旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]14・・・鍋掛宿と越堀宿

 2つの宿場

 

 大田原の次の宿場は、那須に広がる丘陵地を進んだ先の鍋掛宿(なべかけじゅく)。そして、そのすぐ隣には、越堀宿(こえぼりじゅく)が控えています。鍋掛宿と越堀宿。この2つの宿場町は、那珂川の流れを挟んで向かい合わせに並んでいます。

 おそらく、那珂川が増水し、行く手を阻まれた場合には、それぞれの宿場町で、旅人は時機を待っていたのでしょう。厳しい自然に向き合うために、このような形の宿場町が形作くられたのだと思います。

 川を挟んで向かい合う宿場町は、これまでも、何か所かで見てきたような気がします。すぐに思い浮かぶのが、東海道の金谷宿と島田宿。大井川を挟んだ両岸に、宿場町を築いています。中山道では、千曲川を挟んだ両岸が、八幡宿と塩名田宿。その他にも、何か所か、このような宿場町がありました。

 川越しは、今では簡単に、橋で渡ってしまうのですが、かつては自然が相手です。相当な忍耐と苦労の中で、旅を続けていたのでしょう。

 

 

 鍋掛宿

 鍋掛の一里塚跡にある、小さな峠を過ぎた先は、一気に下り道に変わります。そして、坂道を下りきったところには、鍋掛の交差点。県道同士が交差する、この地域の要のようなところです。

 

※鍋掛の交差点に向かう街道。

 

 交差点のすぐ脇に、清川地蔵の表示板。この左手の方向に、お地蔵さんがあるようです。

 そして、交差点を過ぎた先が、鍋掛の宿場町。那須の地の丘陵地を、11キロほど歩き進んで、ようやく、次の宿場に着きました。

 

※鍋掛交差点から宿場町の方向を見たところ。

 

 鍋掛の宿場には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は23軒ありました。川向かいにある越堀宿(こえぼりじゅく)は、やや規模は小さいものの、2つの宿場町を合わせると、そこそこの規模だった様子です。

 この宿場町、道路整備が整って、道沿いは、ほとんどが新しい建物です。町並みは、往時の名残は見られませんが、流れるような道筋と瓦屋根の民家が並ぶ風景は、どことなく、宿場の香りが漂っているように感じます。

 

※鍋掛の宿場町の様子。

 

 芭蕉の句碑

 往時の様子を思い描いて、宿場町を歩いていると、「芭蕉の句碑」の表示板が目につきました。そこは、公民館の敷地のようで、ちょっとした広場のようなところです。

 表示板に従って、少し奥に進んで行くと、正面にあったのは、小さな祠。そして、その前の整備された土台の上に、由緒ありそうな、古い石造りの句碑がありました。

 

※公民館の敷地でしょうか、この左先に芭蕉の石碑が置かれています。

 

 句碑の横に立てられた、説明板を見てみると、次のように書かれています。

 

 「芭蕉が元禄二年(1689年)三月(旧暦)奥の細道行に旅立ち、黒羽より高久に向かう道すがら四月十六日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。

 

   野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす

 

 この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。」

 

芭蕉の句碑とその解説。

 

 芭蕉のルート

 ここで、奥の細道那須地域のルートについて、少し触れておきたいと思います。

 芭蕉達は、知人の浄法寺図書高勝が住まいする黒羽(くろばね、現大田原市)を訪ねた後、那須温泉へと向かうのですが、その時、どのルートを辿ることになったのでしょう。

 同行の曾良が記した『曾良旅日記』を参考に、少し推測してみようと思います。

 

 まず、『曾良旅日記』に記載された地名を掲げると、余瀬、野間、鍋かけ、高久という名称が出てきます。このうち、野間と鍋かけ(鍋掛)の間には、奥州道中が通っています。(野間は、前回のブログで、”羽田沼入口”の表示があった辺りの地名です。)従って、この間は、確かに奥州道中を辿ったのだと思います(下の地図の濃い黄色矢印)。

 次に、余瀬間・野間の間ですが、ここは、馬で進んでいます。句碑の一句は、この時、馬子に請われてつくられたと言うことが、先の説明板に書かれています。このことは、『おくのほそ道』の本文に、「館代より馬にて送らる。」と記載されている通りです。解説のとおり、道は、余瀬と野間を最短距離で結ぶ原野の間を進んできたのでしょう(下の地図の青矢印)。

 そして、鍋掛・高久間。ここは、鍋掛から向かいの越堀へと川を渡り、越堀から高久につながる地の道を辿ったと考えるのが自然です(紫矢印)。

 

※青の矢印の起点が黒羽で、黄色の☆が野間、その間に余瀬があります。黄色矢印は野間から鍋掛。紫が越堀から高久です。そして、薄い黄色矢印は大田原から北に向かう奥州道中です。

 

 実際のところは分かりませんが、このように、奥州道中が通る地域でありながら、芭蕉達は道中をそれほど忠実に辿らずに、あちこちで旧跡を訪ねながら、少しずつ、陸奥(みちのく)へと迫って行くことになるのです。

 

 那珂川

 街道は、鍋掛の宿場を終えて、那珂川に近づきます。そして、橋の歩道を伝いながら、川向こうの、越堀の宿場へと向かいます。

 

那珂川に架かる橋。

 

 たまたま、橋本体は工事中。恐る恐る、歩道に沿って、入向かいに渡ります。

 

※歩道を利用して対岸へ。

 越堀宿(こえぼりじゅく)

 橋を渡ると、すぐ先で、道はT字路になっていて、街道は、そこを左折です。この道は、県道72号線。越堀の宿場町が置かれていたところです。

 道路標示は、越堀宿の次の宿場の芦野まで、8キロを示しています。そして、奥州道中の終着点、白河までは、残すところあと27キロの道のりです。いよいよ、陸奥(みちのく)が、視野に入ってきた感じです。

 

※越堀宿の様子。

 

 越堀宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は11軒ありました。先に少し触れたように、単独の宿場としては小規模ですが、向かいの鍋掛宿と合わせると、それなりの規模を誇っていたのだと思います。

 町並みは、今では、どこにでもあるような、道路沿線の集落です。ここでも、宿場町の面影を見つけることはできません。

 

※堀越宿の中央付近。この左手辺りに本陣があったようです。

 

 私たちは、少しずつ勾配が増す越堀宿の街道を、ゆっくりと、先に向かって進みます。