旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]68・・・興津宿から薩埵峠へ

 交通の要衝

 

 興津宿は、それほど大きな宿場ではありません。それでも、この先に薩埵峠(さったとうげ)が控えているため、旅装を整える場所などとして、賑わっていた様子です。

 興津は、また、甲斐の国の山中にある、日蓮宗の総本山、身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)に向かう参詣道との分岐点。久遠寺の先にある、甲府へと向かう旅人も、少なくはなかったと思います。

 町自体は、それほど色濃く、街道の面影を残した場所ではないものの、幾つもの歴史の名残に触れられるところです。

 幾本もの交通の動脈が通過している興津の町は、単なる通過点とするのではなく、一度は訪れて頂きたいところです。

 

 

 興津の歴史

 清見寺境内下の、歩道の際に置かれている説明板を見てみると、興津宿の概要が分かります。

 まず、「興津の歴史」の解説では、古代から交通の要衝として栄えてきたこと、そして、680年頃には、清見寺の下に清見関(きよみがせき)と呼ばれる関所が設けられたことなどが書かれています。

 さらに、鎌倉時代には、興津氏が一帯を支配して、江戸期には、東海道17番目の宿場町として繁栄したとの記載がありました。また、江戸期には、興津川流域で生産された、和紙の産地としても知られていたということです。

 明治以降は、前回の「歩き旅のスケッチ」でも紹介した、西園寺公望公の別荘に関する記述をはじめ、伊藤博文公などの政府の重鎮が、避寒の地として訪れていたことなども紹介されているのです。

 

 興津宿

 「興津の宿場」に関しては、「宿内の町並み10町余り」とされていて、およそ1Kmの長さだったことが分かります。

 天保14年(1843)には、人口1668人、家数316軒、内本陣2件、脇本陣2軒、旅籠屋34軒の規模だったということです。

 

 説明板を一読して、そのすぐ先の、宿場町へと向かいます。

 興津の宿場は、真っすぐに、東西に延びる直線の沿道上にありました。道幅や町並みこそ、大きく変わっているとは思えるものの、今もその、基本の形は同じです。

 

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※本陣跡の石標。

 

 興津の宿場は、歴史ある寺院などを残していますが、町並み自体は、今では、ほとんど往時の面影が感じられるところはありません。国道沿いに整備された歩道に沿って、住宅やお店などが混在する、新しい町並みを進みます。

 

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※興津宿公園前の町並み。

 

 興津宿公園

 歩道の際には、本陣跡の石標などが置かれている他、興津宿の公園には、かつての宿場の案内図などが掲げられ、興津の町のほのかな魅力を伝えています。

 かつては、避寒地として有名人が集ったこの町は、温暖な気候は言うまでもなく、駿河湾や富士山などの絶景が、欲しいままにできるという、贅沢な町だったのだと思います。

 

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※興津宿公園の宿場案内図。

 宿場町の街道

 国道沿いの街道は、真っすぐに東へと向かいます。少し由緒のありそうな建物なども見られるものの、概して、新しい感じの家並みが続きます。

 途中、交差点を左に入ると、JR興津駅があるようです。そして、街道をさらに東へ向かった所に、一里塚跡の石標がありました。もう、この辺りから、宿場町の東の境を越えて、郊外へと向かう道に入るのかも知れません。

 一里塚の少し先には、左に延びる街道との分かれ道、身延山道との分岐点がありました。

 

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※一里塚の石標。

 

 旧道へ

 街道は、その後、興津中町の少し大きな交差点を迎えます。そして、その先で、左手の旧道に入ります。旧道の道幅は、往時の広さがそのまま残ったような狭い道。国道を少し迂回するような恰好で、住宅が連なる道筋を進みます。

 

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※国道から左側の旧道に入ったところ。

 

 迂回した旧道は、やがて、元の自動車道路に戻ります。ただ、この道は、もはや国道ではありません。少しややこしい説明にはなりますが、国道自体は、合流するわずか手前で、新しい静清バイパスに向かいます。それでも、旧国道は、その先も少しだけ残っていて、格下げされた道のような格好で、街道と一体となっているのです。

 

 私たちは、この日は、街道の合流地点で行程を終了です。清水の街の江尻宿から、7Kmほどの道のりでしたが、関東での所用のために、数日間、街道歩きを中断です。

 

 興津川

 街道と旧国道の合流点に戻ってきたのは、この地点を去ってから、数日後のことでした。この間、東海地方や関東では、雨続きの天気になって、歩くことは叶わない状態だったと思います。運が良いのか悪いのか、兎にも角にも、再びの街道歩きを始めます。

 合流点に入った後で、街道は興津川を越えるのですが、興津川に架けられた、旧国道の橋梁は、さすがに元の国道橋。しっかりとした構造です。

 右手に、新しいバイパスの橋を見ながら、興津川を渡ります。

 

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※左、旧国道の橋。右、橋を越え、左に折れた先のJR東海道線の軌道下。

 街道は、興津川を渡った先で左に折れて、興津川の左岸の道を上流へと向かいます。途中には、JR東海道本線の線路下を潜り抜ける道もあり、街道という感じではありません。

 本来の街道は、もう少し上流のところで、興津川を渡ったのだと思います。

 

 清見寺で頂いた資料を見ると、興津川の川越えと、薩埵峠(さったとうげ)の街道ルートは、過去何回か、変更されたということです。最も新しい街道ルートは、下の写真の茶色の道。今は、この道に架かる橋がないために、緑・赤・青で印した道筋を利用して、興津川を渡るのです。

 川を渡ったすぐ後で、茶色のルートに戻るために、今、興津川の左岸の道を上流へと向かっているということです。 

 

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興津川と薩埵峠付近の街道ルートの変遷。

 峠への道

 興津川の左岸道路を少し歩くと、街道は、集落の道へと変わります。右手には小高い山が迫ってきますが、正面の山の姿は、まだもう少し先の方。興津川に沿って開けた、川伝いの細い平地がまだしばらく続いています。

 

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興津川右岸の道が集落に入ったところ。

 街道は、集落内で、右方向の細い道に入ります。集落の家並みが並ぶ中、山裾を目指すように、奥へ奥へと向かいます。

 

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※川伝いの道から、右方向に進みます。