旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[日光道中]35・・・今市宿から上今市へ

 朝鮮通信使

 

 今市の宿場を後にして、再び杉並木に入るところに、「朝鮮通信使今市客館跡碑」と記された、案内板が置かれています。この史跡、街道からわずかに外れた位置ですが、見逃すことはできません。少しだけ脇道にそれ、歴史の跡を訪れます。

 ちなみに、朝鮮通信使のことについては、これまでも何回か、「歩き旅のスケッチ」で触れてきたところです。そのブログの一部を紹介させて頂きます。

 

soranokaori.hatenablog.com

 

soranokaori.hatenablog.com

 

 さて、この通信使、元々は徳川幕府以前から、日本への訪問はあったのですが、その後、徳川の世になって、本格化したと言われています。鎖国の世に、朝鮮との交流が脈々と続いたことは、実に貴重なことだったと思います。

 特に、将軍交代の機を捉え、使節を迎え入れた徳川幕府。通信使の一行が、日光まで足を延ばし、東照宮に参詣したとしても、不思議なことではありません。事実、江戸時代、12回の訪問中、わずか3回ではありますが、使節団は日光を訪れていたのです。

 その時の痕跡が、この今市の地に残っています。遥か昔の、善隣友好の通信使の姿を追って、名残の史跡に向かいます。

 

※今市宿を後にして、再び杉並木に入るところにあった案内板。杉並木公園の中に史跡はあります。

 

 今市宿

 私たちは、引き続き、今市の宿場町を進みます。

 前回紹介した、旧会津西街道との分岐点を過ぎた先が、春日町の交差点。ここが、今市の中心地の様子です。この交差点を左折すると、その先が、日光自動車道路の今市インターチェンジになるようです。

 交差点の西の角には、勇壮な大屋根を配した、新しそうな建物がありました。そこには、「日光みそのたまり漬」の大看板。日光の名産品の老舗のお店なのでしょう。

 

春日町の交差点。

 上今市へ

 春日町の交差点を通り過ぎると、道幅は、やや狭まった感じです。それと併せて、道筋は、緩やかな上り道に変わります。

 途中には、「二宮尊徳翁終焉の地」と記された、標柱がありました。今市は何処へ行っても、二宮翁の足跡が残っています。

 

二宮尊徳翁終焉の地の標柱と今市宿。

 

 街道は、やがて、上今市に入ります。国道の歩道橋の向こうには杉並木も見られます。この分岐の道を直進すると、道路標識にあるように、日光や中禅寺湖方面の国道です。

 街道は、国道のやや右手。暗くなった杉並木の中に入ります。そして、この交差点を右折した先にあるのが、東武日光線上今市駅朝鮮通信使の史跡がある杉並木公園も、この方向にあるようです。

 

※上今市。街道はここから再び杉並木に入ります。

 

 ここで、杉並木の入口を、正面からご覧いただきたいと思います。ここからは、本当に、昔ながらの杉並木の街道が、ものの見事に残っています。

 日光道中ならではの、街道歩きが満喫できる道筋です。

 

※上今市の杉並木の入口。

 

 杉並木の入口

 さて、冒頭で触れたとおり、この場にあった標識が、このブログの最初の写真、「朝鮮通信使今市客館跡碑」というものです。そして、その隣には、下の写真にあるように、「日光杉並木街道」と記された、立派な案内板が置かれています。

 この案内板にあったのが、前回のブログで触れた、日光道中日光西街道の2筋の並木道の空撮です。奥日光の峰に迫る、緩やかな扇状地風の平地の中を、逆V字状の2筋の緑の帯が続いています。

 右方向が日光道中の並木道で、左が日光西街道。そして、合流地点が今市の追分という訳です。

 このように、日光への進路については、今も、立派な杉の並木が誘います。

 

※杉並木の説明板とその写真。

 

 朝鮮通信使客館跡

 私たちはここで少しだけ街道を右にそれ、杉並木公園へと向かいます。

 わずかに、数十メートル進んだ先の正面に、上今市の駅舎が見えました。そして、その手前の左手が、杉並木公園という訳です。

 木々が植わる公園は、杉並木に隣接する位置関係。街道のすぐ裏手にあたります。その公園の入口辺りに、朝鮮通信使客館跡の石碑がありました。

 

※杉並木公園と朝鮮通信使客館跡の石碑(右端)。

 

 石の碑は、2つが寄り添うように並んでいますが、客館跡を偲んでいるのは、右奥のひとつです。そこには、隷書体のような文字で、「朝鮮通信使今市客館跡」と彫られています。そして、その下には、石造りの説明板。

 ここで、説明板の内容を少しだけ紹介したいと思います。

 

 「通信使は、東照宮・大猷院(だいゆういん)に国王からの進物を贈り、公式行事を行いました。」

 「この三回とも、将軍社参並みの扱いを受け、盛大な行列立てをして日光に参詣しており、幕府は通信使のためだけに此の所に一万余両をかけ掛け豪華な客館を新築して持て成しました。」

 

 今市の宿場のはずれに建設された"迎賓館"。今では、静かに佇む石碑だけが、かつての名残りを伝えています。わずかに、3回ほどの使用だけで、役目を終えたこの建物。何とも、勿体無く思えるものの、それこそ、時の権力の、ひとつの象徴的な施設だったのかも知れません。

 

朝鮮通信使今市客館跡の石碑と石の説明板。

 

 杉並木へ

 私たちは、杉並木公園から、杉並木の隙間を通り、並木道に戻ります。未舗装の地道の道は、まさに、江戸時代そのままの街道のようにも思えます。

 往時の旅人達も、この同じ道を踏みしめて、往き来していたのかと思いを馳せて、感慨深くなりました。

 

※杉並木の街道。