧を描く、緩やかな上り道。宿場町の後半を迎えます。

 

※白坂宿の後半に入る街道。

 

*1:白坂宿顕彰碑実行委員会発行、「奥州道中 白坂宿」のパンフレットによります。以下、記述する資料は、これによります。