氏家
宇都宮の追分で、日光道中から分岐して奥州へと向かう街道は、白沢の宿場を過ぎた後、鬼怒川の渡しを越えて、氏家に入ります。今は、さくら市となった氏家は、かつて、坂東の有力な武将が治めていたところです。江戸期には、奥州道中の宿場町が設けられ、交通の要衝ともなりました。
宇都宮市にほど近く、那須方面への玄関口とも言える場所。郊外は、農地が果てしなく広がるものの、鉄道や国道なども整備され、暮らしやすそうなところです。
氏家宿
白沢の宿場町から7.5キロ。氏家宿の道標が置かれた角を、左方向へと進みます。道標は、宿場町の南端を示すもの。沿線は、もう、かつての宿場町に入っています。
ゆったりと弧を描く道筋は、かつての街道の道の流れを彷彿とさせますが、町並みは、宿場町の面影はありません。やや、雑然とした町中の道を歩きます。
※氏家の宿場町に入った辺り。
氏家宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は35軒ありました。民家もそこそこあったらしく、それなりの規模を誇っていた様子です。
道幅の狭い街道筋は、今は、多くの車が往き交って、かつての宿場町を駆け抜けます。
※氏家宿を通過するかつての街道。
やがて、街道は、氏家の交差点に入ります。街道である県道と、国道293号線との交差点、右先の角地には、大きな病院の建物も見られます。
街道は、ここを直進し、再び、旧市街地の町中へ。
※氏家の交差点。
交差点を越えた後、氏家の本町と表示された道筋を歩いていると、ところどころに、古い木造のお店などが見られます。この辺り、かつては、本陣など重要な宿場の施設がありました。
どことなく、往時の香りが漂う道は、心地よい雰囲気を放っています。
雨模様
味わいある、氏家の宿場町を歩いていると、次第に、雨脚が強まってきた感じです。この日は、白沢の宿場を発って、氏家の次の宿場の喜連川へと向かうはず。ただ、この先は、まだ8キロの道のりが残っています。
とにかく雨をしのぐため、街道から一旦左にそれて、氏家の駅方面へと向かうことになりました。
※氏家の本陣などがあった宿場町の中心部。
氏家駅は、街道から、数百メートル西の位置。駅近くの飲食店で雨宿りを、と思ったものの、まだ時刻は10時台。開いているお店はありません。
駅舎の中で思案する内、雨は次第に本降りに。雲行きを確認しても、この先、止みそうもありません。
結局この日は、この先の行程は切り上げて、先延ばしすることになりました。
と、いう訳で、氏家と喜連川間の行程は、実際には、翌々日に歩くことになりました。ただ、このブログについては、街道の順序に従い、綴らせて頂きます。
(実は、宿泊施設の関係で、この日は、喜連川で泊まらなければなりません。そして、翌日は、喜連川の宿舎から、大田原へと向かいます。幸いにして、翌々日は休息日。そこで、その日に、氏家・喜連川間を歩くことにしたのです。)
再び氏家
と、言うことで、翌々日、再び氏家駅に舞い戻り、喜連川まで、中抜けの区間を歩きます。
この日は、写真の通り、抜けるような青空です。清々しい空気を感じながら、氏家の宿場町を出発です。
宿場町は、本町から上町へとつながって、上町の交差点で、東に進路を移します。
※上町の交差点。
氏家の町
街道は、しばらくの間、古くからの商店街のような道筋です。そして、次第に、お店の数が減少すると、変わって、民家が軒を連ねる光景に変わります。
途中には、立派な板塀のお屋敷などもありました。この辺りは、もう、宿場町は過ぎ去ってしまった感じです。新しい雰囲気の町並みを感じつつ、氏家の町中を進みます。
※立派な板塀の屋敷(あるいは料亭?)の前を通ります。
櫻野(さくらの)
街道は、やがて、櫻野中交差点を迎えます。道幅の広い県道が、街道を分断し、整備された道沿いに、新しい氏家の町をつくっています。
※櫻野中交差点。
街道は、交差点を直進し、これまでの先線を進みます。この辺り、交差点の名称にもあるように、櫻野と呼ぶようです。
”櫻野”と言えば、”さくら市”を連想するのは、私だけではないでしょう。前回のブログで触れた、”さくら市”の名前の由来は、もしかして、この”櫻野”から来ているのかも知れません。
櫻野の道を進んで行くと、左手に、見事な板塀のお屋敷が現れました。趣ある門を配したこの屋敷、庭の木々も素晴らしく、由緒ありそうなお宅です。
※立派な板塀が続くお屋敷。
瀧澤家住宅
板塀の屋敷の隣は、重厚な建前の長屋門。こちらも、隣のお屋敷と同様に、立派な屋敷が構えています。
こちらは、瀧澤家住宅と呼ぶようで、長屋門のところには、紙製の説明書きがありました。そこには、明治になって紡績業等で財を成した旧家であると書かれています。
栃木県指定の有形文化財であるこの屋敷、鐵竹堂(てっちくどう)・蔵座敷・長屋門など、幾つかの建物が残っています。
※瀧澤家住宅の長屋門。
長屋門の説明板は、しっかりとした構造で、平面図とかなり昔(明治期末~大正期)の門の写真も確認することができました。
※長屋門の説明板。
板塀の屋敷の隣、瀧澤家住宅の西端にあった建物が、鐵竹堂(てっちくどう)なのでしょう。写真にも収めていたので、紹介したいと思います。
※ 鐵竹堂(てっちくどう)。
郊外へ
街道沿いの旧家を後に、この先しばらく、旧道の道を進みます。道は、次第に、氏家の郊外へ。そして、次の宿場の喜連川を目指します。