旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[北国街道]29・・・新町宿から飯綱へ

 丘陵地の集落

 

 街道はこの先で、少しずつ標高を上げ、飯綱町との境界の峠道へと向かいます。途中には、善光寺の背面に聳えている三登山(みとやま)の東に広がる斜面に沿って、若槻・田中・田子・吉などという集落が連なります。丘陵地に広がる集落は、古くから人々の営みがあったのでしょう。斜面には、果樹園や農地が見られ、肥沃な土地が広がっているのが分かります。

 道筋から東を見ると、眼下には豊野の盆地が見渡せます。その向こうには、深い山並みが連なって、雄大な信州の景観を味わえる道筋です。

 

 

※新町宿から牟礼宿までの行程。

 

 新町宿

 小さな川を越えていくと、かつての新町宿に入ります。ただ、道沿いは民家が並ぶごく普通の町並みです。

 それでも、大きくカーブを描く道筋は、街道の名残りでしょうか。私たちは、かつての宿場町を北に向かって進みます。

 

※新町宿の入口辺り。

 

 稲田交差点

 しばらく進むと、変則的な交差点を迎えます。一応、四辻の形態ですが、直角には交わらず、いびつな形をしています。

 街道は、斜め右方向。交差点を真っ直ぐ先に向かいます。

 

※稲田交差点。

 道標

 かつての新町の宿場町を歩いていると、途中で右方向に分岐する県道が現れました。そして、分岐の角のところには、下のような道標です。

 「左 北国往還」は読めますが、「右」は、よく分かりません。ただ、左下は確かに「くさつ 道」と読めるような気がします。

 この右に向かって延びる道は、飯山街道と呼ぶようです。地図を見ると、確かに、雪深い飯山方面と繋がっているようです。

 

※T字路の分岐の角に道標がありました。

 

 坂道

 街道は、やがて、新町宿を後にして、急坂を迎えます。坂道の道沿いは、古くからの集落の様相で、宿場町を通り過ぎても、民家などが軒を連ねていたのかも知れません。

 民家の庭先にある美しい木々の姿は、旅人の心を捉え、疲れた身体を癒してくれているように思えます。

 

※急坂を迎えた街道。

 

 急坂を上り切ると、その先は、一旦下り道へと変わります。狭い道ではありますが、車の往来はそこそこあって、抜け道のような状態です。

 この辺り、若槻と呼ばれる集落だと思います。ただ、集落とは言うものの、長野市の市街地に隣接している地域のようで、そこそこの住宅地の様相です。

 

※街道は一旦下り道へと変わります。

 

 十王堂

 道は、下り坂から上り坂へと変わります。この坂道も急勾配で、一気に標高を高めていく感じです。

 道沿いは、依然として、民家が軒を連ねて並んでいます。そして、この急坂の道の左手に、白壁の小さな祠が見えました。

 

 

※上り坂に変わった街道。道の左手には白壁の小さな祠が見えます。

 

 この祠、近づいて見てみると、扁額には、「十王堂」と書かれています。説明書きがないために由緒などは分かりませんが、さぞかし長い年月の間、地域の人々に守られてきたのでしょう。

 十王堂の右隣りには、常夜灯と立派な石柱も見られます。石柱に書かれた文字は「蚊里田(かりた)八幡宮」と読むのでしょうか。神社など、近くには無いようですが、かつては、この奥に神社があったのかも知れません。

 

※十王堂と蚊里田八幡宮の常夜燈など。

 

 田中

 十王堂を通り過ぎてしばらくすると、今度も左手に、「幸清水」と刻まれた立派な石柱がありました。

 明治初期の頃に築かれた、簡易水道の施設だそうで、山間にある湧水から竹で繋いだパイプを敷いて、この辺りの集落の水を確保したということです。

 

 坂道を上り進むと、やがて、幹線道路と交わります。この道は、県道60号線で、長野市飯綱町を繋いでいます。

 街道がこの幹線道路と交わる場所が、田中の交差点。この先、民家はまばらになって、斜面には農地などが広がります。

 

※田中の交差点に差し掛かる街道。

 

 田中の交差点を過ぎた先から、右手(東~北東方向)を望んでみると、集落の農地の向こうに、豊野の盆地が見下ろせます。そして、その先には、何重にも連なった山並みです。

 こうして見ると、街道は、ずいぶんと標高を高めてきたのが分かります。

 

※田中の集落に入った街道からの眺め。

 

 街道は、依然として、上り道が続きます。正面奥には、次第に山並みが近づいてきた感じです。

 

※田中の集落を北に向かって進みます。

 田子(たこ)

 しばらく進むと、左から次第に山の尾根が近づきます。この辺り、もう田中の集落を通り過ぎ、田子と呼ばれる集落に入ってきた様子です。

 ふと見ると、道端には、白い前掛けをしたお地蔵さんがありました。このお地蔵さんは船地地蔵と呼ぶようで、享保4年(1719)のものだそう。当初は、善光寺下の馬道沿いにあったものを、明治の頃に、この田子の集落に移されたと書かれています。

 

※船地地蔵。

 

 集落の間を縫って、街道は続きます。左からは山が迫り、道は細かく蛇行しながら、山の傾斜に沿うように先へ先へと進みます。

 ここまで来ると、市街地の風景は後退し、古そうな町並みの姿に変わります。

 

※田子の集落を通る街道。

 

 街道は、少しずつ高度を上げて、山の方へと向かって行く感じです。右に左に蛇行しながら続く道。田子の公民館の前を通って、更に北へと向かいます。

 

※田子の公民館前を通る街道。

 

 やがて、街道は、集落を通り抜け、田子池と名付けられたため池の傍を通ります。この辺り、ひとつの尾根の先端なのか、周囲は少し開けた様子のところです。

 この先、街道は、吉(よし)と呼ばれる集落に入ります。

 

※田子池の傍を通ります。