旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]26・・・有松と桶狭間

 間の宿有松

 

 有松(ありまつ)は、東海道の間の宿(あいのしゅく)として発展し、有松絞り(しぼり)など、伝統工芸の町としても有名です。名鉄名古屋本線を利用すれば、名古屋駅からわずか20分ほどの距離。国道1号線と名鉄の軌道に挟まれたこの町は、都市からの至近距離の位置にありながら、江戸期の町並みが良く残っているところです。

 街道は、有松を出てからは、名鉄名古屋本線と国道1号線に沿いながら、南東の方角へ。古の武将たちが戦った、桶狭間の合戦跡近くを通り抜け、三河の国、池鯉鮒(ちりゅう)の宿場へと向かいます。

 

 

 有松

 有松の町に入ると、街道の風景は一変します。これまでの、普通の家並みは姿を消して、格子窓や漆喰壁など、時代を感じる意匠を配した、木造の建物が連なります。

 まさに、江戸時代にタイムスリップしたかのような、趣ある町並みです。

 ここまでの東海道の道筋で、往時の面影をよく残す町の筆頭は、47番関宿です。それに続くところが、49番土山宿と、この有松だと思います。東海道の多くの宿場が、開発の波に飲まれる中で、このように、歴史的な町並みが残るところは貴重です。

 

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※有松の町並み。

 

 冒頭で、有松は間の宿(あいのしゅく)として発展し、有松絞りで有名であると書きました。ところが、私が有松という町を知ったのは、街道を歩きつないで、この町の姿を見てからです。

 実は、それまで有松は、私の脳裏には存在しない、見知らぬ土地でしかなかった所。鳴海宿を後にして、池鯉鮒(ちりゅう)の宿場を目指す中、突然現れた歴史の町に、驚きと感銘を受けたのです。

 

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※有松の町並み。

 

 絞り商人の町

 有松の道筋に並ぶ伝統的な建物は、その多くが絞商によるものです。町中の案内には、「絞商の主屋は『江戸期』『明治期』『大正~昭和前期』の3つの時代に大きく分類できる・・・。明治以降に建てられた町屋は、天明の大火(1784年)後に確立された有松の町家の基本的な様式を踏まえつつ、当時の流行を取り入れて2階の高さや窓のデザインが変化していく傾向が確認」されると記しています。

 大火に見舞われながらも、伝統を引き継いで今日まで繁栄を保ち続けた絞りの町。これから先も、この風景を後世に残していただければと願います。

 

 そもそも、絞りとは、木綿などの布地の一部を、糸で自在に結んで絞り、藍染めにした生地のこと。ボツボツとした立体の凹凸と、繊細な模様の生地は、高級感を放ちます。

 思いもかけず、伝統家屋と絞りの町に遭遇した私たち。東海道の歩き旅で、ひとつの大きな発見でした。

 

 絞会館

 有松の町並みの美しさに浸りながら、歩みを東へと進めます。町の中ほどには、県道との交差点が現れて、家並みは一時分断されてしまいます。ただ、この交差点は有松の町の中心地。駅にも近く、多くの観光客で賑わいます。

 交差点から東に向かい、街道が緩やかな上り坂へと変わる辺りに、「有松・鳴海 絞会館」がありました。ここでは、絞りの展示や土産物の販売などが行われていて、観光客が気軽に立ち寄れるところです。

 会館辺りは、なめこ壁の建物や古い木造家屋も立ち並び、街道の雰囲気を盛り上げます。

 

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※有松の町並み。

 

 有松から東へ

 絞会館を後にして、わずかに上り坂道の街道を進みます。町並みが現代風に変化して、その中をさらに東に向かうと、国道1号線と合流です。

 その後しばらく、国道の歩道を歩きます。交通量が激しくて、自動車が頻繁に往き交う国道は、もう、街道の風景はありません。道沿いには、郊外型の店舗が目立ち、事務所や倉庫なども点在します。

 左手には、名鉄の軌道が走り、ほどなく、中京競馬場前駅の駅舎です。中央競馬のひとつである中京競馬場。街道は、駅の南を通っていますが、競馬場は北側です。

 

 桶狭間

 この辺り、街道の右手の坂道を上って行くと、桶狭間(おけはざま)古戦場跡があるようです。国道にも、史跡を示す表示板がありました。

 桶狭間の戦いは、1560年に起きた戦国時代の合戦です。この戦い、東海の覇権を狙った駿府(今の静岡市)の今川義元が、尾張の地に攻め入ったもの。尾張の国の織田信長は、軍勢では劣勢を余儀なくされたようですが、桶狭間で奇襲攻撃を成功させて、今川義元を討ち取ったというものです。

 桶狭間では、徳川家康も今川軍として出兵しますが、家康は、この近くにある大高城に入った後、兵を動かすことなく静観していた様子です。戦況の見極めをしていたのか、或いは、他に理由があったのか。大河ドラマの中においても、時々、この時の家康の様子が描かれます。

 「鳴くまで待とうホトトギス」の一つの行動様式だったのかも知れません。

 

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※国道1号線の様子。左に中京競馬場駅が現れて、右には桶狭間の案内がある場所です。

 池鯉鮒宿へ

 中京競馬場前駅を過ぎた後、名鉄の軌道下を潜り抜けると、名古屋市から豊明市(とよあけし)に入ります。街道は、国道を離れて、右手の旧道の方向へ。この先しばらく、名鉄と国道1号線に挟まれて、街道は池鯉鮒(ちりゅう)の宿場を目指します。