旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]67・・・興津宿と清見寺

 歴史が残る町

 

 次の宿場は、17番目の興津宿(おきつじゅく)。この先の、興津・由比(ゆい)・蒲原(かんばら)は、それぞれが、特色ある歴史を残しながら、宿場町の淡い香りを放っています。

 3か所の宿場をつなぐ街道は、左には山が迫り、右側は駿河湾の絶景です。行く手の山の向こうには、富士山の雄姿が潜み、その姿を見え隠れさせながら、旅人を富士の裾野へと導きます。

 

 

 興津宿へ

 元からの国道1号線に入った後は、真っすぐに、この道を北東に進みます。清水の市街地を過ぎた後、多くの車は、海岸線すれすれの所を通っている、新しいバイパスに流れるために、この道は、それほど交通量は頻繁ではありません。

 町並みも落ち着いた雰囲気で、心地よい空気が漂います。

 

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※興津宿に接近した国道の道筋。

 

 興津坐漁荘

 興津宿へと向かいつつ、町並みを眺めながら歩いていると、前方に、幾分大きめの案内標識が現れました。「興津坐漁荘(おきつざぎょそう)」と書かれたこの標識は、車でも目立つほどの大きさです。書かれた文字は、何と読むのか、俄かには分かりません。

 由緒ある、屋敷のような建物が、「坐漁荘」なのか。不思議な思いを持ちながら、近づいていきました。 

 

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※左、興津への街道。右、「興津坐漁荘」の案内標識。


 歩道に沿った板塀を通り過ぎ、門の前に回ってみると、そこには、簡単な説明書きがありました。

 それによると、この建物が「興津坐漁荘」と呼ばれるもので、今は、記念館として開放されているそうです。「坐漁荘」は、明治から大正初期にかけて政界の中枢にいた、西園寺公望公(さいおんじきんもち)の、引退後の別邸として建設された、ということです。

 西園寺公は、晩年は、ここで暮らされたようですが、引退後も、政界を担う人たちは、頻繁に、”坐漁荘詣で”を行っておられた様子です。政界の大御所のご意見は、いつの世も、ないがしろにはできないものなのかも知れません。

 

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※坐漁荘の入り口の様子。

 清見

 興津に向けて、もう少し東に進むと、今度は左上方に、立派なお寺が見えました。「清見寺(せいけんじ)」と書かれた標識があり、由緒ありそうな山門と、一段上の寺院の屋根が勇壮に構えています。

 山門の向こうには、JR東海道線の軌道が通り、さらにその上に、清見寺の境内という配置です。 

 

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清見寺。


 厳かな寺院を眺めながら、その真下に差し掛かってみたところ、歩道の際に、石造りのモニュメントに掲げられた、立派な興津宿の案内板がありました。

 丁度、この案内板を読んでいた時、一人の女性が傍にこられて、

 「ぜひ、清見寺にお立ち寄り下さいな」

 と、声をかけて下さいました。この方は、ボランティアで、清見寺の案内をされているということです。私たちは、お言葉に甘えるように、境内へと足を向けることにしたのです。

 

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清見寺下の案内板。

 清見寺境内

 清見寺の本堂(大方丈)は、実に立派なお堂です。広々とした空間に、仏像などが配置され、歴史の重みも感じます。

 清見寺の建立は、元は、かなり時代を遡るようですが、鎌倉時代に再興されて、その後、手厚く保護されていた様子です。今川氏や、徳川幕府も、寄進を行い、重要な寺院として位置付けていた様子です。

 

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※左、本堂(大方丈)。右、名勝清見寺庭園。

 

 本堂の内部には、数多くの額が掲げられ、ここにも、悠久の歴史の跡を感じます。この中には、朝鮮通信使の詩文の額や、琉球王子筆の額などもあるようで、それこそ、見応えのある空間でした。

 

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※左、本堂内部。右、琉球王子筆「永世孝享」の額。

 

 徳川家康

 清見寺は、殊に、徳川家康にゆかりがある寺院です。案内頂いた女性によると、家康が幼少の頃、今川氏の人質として、駿府に暮らしていた時に、この清見寺を訪れて、住職から手習いを受けていたというのです。

 家康が学んだ部屋は、今も本堂の裏手に残っています。小さな部屋でありながら、ここで学ばれた経験が、後に天下を治める礎になったのか、と、想いつつ眺めていると、家康の存在すら、身近に感じてしまうような錯覚を覚えてしまいます。

 

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徳川家康が手習いを受けていたとされる部屋。

 朝鮮通信使

 清見寺は、先に記した、大方丈の多数の額などにも象徴されているように、朝鮮通信使にゆかりがある寺院です。

 朝鮮通信使は、朝鮮王国から日本に派遣された外交の使節団。遡れば、室町時代あたりから始められたようですが、本格化したのは徳川の世になってからと言われています。

 善隣友好の精神で、隣国である朝鮮と友好関係を温めた徳川幕府は、1607年から1811年まで、都合12回にわたる使節団を受け入れてきたのです。

 この朝鮮通信使、江戸に向かう道中では、滞在先で、大変な歓迎を受けました。興津でも同様で、清見寺は、宿泊所として利用されたこともあるようです。

 

 清見寺の玄関上の広間には、朝鮮通信に関連した資料などが展示され、往時の様子を伝えています。通信使は、下関や鞆の浦福山市)、鳥居本の摺針峠(彦根市)など、海や湖の絶景地において、史跡や口承などを数多く伝えていますが、ここ、清見寺も例外ではありません。

 広間から見渡した駿河湾の絶景地。今では、埋め立てと開発が進んでしまってはいるものの、往時は、家康が祀られている久能山の山並みや、三保の松原の渚までもを望むことができたでしょう。*1

 

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※玄関の上層階にある広間から駿河湾を望みます。

 興津宿

 短時間の滞在にも関わらず、丁寧に案内して下さった女性のガイドの方に感謝して、私たちは、清見寺の石段を下りました。

 東海道の17番目の宿場町、興津宿(おきつじゅく)は、清見寺のすぐ先から始まります。

 

*1:また機会があれば、朝鮮通信使について、もう少し詳しく触れてみたいと思います。なお、「歩き旅のスケッチ」の(中山道)の記事、13、15、19においても、少しではありますが、朝鮮通信使について触れています。また、ご参照ください。