旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]65・・・江尻宿へ

 清水

 

 平成の合併で静岡市になるまでは、清水の街は、清水市として、そこそこの規模を誇る都市でした。

 歴史ある清水港(湊)や、羽衣の伝説と富士山を望む絶景地として有名な、三保の松原などがあり、多くの人が訪れるところです。

 近年では、ちびまる子ちゃんの故郷として、また、サッカーの清水エスパルスの本拠地として、清水の街は、その存在感を誇っています。

 

 

 草薙(くさなぎ)

 草薙総合運動場の最寄りの駅を通り過ぎ、その先を右折した後、少し道幅が狭まった、左手の住宅地の道に入ります。この道は旧道のようですが、今は、新しい民家が並ぶ住宅街の道路です。

 途中、東名高速道路の高架下をすり抜けて、さらに東へと向かいます。この辺りは、日本平の高台の裾野のような地形のところで、緩やかな坂道になっていたと思います。車の量は少なくて、静かな住宅地といった雰囲気です。

 

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※左、草薙総合運動場の最寄り駅を過ぎた所。ここを右折し、前方に向かいます。右、旧道の住宅地。

 街道は、やがて静鉄草薙駅(くさなぎえき)に接近し、そこで一旦、県道に入ります。そこから、1Kmほど進んだところで、今度は左方向の旧道へ。旧道に入る直前には、草薙の一里塚跡の石標があり、その先に、「静岡市清水区 有度(うど)」と書かれた案内標識がありました。

 そこには、府中まで1里26町(6.8Km)、江尻まで24町(2.6Km)との表示です。この日は、静岡の丸子宿を出た先の、静鉄丸子営業所から出発した歩き旅。ここまでに歩いた距離は、15Kmほどにもなったでしょうか。あともう少しで、江尻の宿場に到着です。

 

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清水区の「有度」の標識。

 

 追分から江尻の宿場へ

 街道は、旧道に入った先で、集落の名残を感じる、幾つかの街を通り過ぎ、追分に入ります。追分は、街道の分岐点であると同時に、合流点でもあるところ。ここ清水区の追分は、東海道と清水湊へ至る道(「志三づ道」)の分岐です。

 追分のところには、「追分と金谷橋の今昔」と刻まれた、銅版でできた案内板が置かれていて、往時のこの辺りの光景などを知ることができました。

 元は土橋でできた金谷橋。数件の民家があって、その周りには、農地が広がっていたようです。富士山も望めたとのことですが、今はその姿を見ることはできません。

 

 金谷橋からしばらくすると、大澤川を渡ります。その先には、川の名前が刻まれた、大きな石の標識です。

 

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※大澤川の石の標識。

 この先の街道は、しばらくの間、一直線に続きます。やがて、辺りの様子は、住宅地から、少しずつ、お店なども見られる街へ。次第に清水の市街地に近づきます。

 

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※真っすぐに延びる追分の道。

 

 入江

 街道は、追分を真っすぐ進み、やがて三叉路に行き着きます。この三叉路を、緩い角度で左に折れて行きますが、街の様子は、この辺りから、少し雰囲気が変わります。

 ここは、入江と呼ばれる街で、年を重ねた商店街の姿です。目指す江尻は、ここから少し東に向かったところ。もう目前に迫ります。

 後々資料で確認すると、18番江尻の宿場は、どうも、この入江辺りから始まってたようです。ここを歩いていた時は、この先に、巴川(ともえがわ)が流れていて、宿場町は、その先との認識でした。

 今改めて振り返ってみると、入江の通りの商店街は、宿場町の名残とも言えなくもありません。何となく、懐かしさを感じる街でした。

 

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※入江二丁目の三叉路交差点。

 巴川

 入江の街を先に進むと、いよいよ巴川に到着です。街道は、巴川に架けられた、稚児橋を渡った先で、江尻の街(江尻宿の中心地)に入ります。

 

 有名な、清水湊は、この巴川の河口付近にありました。かつては、江戸や大阪とも航路を結び、大変栄えていた様子です。

 また、巴川の上流は、駿府城の北部に至るため、水運を利用して、駿府への物資輸送が行われていたということです。物流の重要な拠点であった清水の街は、江尻の宿場を擁しつつ、駿府の城下や府中の宿場も、物資面で支えるという、重要な役割が与えられていたのでしょう。

 

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※稚児橋。

 

 稚児橋

 巴川に架けられた稚児橋には、河童伝説が残っています。橋を渡っていた時に、欄干をよく見たところ、河童のプレートが目に止まり、少し不思議な気分になりました。

 解説を見てみると、次のようなお話が伝わっていて、微笑ましく感じたことを覚えています。その話とは・・・

 

 かつて、徳川家康の命令で、この橋が架けられました。橋の完成を祝う渡り初めで、一番年老いた夫婦が先頭を歩いていたとき、巴川より奇児が突然現れて、橋の上を駿府の方角に歩き去ったというのです。このことから、橋の名を稚児橋と言うようになったのですが、この奇児は河童の類と信じられ、河童伝説が語り継がれることになりました。

 

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※稚児橋から見た巴川。橋の欄干には、河童のプレートがはめられています。

 

 運河のような巴川は、昔から、このような姿だったと思います。水運の利があるような川の様子は、水深があり、河童が潜みやすいところだったのかも知れません。

 清水の街の礎を築いた巴川。歴史を重ねて、今も清水の街を流れています。