旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]12・・・大田原宿と黒羽

 芭蕉と黒羽(くろばね)

 

 奥の細道の旅を続ける芭蕉曾良は、日光から東に向かい、最短距離*1で黒羽を目指します。この、黒羽というところ、奥州道中沿線の大田原の宿場から、およそ10キロ東に位置し、那珂川の流れを見下ろす場所に、城下町を築いています。

 芭蕉たちは、「那須の黒ばねと云所に知人あれば」*2、と記しているように、知人を訪ねて、黒羽まで足を延ばすことになるのです。

 奥州道中の道筋は、大田原の宿場を挟んで、おおむね南北に通っています。一方、芭蕉たちは、南西から大田原に入った後に東に向けて黒羽へ。奥州道中の道筋を避けてでもいるように、ジグザグに進路をとって、陸奥(みちのく)へと向かう旅を続けます。

 

 

 大田原宿へ

 浅香3丁目交差点を過ぎた後、街道は、少しずつ、市街地に近づきます。道沿いは、次第に民家などが密になり、お店なども増してきた感じです。

 

※市街地に近づく街道。

 

 それでも、まだ郊外のこの辺り、建物の合間には、未利用の空き地なども目立ちます。

 道路上の標識は、冒頭で紹介した黒羽まで、11キロを示しています。

 

※空き地も目立つ街道沿い。

 

 大田原宿

 街道は、やがて、神明町の交差点を迎えます。そして、緩やかに右方向に進路を変えると、少し、賑やかさが感じ取れる町並みに入ります。

 よく見ると、歩道のない道路際には、「旧奥州道中 大田原宿 下町」と表示された石柱がありました。佐久山の宿場から、およそ7キロの道のりを経て、ようやく、大田原の宿場町に到着です。

 大田原の宿場には、本陣が2軒あり、脇本陣は1軒で、旅籠は42軒あったとか。さすがに、この地方きっての要の町。そこそこの規模を誇る宿場町だった様子です。

 

 ところで、この、新明町の交差点で、左から合流するのが、日光北街道と呼ばれている古道です。おそらくこの道が往時から、矢板の町や日光と最短距離で結んでいたのでしょう。奥の細道の旅をした芭蕉曾良も、この道を辿りつつ、大田原へと足を進めてきたのだと思います。

 

※大田原宿と書かれた石柱と、宿場町の入り口辺り。

 

 芭蕉たちの影を見て、かつての宿場町に入った私たち。今日の町並みは、ごく普通の地方都市の市街地です。辺りを窺うも、往時の面影を見ることはできません。

 それでも、途中には、「幸矢の与一像」と記された銅像がありました。ここでも那須与一は、その存在感を誇っています。

 芭蕉たちは、黒羽に滞在中、近隣の那須神社を訪ねます。そこで、那須与一を偲ぶのですが、やはり昔から、この辺り一円は、与一の郷として名を馳せていたのでしょう。

 

※幸矢の与一像と大田原の宿場町。

 

 金燈籠(かなどうろう)

 街道は、やがて、金燈籠と表示された交差点を迎えます。金燈籠とは、ちょっと変わった名前です。かつてここに、鋳物で造られた、灯籠があったとか。いまも、何かそのようなモニュメントが、あったような気がします。

 

 一区切り

 大田原の宿場町は、まだこの先も続きます。ただ、私たちは、この日はここで一区切り。金燈籠の交差点を左折して、市街地の中心部からバスに乗り、西那須野駅へと向かいます。

 

※金燈籠の交差点。街道は直進です。左折すると、大田原の市街地に向かいます。

 翌々朝

 翌日は、前々日の雨により、飛ばした区間の穴埋めです。(数回前のブログにも記したように、氏家・喜連川間の行程は、雨により先送り、大田原に到着した翌日、その行程を歩くことになりました。)そして、その次の日の朝、バスで金燈籠の交差点に舞い戻り、大田原から、再び街道歩きを続けます。

 相変わらず、宿場町の面影がない道筋ですが、この先は、心持ち、歴史を感じる町並みに変わったような気がします。

 

※金燈籠の交差点を過ぎた街道。

 

 しばらくすると、街道は、主要道路を左にそれて、町中の細道に入ります。途中には、宿場町を示す石柱も、ところどころに置かれています。

 その後、屈曲を繰り返し、旧市街地を縦断です。

 

※道端に置かれた石柱。

 

 町中の細い道をすり抜けて、やや広い弓なりの道を進んで行くと、左手に、龍泉寺と表示された、立派なお寺が現れました。

 街道は、この門前を通り過ぎ、蛇尾川(さびがわ)へと向かいます。

 

※左、街中を屈曲する街道。右、龍泉寺

 

 蛇尾橋(さびばし)

 街道は、間もなく、金燈籠の交差点から真っ直ぐに延びてきた、主要道路につながります。右方向の小高い山は、かつて、大田原城が置かれたところ。私たちは、ここで、大田原の宿場町と別れを告げて、蛇尾川に架けられた蛇尾橋を渡ります。

 

 黒羽道との追分

 蛇尾橋を渡った先で、道は、3方向に分かれます。奥州への街道は、そこを左の方向へ。一方で、右方向に進む道は、黒羽道と呼ばれています。おそらく、芭蕉曾良は、ここから右に向かって、黒羽の知人の元へと向かったのだと思います。

 

※蛇尾橋。この先で奥州道中は黒羽道と分かれます。

 黒羽(くろばね)

 ここで、少しだけ、奥州道中の歩き旅から話題を転じ、芭蕉たちが逗留した黒羽の一角を紹介したいと思います。

 冒頭でも触れたように、黒羽は、大田原の宿場からおよそ10キロ東に位置し、その傍には、那珂川が流れています。芭蕉曾良は、黒羽藩の家老である、浄法寺図書高勝(”じょうぼうじ・としょ・たかかつ”と読むのでしょうか)の元を訪れて、句会をはじめ、地域の人々と、交流を深めることになるのです。

 

 街道歩きの合間を縫って、私たちが訪れたのは、黒羽の芭蕉公園と言うところ。その入り口辺りには、下のような、案内板が置かれています。

 この中の解説にもあるように、公園内には、浄法寺の屋敷などが再現されて、芭蕉を偲ぶ一角が、大事に保全されているのです。

 

芭蕉公園の案内板。

 

 芭蕉の逗留

 この案内板に記された、旧浄法寺邸の記事のところを、少し紹介させて頂きます。

 

 「松尾芭蕉曾良は元禄2年4月4日(陽暦1689年5月22日)に浄法寺図書(俳号桃雪)に招かれました。「おくのほそ道」によれば、「黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る(おとずる)、思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つづけて」云々とあります。一族をあげて歓待したので、随分居心地がよかったのでしょうか、黒羽で十三泊、十四日の長期逗留であり、とりわけ浄法寺邸には八泊しました。」

 

※左、旧浄法寺邸への導入路。右、旧浄法寺邸。

 

 このように、芭蕉たちは、この地でおよそ2週間滞在することになりました。公園内の解説では、奥の細道の「旅程中最も長い14日間逗留し、知人や史跡を訪ね、次に向かう『みちのく』の地への準備期間をここで過ごした。」と書かれています。

 私たちは、芭蕉たちが滞在した、浄法寺邸周辺を訪れて、しばしの間、奥の細道の旅の様子を思い偲んだものでした。

 

*1:『おくのほそ道』本文には、「是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。」との記載があります。

*2:『おくのほそ道』本文。