旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]64・・・府中宿と静岡市

 静岡の街

 

 静岡平野を、埋め尽くすように広がる静岡市。元は、日本平の南西に位置する静岡市と、北東側の清水市は、別々の街でした。両市は、平成の大合併で統合し、今では、政令指定都市のひとつとして、都市形成が進んでいます。

 街道は、元の静岡市にある府中宿から、清水にある江尻宿へと延びていき、さらに、駿河湾伝いに東進します。この静岡市には、丸子宿から始まって、蒲原宿に至るまで、6つの宿場町が連なります。

 それぞれの宿場町は、長い歴史を刻んだ跡を、今も、道行く人に伝えています。

 

 

 伝馬町から宿場の境へ

 伝馬町の道筋は、数十年前までは、どこか懐かしさが感じられる街でした。呉服町ほど賑やかではなく、また、お洒落ではない街で、古めかしい空気が漂っていたように思います。そんな街も、今では随分様変わり。新しいビルなどが並びます。

 

f:id:soranokaori:20210926160900j:plain

※伝馬町通り。

 

 街道は、伝馬町通りを東に進み、次第に駿府城から離れます。やがて、元からの国道1号線が、斜め右から接近し、一時的に合流です。

 この、合流地点が、府中の宿場の東の境。安倍川の近くから、延々と続いた宿場町は、その距離、3Kmを優に超える長さです。

 

 最大規模の府中宿

 府中の宿場は、東海道では有数の規模を誇る大きさでした。島田市の博物館の展示では、人口は、近江の国の大津宿が最大で、府中宿が続きます。一方で、建ち並ぶ家の数は、府中宿が筆頭です。人口、14,071人、家数、3,673軒を誇った府中の宿場。徳川家康の威厳が息づく宿場です。*1

 家康は、今川家の人質として、幼少期を駿府で過ごします。その後、世の中が混沌とする中で、遠江駿河の国を治めることに。そして、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、江戸幕府を開くのです。その後、わずか数年で後継を秀忠に譲った後は、自らが駿府に入ります。

 幼少期から晩年まで、長い月日を駿府で過ごした家康にとってみれば、駿府の城下は、愛してやまない土地だったことでしょう。

 

f:id:soranokaori:20210926160926j:plain
f:id:soranokaori:20210926161034j:plain

※左、府中宿の絵図。中央の城郭が駿府城で、右に延びる直線道が伝馬町通り。右、府中宿の東境。奥は静鉄の線路。

 府中宿を東へ

 国道1号線と合流した街道は、すぐに国道を跨ぐように架けられた歩道橋を渡ります。街道は、歩道橋を越えた後、斜めに入るの旧道へ。この先で、JR東海道本線と、東海道新幹線の高架下を潜った後で、JRの南の道を通ります。

 

f:id:soranokaori:20210926160952j:plain

※国道1号線との合流地点。街道は、国道を横切って、真っすぐ奥へと向かいます。

 

 古くからの街並みが続く旧道を少し歩いたその先で、再び、JRなどの軌道下を潜り抜け、軌道の北側に戻ります。そこには、少し前と同様に、国道1号線が通っているため、再度、歩道橋の利用です。

 国道を渡った先は、静鉄の線路が走り、柚木駅(ゆのきえき)の小さなホームが見えました。

 

f:id:soranokaori:20210926161104j:plain

※国道1号線の歩道橋を右から左に渡ります。左の鉄道ホームが柚木駅

 

 柚木の道

 この先の街道は、左から近づく山の尾根と、右に広がる日本平の台地とに、挟まれるような格好の、山の隙間を擦り抜けます。

 まずは、静鉄の軌道伝いに東に向かい、大きなショッピングセンターの建物前で、左方向の旧道に入ります。このショッピングセンターは、JR東海道本線の、東静岡駅に隣接していて、その近辺は、静岡市の東部地域の中心地という様相です。

 街道は、賑やかな街を離れて、静かな佇まいの旧道へ。しばらく進んだ先の奥には、護国神社の森が広がり、街道は、さらに軌道に沿って、続きます。

 

f:id:soranokaori:20210926161151j:plain

※旧道の道。路上には「東海道」の道案内シールが貼られています。

 長沼

 住宅や事業所などが混在する街中の道を進んでいくと、左手に、長沼駅の小さな駅舎が見えました。街道は、この辺りから、次第に静鉄の軌道から離れます。

 途中には、道端に、長沼一里塚跡の石標です。静岡市の郊外の道を一路東へと向かいます。

 

f:id:soranokaori:20210926161223j:plain

※長沼一里塚跡と長沼の街。

 

 草薙へ

 長沼の旧道を、道なりに進んでいくと、やがて、国道1号線に合流します。その後、少しだけ1号線の歩道を歩いて、その先で、右前方の旧道に進みます。この辺りは、古庄という街で、新しい住宅が建ち並ぶ地域です。

 

f:id:soranokaori:20210930082014j:plain

※古庄の街を通過する国道1号線。写真中央付近の前方が草薙に向かう旧道。

 

 旧道を進んで行くと、やがて、JR東海道本線にあたります。この先の街道は、鉄道の軌道で分断され、行く手を阻まれる状態に。ただ、幸いにも、軌道下を通過する、小さな歩道が設けられ、私たちは、その通路を通って、線路の反対方向へと進むことができました。

 線路下を潜った後は、再び東へと進むのですが、実は、この道の南側には、静岡の大きな運動公園が広がります。

 この運動公園は、「静岡県草薙(くさなぎ)総合運動場」と呼ばれていて、草薙球場陸上競技場、体育館などの運動施設が整備され、静岡のスポーツのメッカとなっているのです。

 

f:id:soranokaori:20210930082043j:plain
f:id:soranokaori:20210930082110j:plain

※左、JRの軌道下に入る街道。「東海道」の道案内シールがありがたい表示です。右、線路を潜った先にある旧東海道記念碑。

 旧東海道記念碑

 再び、東に向かって進んで行くと、JRの線路脇に、「旧東海道記念碑」と刻まれた大きな石碑が目につきました。

 この石碑と側に置かれた石ぶみは、平成3年に設置されたようですが、旧東海道を偲んでやまない、地域の人たちの、熱い思いが伝わってくるような一文が記されていたのです。

 

 「東海道は昔このあたりを通り、西は古庄へ東は国吉田へと通じておりました。・・・国道1号線が整備されたことから交通量も減り、旧東海道と呼ばれるようになりましたが、昭和37年、国鉄操車場の建設により、栗原の西側が分断され、さらに静清土地区画整理事業による新らしいまちづくりが行われたことから、栗原地内の旧東海道もその姿を消すことになりました。その昔を偲び、なおかつ、旧東海道と共に発展してきました「栗原」の歴史を正しく後世に伝えたい、との願いを込めて、この記念碑を建設することにいたしました。・・・」

 

 街道は、草薙の運動公園の最寄り駅である、静鉄の県総合運動場駅前を通過して、国吉田、草薙(くさなぎ)の街へと向かいます。

*1:宿場の規模については、旅籠の軒数でいうと、尾張の41番宮宿(みやじゅく)が最大だったようです。人口や家数では、この宮宿は第3位となります。