旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]17・・・芦野宿

 奥の細道

 

 越堀(こえぼり)の宿場町辺りから街道を西にそれ、高久へと足を向けた芭蕉曾良は、那須温泉を訪れて、温泉神社に参詣します。そして、神社近くにある、殺生石(せっしょうせき、謡曲の舞台にもなっています)を訪ねることになるのです。*1

 

  湯をむすぶ 誓ひも同じ 石清水

 

 その後2人は東に向かい、芦野の宿場で奥州道中に入ります。ここまでの2人のルートは、ほとんどが奥州道中を避けてでもいるように、東に西に、ジグザグの道を辿っています。そして、この芦野からしばらくは、忠実に、奥州道中を進むことになるのです。

 私たちは、ここで再び、芭蕉の姿を追いながら、街道歩きを続けます。

 

※茶色の線が奥の細道のルート図(”奥の細道むすびの地記念館”(大垣市)の展示パネルより)。青線(⇒)は、日光道中から奥州道中のルート。芭蕉達は、青ルートを挟んでジグザグに進んでいます。

 

 芦野宿へ

 芦野温泉の湯宿を発って、奥州道中に戻ります。前日歩いた旧道を、少しだけ先に向かうと、元の県道と合流です。

 周囲一帯は、盆地のような平地のすき間に、水田地帯が広がります。

 

※旧道から県道に戻ります。

 

 農地に挟まれた県道を進んで行くと、その先で、信号のない交差点を迎えます。左右を横切る広い道は国道294号線。これから先は、この道を軸としてして、街道は奥州の地へと向かいます。

 ただここは、この交差点を横切って、真っ直ぐに、向かいの集落に入ります。この集落こそ、次の宿場町、芦野宿になるのです。

 

※国道と交差する県道。街道は直進です。

 

 芦野宿

 集落に踏み入ると、辺りの様子は一変します。そこは、どこか懐かしく、郷愁を感じる光景が広がります。

 小川に架かる小さな橋、寂しく残る並木の名残り、そして、地蔵尊の祠でしょうか。子どもの頃に見たような、農村の町並みが続きます。

 

※どこか懐かしい芦野宿の入口辺りの風景。

 

 街道は、この辺りから、芦野の宿場町に入ります。前の宿場の越堀宿から、およそ9キロの地点です。

 芦野宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅篭は25軒ありました。それほど大きくはない宿場町ではありますが、ここは、下野の最後の宿場。この先はもう、陸奥(みちのく)の、白坂宿になるのです。

 

※宿場町特有の屈曲した曲がり角がある道筋。

 

 クランク状に折れ曲がる角を過ぎると、しなやかに弧を描く道筋に入ります。この道沿いが、芦野宿の中心地。今は、往時の姿はないものの、どことなく、宿場町の雰囲気が感じられる町並みです。

 

※芦野宿の様子。

 

 仲町通り

 街道は、仲町通りと表示された道筋を進みます。かつては、この辺りに、本陣や脇本陣がありました。今は、道端のところどころに、常夜灯の形を模したモニュメントが置かれていて、そこにあった旅籠やお店の屋号などが書かれています。

 

仲町通り。

 

 「奥州道中 芦野宿」の表示柱と、「住吉屋」のモニュメントをご覧いただきたいと思います。道筋には、このようなモニュメントが、あちこちに置かれています。

 ところで、この付近には、左から宿場に入る脇道があり、そこを逆に伝っていくと、那須高原につながります。想像ですが、芭蕉達は、那須温泉を後にして、この道を歩きつつ、ここ芦野の地へと辿り着いたのかも知れません。

 

※芦野宿の表示柱とモニュメント。

 街道は、再び、クランク状に折れ曲がる、枡形(ますがた)と呼ばれる道筋を通ります。芦野の宿場は、この時代を迎えても、往時の道の流れを、忠実に残しています。

 

※再びクランク状の曲がり角を迎えます。

 

 宿場の北へ

 街道は、仲町の通りを過ぎて、宿場町の北の区域に入ります。この通りは、真っ直ぐ延びる直線道路。それでも、まだ、ところどころに、屋号入りのモニュメントが見られます。

 

※宿場町の北の区域の様子。

 

 遊行柳(ゆぎょうやなぎ)

 ここで少し話はそれて、遊行柳のことについて触れておきたいと思います。

 冒頭の写真の中で、青い矢印の先端が当たる場所に、「遊行柳」と書かれているのをご覧いただけると思います。ここは、芭蕉達が訪れた名所・旧跡で、『おくのほそ道』の本文にも、そのことが書かれています。

 

 「又、清水ながるゝの柳は、蘆野(芦野)の里にありて、田の畔(くろ)に残る。此所の郡守戸部某(こほうなにがし)の「此柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立ちより侍(はべり)つれ。

  田一枚  植えて立去る  柳かな  」

 

 少し分かりにくい内容ですが、芦野の郡守をされていた芦野民部(文中では、”戸部”)資俊は俳人でもあり、芭蕉の弟子だったようです。この方が、遊行柳を芭蕉に見せたいと、手紙などに綴っていたのでしょう。

 そこで、この機に、2人はここを訪れたのですが、実は、遊行柳は、芭蕉が慕う西行法師も立ち寄っていたのです。

 謡曲などの演目にもあるという、遊行柳。東海道藤沢宿時宗の寺院、遊行寺とも関わりがあるようです。

 遊行柳に、西行法師の影を見て、また、時宗を広めた一遍上人を偲びつつ、芭蕉曾良は、さぞ、感慨を深めたことでしょう。

 

 この、遊行柳は、冒頭の地図では、芦野宿の南にポイントが置かれていますが、実は、「蘆野宿の北はづれ、西のかた、畑の中」(『奥細道菅菰抄』(すがごもしょう))と記されているように、今も、芦野宿の北西にある農地に残っているようです。私たちは、道端であれば立ち寄ろうと思っていたのですが、街道からは少し離れています。残念ながら、今回は寄らず仕舞いになりました。またいつの日か、訪れてみたいと思います。

 

 さて、街道は、芦野の宿場を終えて、国道へ。そして、次の集落の直前で、再び旧道に入ります。

 

※芦野宿の次の集落、横岡の旧道に入ります。

 

*1:『おくのほそ道』には、「殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰(やまかげ)にあり。石の毒気いまだほろびず。」との一文があります。芭蕉たちは、謡曲殺生石」を偲んでここを訪れたのだと思います。