旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]34・・・今市追分と今市宿

 街道の接合点

 

 街道が合流し、或いは、分岐する地点のことを、かつては、追分(おいわけ)と呼びました。次の宿場の今市(いまいち)には、追分の中でも重要な2筋の街道の接合点が、今も良く残っています。街道の一方は、私たちが歩んできた日光道中の道筋で、もう片方は、日光西街道(或いは、日光裏街道、日光例幣使街道などとも呼ばれています)の道筋です。

 日光西街道は、小山宿の北側の喜沢木沢)と呼ばれるところから、日光道中と一旦別れ、西周りで今市へと向かいます。鹿沼を通る西街道、途中で、中山道から分岐した、日光例幣使街道とつながります。一方で、本道の街道(日光道中)は、宇都宮の宿場の中で、奥州道中と接続し、今市へと向かうことになるのです。

 西街道も本道も、いずれも、重要な街道とひとつになって、日光への玄関口、今市の追分に至ります。

 

 

 追分

 延々と歩き続けた杉並木を歩き終えると、今市の追分です。日光道中と鋭角に交わる街道が、左斜め後ろから、この地点で合流します。

 冒頭でも触れた通り、合流する街道は、日光西街道(日光裏街道或いは日光例幣使街道とも呼ばれます)と呼ばれています。この地点で、2つの道はひとつとなって、日光を目指すのです。

 

※今市の追分。左の細い杉並木の間の道が日光道中で斜め右方向から合流するのが日光西街道。黄色の中央線が引かれた道は国道119号線。合流点には地蔵尊が祀られています。

 

 追分地蔵

 今市の追分は、ある程度、往時の姿を残しています。2つの街道の間には、国道が通ってはいるものの、かつての様子を充分に味わうことができるのです。

 その背景のひとつとして、両街道とも立派な杉並木を残していることが挙げられます。細長く延びている、2筋のV字状の並木の帯は、地上から眺めても圧巻です。もし、上空から見下ろすことができたなら、さぞかし、素晴らしい歴史の道を味わうことができるでしょう。(実は、上空から見下ろしたV字の杉並木の光景は、今市宿を出た先の案内板で確認することができます。この案内板は、次回に紹介したいと思います。)

 そして、もうひとつの理由としては、街道の追分に、地蔵尊が祀られた祠があるということです。いかにも歴史を感じる地蔵堂。辺りには、厳かな空気が流れています。

 

※追分地蔵。

 

 宿場町

 追分を迎えた街道は、ここで、今市の宿場に入ります。日光道中21次の宿場の中の、20番目の宿場町。それでも、次の宿場の鉢石宿(はついしじゅく)は、日光東照宮門前町ともいえる場所。今市は、実質の、街道最後の宿場町と、言えなくもありません。

 追分が奥ゆかしい一方で、今市宿は、今はもう、往時の面影はありません。新しい国道沿線の街並みに、その姿を変えてしまっているのです。

 

※今市の追分から今市宿を眺めます。

 

 一区切り

 私たちは、この日の朝、徳次郎宿(とくじらじゅく)のはずれ辺りを出発し、ここ今市まで、およそ17キロの道のりを歩くことになりました。

 この日はここで一区切り。上の写真の右側の、4階建てのホテルに向かい、次の日の、最終区間に備えます。

 

 今市宿

 翌朝は、清々しい青空の下、今市の宿場から、最後の区間を歩きます。日光東照宮の門前の、神橋(しんきょう)まで、残すところ8.5キロ。最後の街道歩きを楽しみます。

 今進む今市の宿場には、かつて、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠が21軒ありました。幾つかの街道が合流する、拠点の宿場でありながら、比較的小さな規模だった様子です。

 あと一息で日光に着くのであれば、一気に鉢石を目指すべき。そう考えても、不思議ではありません。今市で泊まる必要性は、それほど無かったのかも知れません。

 

※小倉町交差点。今市の宿場です。

 芭蕉のこと

 千住から、日光道中を辿った芭蕉曾良は、冒頭で触れた喜沢(木沢)から、日光西街道の道筋に入ります。その後、室の八島の神社に立ち寄り、鹿沼の宿場で一泊します。そして、今市を経て鉢石へ。

 鹿沼からの行程は、『おくのほそ道』の本文には書かれてはいませんが、曾良が記した『曾良旅日記』には、次のように書かれています。

 

 「同晩鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)二泊ル。(火バサミ*1ヨリ板橋へ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ。)」

 

 このように、奥の細道の旅に出た芭蕉曾良は、日光西街道を経由して、ここ、今市に、足を踏み入れていたのです。

 ここからは、再び、芭蕉の影を追いながら、日光へと向かいます。

 

 二宮尊徳

 宿場町を歩いていると、右側に、「報徳二宮神社参道」と記された、標柱がありました。その柱の側面は、「栃木県史跡二宮尊徳翁の墓」の表示です。

 街道から直角に、右方向に向かう道が参道で、その奥に、二宮神社があるようです。かつては、誰もが敬った、二宮金次郎。この地にゆかりがあった人だとは、この時初めて知りました。 

 

二宮神社の参道。

 

 道の駅

 さらに、宿場町を進んで行くと、右側に、大きな駐車場と幾つかの新しい建物がありました。ここは、道の駅日光です。「日光街道ニコニコ本陣」の標識もあり、朝ながら、多くの車が停まっています。

 

※右方向に道の駅日光があります。

 国道119号線の道沿いは、全く新しい町に変わっています。整然と整備された町並みを眺めながら、日光へと向かいます。

 街道の正面に聳える山は、奥日光の峰なのか。爽やかな空気の中を、気持ちよく歩きます。

 

※今市の宿場町。

 会津西街道

 宿場町をさらに進むと、歩道の際に「(旧)会津西街道相之道通り」と記された標柱がありました。その標柱の少し先には、右に向かう細道が。そして、その細道のところにも、同様の標柱です。

 表示の通り、この道が、かつての会津西街道。奥州の会津若松までの道のりは、28里だということです。

 

会津西街道との追分。

 私たちは、今市宿の2つ目の追分を確認し、さらに先へと向かいます。

 

*1:実際は、今市市の文挟(ふばさみ)と言うところのようです。