旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]23・・・最終回(白河宿と白河城下)

 最終回

 

 「歩き旅のスケッチ[奥州道中]」は、今回が最終回。ようやく、陸奥(みちのく)への玄関口、白河の宿場町に辿り着くことができました。

 この街道は、宇都宮の中心地近くにある、日光道中との分岐点(追分)が出発点。その先は、宇都宮の市街地を通過した後、鬼怒川を越えて氏家へ。そして、丘陵地帯を北上し、大田原、芦野の地を経由して、下野と奥州との国境に至ります。最後は、白坂の宿場から白河の中心地へと歩を進め、白河宿に入ることになるのです。この間、80数キロの道のりを6日間をついやして歩き通すことができました。

 江戸時代に整備された五街道。私たちは、ここ、奥州道中を最後にして、すべての道を踏破することになったのです。

 

 

 白河宿

 一番町を過ぎた後、街道は、右方向に進路をとって、しばらくの間、東向きに進みます。この辺りは天神町。道沿いは、少し昔の商店街の様相です。かつての老舗のような建物も、ところどころに見られます。

 

※立派な蔵が並んだ建物も見られます。味噌や醤油の醸造所のようです。

 

 街道はその先で、クランク状に折れ曲がる、宿場町特有の道筋を通ります。この屈曲した道のところには、「奥州街道と白河の城下」と記された、下のような案内板がありました。

 白河の概要が良く分かる案内板。その内容を紹介させて頂きます。

 

 「小峰城白河城)は、慶長年間(1596~1615)頃に城郭及び城下の骨格が整備され、寛永4年(1627)の白河藩成立後は、初代藩主丹羽長重(にわながしげ)によって屋敷地の拡張が図られるとともに、石垣を多用した城郭に改修されました。」

 「白河藩の成立や城郭の改修とあわせて、奥州街道沿いに城下町も発展し、商人や職人が居住して大きな賑わいを見せていました。」

 「記録によれば、寛文年間(1661~73)の城下の町人は7,500人余りで、武家人口とあわせた城下の総人口は1万5,000人ほどと推定されます。現在の福島県では、会津若松会津藩)に次ぐ規模を誇っていました。」

 

※「奥州街道と白河の城下」の案内板。

 

 中町

 クランク状の角地の先は、中町と呼ばれる地域です。ここも、真っ直ぐに、東に向けて進みます。この辺り、昭和期の商店街の雰囲気で、小さなお店が並んでいます。

 

※中町を通る街道。

 

 少し寂しい道筋ではありますが、少し前の時代には、白河市の中心地だったのかも知れません。由緒ありそうな門構えの屋敷もあって、わずかながらも、街道筋の面影が残っています。

 道路上の標識は、白河駅に向かう角まで、0.1キロを示しています。私たちの街道歩きも、いよいよ、終着点に近づきます。

 

白河駅に接近した中町の町並み。

 

 白河駅

 やがて、街道は、白河駅と結ばれる交差点を迎えます。この角を左に向かうと、JR東北本線白河駅

 私たちは、駅へと向かい、ここで、奥州道中歩き旅を完結することになりました。

 関東北部の中心地、宇都宮を出発し、いつの間にか東北の玄関口、白河駅が目の前に。ここまで、80数キロの道のりを歩き終えることになりました。普通ならこの距離は、そう簡単に歩き通せるものではありません。それでも、古(いにしえ)の風景を思い描いて歩いていると、何故か、街道や宿場の魅力に取りつかれてしまうのです。

 

※街道を左折し、白河駅に向かいます。

 

 白河城

 白河駅のホームから、直ぐ近くにそびえ立つ、可憐なお城を眺めていると、東北の地に歩みを進めた感慨が、どこからともなく湧きあがってきたものです。

 この周辺は、わずかに、150年を遡った時代には、大きな内戦が繰り広げられたところです。今では、そんな歴史をどこかに隠して、平和な空気が覆っています。

 

白河城

 

 後書

 街道歩きを終えた後、私たちは新白河で1泊し、翌日、白河の周辺を少しだけ巡ることになりました。

 まず、奥州街道の先線の本町へ。そこには、脇本陣跡の建物も。柳屋と呼ばれるこの脇本陣には、新選組斎藤一一行が宿泊し、ここから、白河口の戦いに出陣したということです。

 

※白河宿柳屋脇本陣

 

 先のブログで触れた通り、私たちは、この日、白河の関跡へと向かうことになりました。白河の関についての詳細は、「歩き旅のスケッチ[奥州道中]20」の記事をご覧いただければと思います。

 この関所、その記事でも記したように、江戸時代に整備された奥州道中の道筋にはありません。道中から、およそ5キロ東を通る、古代からの道沿いに、設けられた関門です。

 芭蕉曾良も、奥州道中の道をそれて訪れた関所跡。もう一度、関跡の風景をご覧いただければと思います。

 

白河の関跡。

 

 終わりに

 

 軽い気持ちで歩き始めた中山道。京都・近江から、少しずつ、先を目指して歩きつなぐと、いつの間にか美濃の地へ。そして、木曽・信州を経て上州へ。いつの日か、関東平野を南下して、日本橋に辿り着くことができました。その後は、東海道甲州道中を制覇して、日光へと向かうことになったのです。こうなれば、奥州への街道も置き去りにはできません。結局、五街道のすべての道を歩き通すことになりました。

 およそ8年の歳月をかけ、歩きつないだ五街道。踏破した直後には、続けての目標は全く白紙の状態でした。思考の中では、日光道中奥州道中の時々に、芭蕉の影を見てきたために、その先の「奥の細道」へも行こうかとも思いつつ、決心はつきません。

 

 そうこうと、考えていたところ、北国街道のことについて、何回か触れる機会がありました。調べてみると、往時の道もよく残っている感じです。近江、越前、越中、越後、そして、信州にまでも繋がっている街道は、相当の長丁場。どこまで歩くことができるのか、自信などはありません。それでも、昨年の晩秋に、軽井沢近くにある、中山道追分宿を訪れて、そこから長野善光寺へと歩みを始めてみたのです。いつの日か、また、このブログの中で、北国街道の風景をお伝えできればと思います。

 

 と言う訳で、次回からは、昨年春に訪れた、奈良県の”山の辺の道”の歩き旅を紹介したいと思います。春の奈良、お水取りから始まって、新緑あふれる初夏までは、本当に爽やかな空気に包まれます。