旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[甲州道中]49・・・八王子宿

 千人同心の町

 

 江戸を守る西の要は、関東平野の隅に位置する八王子。甲州道中沿線にあり、地理的にも、重要な場所でした。秀吉から、江戸赴任を命じられた家康は、この地を拠点に、相模の国や甲斐の国との、国境の警護を強めます。

 国境地域の治安維持と、街道の安全確保。この重要な役割を担ってきた人々が、八王子千人同心と呼ばれている、徳川家の家臣です。千人同心の人々が、安全を守る中、信州や甲州などとの交易が、盛んに行われてきた八王子。宿場町の運営とあいまって、関東西部の中心地として、発展を遂げてきたのです。

 

 

 八王子宿

 前々回のブログの中で紹介した、『甲州古道案内図』という資料には、八王子の宿場について、ごく簡単に、次のように記しています。

 

 「甲州などで生産された絹の集積地として栄えた宿場。江戸時代の八王子宿は十五宿で構成されていた。このうち、本宿と呼ばれていた横山宿・八日市宿だけに、市開設権が与えられていた。」

 

 一方、『ちゃんと歩ける甲州街道』は、「宿並は東から横山宿、八日市宿、八幡宿で構成され、総称して「八王子宿」となった。」と、記しています。

 

 往時の宿場の状態は、どのようなものだったのか。資料からは、複数の宿場単位の集合体で、市が開かれ物資の集積地だった、ということが分かります。ただ、単位となる宿場の数や規模については、これだけの資料では、分からないのが実情です。

 複数の宿場単位が存在し、互いに協力し合いながら、宿場運営を行っていた八王子。人流と物流双方の、拠点であったことだけは、間違いのない事実です。

 

 いよいよ、私たちは、八王子の最も西の宿場町、八幡宿(はちまんじゅく)に入ります。

 

※八幡町の交差点。

 

 八幡宿があった場所は、今の八幡町(はちまんちょう)。ここはもう、高層の建物が建ち並び、宿場町の面影は、どこにも見ることはできません。

 八幡宿から始まった、八王子の宿場町には、本陣2軒、脇本陣3軒、問屋が2軒設けられ、旅籠は34軒ありました。複数の宿場単位の合算ですが、おそらくは、単位間の間隔は、それほど開いていなかったと思います。

 

 街道は、ほどなく、八日市の宿場があった八日町に入ります。建ち並ぶ、ビルに沿った道筋は、相変らず、宿場町の面影はありません。

 

※八日町東の信号。

 

 八王子駅界隈

 私たちは、八日町で、この日の街道歩きを終了し、宿泊所へと向かいます。朝早く、神奈川県の相模湖駅から歩き始めた行程は、小原宿、小仏峠、小仏宿、駒木野宿と歩きつないで、その距離およそ18キロ。峠越えも加えると、距離以上に、大変厳しい道のりでした。

 八王子の駅界隈の街並みを、ゆっくりと歩き進んで、JR八王子駅に向かいます。

 

八王子駅入口交差点。

 JR八王子駅周辺は、様々なお店が建ち並び、大変賑やかなところです。駅舎を見ると、小仏峠の麓の駅とは思えないほど、都会感が漂います。

 一気に姿を変えた甲州道中の道筋は、江戸日本橋まで、どのような光景が、待ち受けているのでしょう。この先の行程を想い描いて、宿泊地へと向かいます。

 

※JRの八王子駅

 千人同心のこと

 ここで少し、冒頭でも触れていた、千人同心のことについて、記しておきたいと思います。

 まず、私が、このことについて知ったのは、司馬遼太郎の『街道をゆく1』を読んだ時でした。ここには、幾つかの作品が納められ、その中のひとつが、”甲州街道”だったのです。

 この作品、題名からしてみると、甲斐の国の道筋が描かれているのかと思いきや、話題の多くは、八王子に関することでした。

 そして、八王子千人同心のことについても、その中で触れられていたのです。千人同心の成り立ちの背景が、史実と併せ、作者の鋭い洞察力で描かれたこの作品。少し長くなりますが、同心に関する記述のところを、一部だけ、紹介したいと思います。

 

 まず、豊臣秀吉らによる、小田原城攻め。この戦いで小田原城は落城します。

 

 「7月に落城して、家康はその動揺のなかを江戸へ入ったわけである。北条の落武者が在所在所にかくれたり、盗賊や乞食僧になったりして物情はかならずしも鎮まらなかったにちがいない。それらの落武者や浮浪人やらが、武蔵の西のはしの八王子あたりにあつまり、小屋がけして住みついた。」

 「ーなぜその連中が八王子にあつまるのか。ということを、家康は調べたにちがいない。想像するに、まず武蔵の国で最大の都会というのは八王子だったからであろう。」

 「家康は関東に入って身代が大きくなったため、新規に人を召しかかえねばならない。かれらを放逐して治安をわるくするより、むしろ召しかかえて徳川家臣団の中に組み入れてしまうほうが一挙両得であるとおもったにちがいない。」

 「「八王子千人同心」といわれる特殊な徳川直臣団は、このようにしてできた。家康はかれらを甲州街道の西端のおさえとして八王子に住まわせ、甲斐や相模に抜ける小仏峠の防衛にあたらせた。」

 

 前回紹介した、「あんげ道」と「甲州道中」の追分のあたりから、長房団地入口の交差点あたりまでの街道沿いに、この同心たちが居を構えた屋敷などが、軒を連ねていたそうです。

 今も、その辺りの町の名前は千人町。街並は、往時の姿を消し去ってはいるものの、八幡町や八日町など、宿場の名残の地名とともに、同心たちが住まいした、名残の土地の名称は、今も引き継がれているのです。

 

 日野宿へ

 翌日の朝、私たちは、八王子駅に降り立って、再び、街道歩きを続けます。

 まずは、国道に舞い戻り、八王子宿の東に位置する、横山宿を歩き進んで、次の宿場の日野宿へと向かいます。

 

八王子駅入口東交差点。この辺りが、横山宿だと思います。街道は、ここを左折します。