旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]15・・・越堀宿から芦野宿へ

 芦野温泉

 

 大田原から先の街道は、那須に広がる丘陵地帯を進みます。そのために、人家もまばらで、公共の交通機関もありません。宿泊施設も限られていて、この先は、芦野の宿場近くにある、芦野温泉で宿をとるのが最適の方法です。

 今どきの歩き旅の難点は、交通機関と宿泊所。これらの情報を組み合わせ、可能な行程を探りながら、歩く区間を決めなければなりません。およそ45キロの距離がある、大田原と白河間。芦野温泉を逃しては、組み立てづらい行程です。私たちは、鍋掛、越堀の宿場町を通過して、一気に芦野の地へと向かいます。(芦野温泉のことについては、次回のブログに記します。)

 

 

 越堀宿(こえぼりじゅく)

 ゆっくりと勾配が増してくる、越堀の宿場町を歩いていると、右側に、お寺の参道の入口が見えました。この辺り、木々が茂り、ちょっとした広場なども見られます。

 街道は、この先、宿場町特有の左右に折れる屈曲道路(通常、枡形と呼ばれています)。ただ、町並みは、往時の名残りはありません。

 

※クランク状の道路がある越堀の宿場町。

 

 屈曲道路直前の、広場の片隅のところには、幾つかの石碑が置かれ、その近くには、「奥州街道越堀宿」と表示された、説明板がありました。

 この説明板、興味を引かれる内容です。少し長めではありますが、紹介させて頂きます。

 

 「慶長八年(一六〇三年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌九年、奥州街道が整備された。以後、幕府の御機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた。」

 「伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急達、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向かった。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野井の藤田和泉重統である。宿場の形成は、彼がその仮屋を払い請け、旅篭に建て替えた事に始まる。」

 「越堀の地名は、彼が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。」

 

※説明板が置かれている一角。

 

 山間へ

 屈曲道路を過ぎた後、街道は、次第に勾配を増しながら、尾根に沿って進みます。道は、美しく整備され、この辺りの主要道路の様相です。

 前回も記したように、おそらく、芭蕉曾良は、この辺りから、街道を左にそれて、那須温泉の麓にある、高久へと向かったのだと思います。

 

※宿場の外れ。街道は、山の方に向かいます。

 街道は、山里の集落に向かって進みます。周囲は、それほど高い山ではないものの、これまでの丘陵地とは少し異なる、山間の風景に変わります。

 

※山里に向かい進む街道。

 富士見峠

 街道は、少しずつ、標高を高めながら、関東の奥に広がる原野の地へと向かいます。この先は、富士見峠と呼ばれるように、かつては、富士山も眺められたのだと思います。今は、木々に覆われて、それほどの眺望は望めません。

 

※尾根から尾根へと移っていく街道。

 

 辺りは、木々が生い茂り、しばらくは、民家のない寂しい山の道が続きます。車の往来もほとんどなく、少し、裏道のような道筋になりました。

 

※木々が覆う裏道のようなところを歩きます。

 

 寺子

 山間の街道は、やがて、下り道に入ります。緩やかに下る道。先を見ると、寺子の交差点が、近づきます。そして、交差点直前の右手には、小規模の公園です。

 よく見ると、公園の片隅には、形の整った一里塚がありました。

 

※寺子の交差点に近づく街道。

 

 この一里塚は、寺子の一里塚と呼ばれています。傍に置かれた説明板には、「奥州街道四十二番目のもの」と書かれています。

 元々の一里塚は、この地から約50mほど北側にあったそう。いつの日か、小学校の建設と道路の拡張工事で無くなってしまったということです。今残る見事な塚は、平成7年に復元されたもの。地域の方々の努力によって、貴重な史跡が守り継がれているのです。

 

※寺子の一里塚。

 

 一里塚を過ぎた後、街道は交差点を直進し、寺子の集落内を進みます。低い山が迫る中、わずかに開けた平地の中に、住宅や農地などが点在します。

 

※寺子の集落を通る街道。

 

 旧道

 街道は、この先で、余笹川の橋を越え、県道のすぐ左隣を通過する旧道に入ります。わずかの間、県道からはそれますが、隣り合わせの道筋です。県道と風景を共有しながら進みます。

 

※左、この角を左折し、すぐ右折して旧道に入ります。右、右に県道を見ながら集落内を進みます。

 石仏群

 旧道が県道と合流するところには、幾つも石仏や石碑が置かれた一角がありました。ここには、弁慶の足踏石と名付けられた石などもあるようですが、下の写真に写っているのでしょうか。

 

※旧道と県道との合地点と石仏群。

 

 石仏の傍に置かれた説明板には、ここにある「馬頭観世音碑の横に草鞋(わらじ)のような形の大きな窪みがある。」と書かれています。また、源義経が、「奥州平泉へ落ち延びる道中、石田坂にて一休みし、さて出発しようと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が履いていた草鞋(わらじ)の形に窪んでしまったとされている。」とのこと。

 何とも、分かりにくい話ではありますが、義経と弁慶にまつわる伝説が、こんなところにも残されていたのです。

 

※弁慶の足踏み石の説明板。

 

 芦野へ

 街道は、緩やかな上り下りと、湾曲を繰り返し、山間の隙間を縫うように進みます。この辺り、ところどころに、石仏や石碑なども残っていて、古くからの道の流れを受け継いでいるようなところです。

 

※上り下りと湾曲を繰り返しながら進みます。

 

 やがて、久し振りの信号の交差点。そこには、「豊岡」の表示です。

 偶然ではありますが、「芦野温泉」と表示された、えんじ色のマイクロバスが走っています。この日の宿となる、芦野温泉に向かっているのでしょう。どこかの駅と温泉宿とを結んでいる、送迎バスなのだと思います。

 

※豊岡の交差点。

 

 この日の朝、大田原を発ってから、ずいぶん時間が経ちました。足の疲れも限界近く。マイクロバスの過ぎ去る姿に、手を差し出すような気持ちを抑え、忍耐の歩行を続けます。