旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]47・・・袋井宿から掛川へ

 遠州の道

 

 浜名湖を過ぎた後、東海道は次第に太平洋から遠ざかり、なだらかな台地状の平地の中を一路東へと向かいます。その先は、次第に丘陵地が近づいて、視界は遠方の木々の緑を捉えます。

 前面に立ちはだかるのは、遠江の東に広がる、牧之原台地と呼ばれる大丘陵地。街道は、ひとつの難所に向かいます。

 

 

 袋井の街

 袋井西小学校を過ぎた後、街道は、緩やかに弧を描きながら袋井市の街中を通ります。道沿いは、住宅が立ち並び、落ち着いた空気を感じます。

 しばらく進むと、小さな川を越えますが、橋の欄干は意匠が凝らされ、街道の雰囲気を盛り上げます。

 

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※左、袋井の街道。 右、小さな川に架かる橋。常夜灯を模したモニュメントも見られます。

 

 川を渡ると、右前方に、ポケットパークが現れます。この緑地は、袋井宿の西の見附と呼ばれる場所で、実際には、ここが宿場の西の端。ここから先が、袋井の宿場町だったところです。

 西見附には、高札場もあったということで、掟書きが記された、高札の復元もありました。

 

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西見附

 

 袋井宿

 袋井の宿場町は、往時の面影が色濃く残るところはありません。概して、街並みは、平凡な旧市街地という感じです。それでも、ところどころに、宿場の名残を伝えようと、再整備された意匠などが施され、旅人の目を引き付けます。

 街道が、市街地の交差点に差し掛かったところには、袋井宿場公園と名付けられた公園がありました。そこには、宿場町の雰囲気を盛り上げる、モニュメントなどが設置され、良い雰囲気を放ちます。

 この交差点を右に折れ、数百メートル進んだところが、 袋井のJR駅がある市街地です。街道は、駅からは少し距離を置き、静かな街中を進みます。

 

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※左、袋井宿の様子。右、宿場公園。

 

 宿場公園は、街道の右側ですが、すぐ先の左手には、袋井宿東本陣公園です。この公園は、大きな木製の冠木門が正面にあり、その奥に、小さな広場が隠れています。

 門の前に置かれていた、石造りの案内板には、袋井宿に3軒の本陣があったことなど、簡単な説明書きがありました。

 

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※東本陣公園。

 

 どまん中の宿場町

 東本陣を過ぎた後、宿場はもうしばらく続きます。その先で、少し左に迂回して小さな橋を越えますが、この橋が天橋です。橋の手前の左には、「東海道どまん中茶屋」と記された、趣ある建物の休憩所が見えました。

 袋井宿は、東から数えても、京の都から数えても、27番目の宿場町。東海道53次の「まん中」が、プロモーションの中心です。それでも、このことは、あまり知られていないのか、認知度はまだまだ低いと思います。

 

 天橋

 天橋を渡った先で、すぐ右に折れ、川沿いの道を歩きます。その道沿いに、「袋井宿と天橋」と書かれた案内板や、宿場町をイメージさせるモニュメントなどがありました。

 案内板には、「天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋です。」と記されて、さらに、「袋井宿は天保14(1843)年の調査によれば、宿内の町並は西端の中川まで5町15間、人口は843人、家数は本陣3軒旅籠屋の50軒を含め195軒でした。」と書かれています。

 この記述から、袋井宿は1Kmにも満たない延長だったことが分かります。宿場の中には、その距離が2Kmを超えるところもあったはず。それを思うと、規模的には決して大きくはない宿場町だったということです。

 

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※天橋近くに掲げられた案内板。

 

 郊外へ

 天橋の次の橋は、主要道路が通ります。この位置は、袋井市役所南交差点。左角は、袋井市の教育会館の建物で、その奥が市役所です。

 街道は、ここを左に折れて、主要道路を少しだけ北方面に進みます。その先で、右方向の旧道に入るのですが、そのルートは複雑です。地図を手にして、慎重に進みます。

 やがて、再び大きな交差点に合流し、ここを東の方向へ。 

 

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※左、袋井市役所南交差点。右、旧道を出た後の交差点。

 街道は、一旦、主要な道路に合流し、その先で、再び右方向の旧道に入ります。その後は、交通量が頻繁な幹線道路を避けるように、静かな、落ち着いた雰囲気の道が続きます

 

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※袋井の東の郊外。

 旧道

 この先の街道は、ところどころに、松の並木の名残が見られ、往時の様子を感じながら、気持ちよく歩ける区間です。

 道幅は、元の道から拡張されてはいるのでしょう。それでも、緩やかに湾曲しながら先に延びる道筋は、何となく味わい深さを感じます。

 道は、旧来からの住宅地を横切るように東へと向かいます。やがて、右側に小学校が現れて、門のところに、「どまん中東小学校」との表記です。袋井宿の直前にあった学校は、「どまん中西小学校」。街道沿いに、東西の小学校が張り付いているのです。

 

 小学校前の歩道には、松並木も残されて、街道の保全に努められている様子です。また、学校の東側には、校庭に食い込むように、久津部(くつべ)の一里塚跡がありました。今は、一里塚の姿は無いものの、その証を伝えるように、大切に守られているのです。

 一里塚跡に掲げられた説明板には、「本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。」との記載です。

 天竜川の右岸の町、中野町にも、「江戸へも60里、京へも60里」の記載*1があって、少し違和感を覚えてしまいます。おそらくは、時代によって、街道の道筋も少しずつ変化したため、当時としては、正確にはなかなか距離を測りづらかったのかも知れません。

 

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袋井市東小学校にある、津久部の一里塚跡。

 

 掛川

 街道は、なめらかに屈曲を繰り返しながら、住宅が建ち並ぶ集落を進みます。やがて、事業所などが点在する辺りになると、松並木も随所に残り、往く人を掛川市へと誘います。

 

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袋井市東部の街道。

 

*1:「歩き旅のスケッチ[東海道]43」を参照ください。