旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[甲州道中]38・・・関野宿へ

 相模の国へ

 

 信州から甲州を歩きつないで、甲州の最東端、上野原の宿場に着きました。甲州道中と言う名のとおり、甲斐の国を中心に、信州と江戸とを結ぶ、江戸時代の幹線道路。様々な表情を見せながら、旅人を誘います。

 街道は、この先で、甲州を後にして、相模の国に入ります。相模の国の街道は、山伝いに続く道。桂川から名前を変えた、相模川の渓谷沿いに、蛇行しながら上り下りを繰り返し、最後の難所、小仏峠へと向かいます。

 

 

 鳥沢駅から上野原駅

 大月市の鳥沢から、この先の関野宿までの行程は、前回にも触れたとおり、変則の街道歩きになりました。

 今回の歩き旅、スタートは、大月市猿橋駅猿橋宿のところ)。ここから、鳥沢駅(下鳥沢宿のところ)までは、約4キロの道のりです。鳥沢から、先に続く街道は、15キロの山道で、上野原の駅までは、最寄りの駅はありません。

 従って、私たちの行程は、猿橋→下鳥沢・・(JR)・・上野原→関野を消化して、翌日に、前回まで記してきた、上鳥沢→犬目→野田尻→鶴川→上野原区間を歩いてきたという訳です。

 

Google Maps より、鳥沢・上野原間の地図を拝借しました。甲州道中は、鳥沢から県道30号線と、E20近辺の旧道を通過しています。

 

 今回は、前日に歩きつないだ、上野原から、関野までを紹介します。日程は変則ですが、ブログの流れは、街道を順序通り辿ります。

 

 上野原駅

 猿橋から、4キロの行程を歩いた後で、鳥沢駅から電車に乗って移動です。目指す先は、上野原の宿場がある、JR中央本線上野原駅。この間およそ20分。歩けば、1日がかりの山道を、わずかの時間で結んでいます。

 上野原の駅からは、急坂を上ること、約1キロ。大変な道ですが、この手段で街道に向かうしかありません。*1

 坂道を上り進んで、上野原の宿場通り、新町二丁目交差点に到着です。

 

 宿場のはずれ

 上野原の宿場町は、この交差点辺りまで。その先は、お店の数も減少し、国道伝いに、民家が軒を連ねています。

 

※上野原宿の東のはずれ。この先国道は左、甲州道中は右へ。

 旧道へ

 やがて国道は、左に大きくカーブして、街道は、真っ直ぐ進む旧道に入ります。上野原では、宿場町の区間だけ、国道が街道の道筋と重なっていて、その他の区間は、基本的に旧道を進みます。

 旧道に入った街道は、交通量が減少し、静かな住宅地が連なります。

 

※新しい住宅が並ぶ旧道沿いの道。

 

 旧道の途中には、「旧甲州街道」と記された標識や、道から外れたところにある、史跡を示す道標などがありました。

 私たちは、寄り道をせず、先の道を急ぎます。しばらくすると、街道は、緩やかな下り坂。道筋も、ゆっくりと弧を描いて続きます。

 

※旧道に設置された標識を確認して、先を急ぎます。

 

 塚場の一里塚

 坂道が、一段下ったところには、「塚原一里塚」と記された、案内板がありました。この場所は、疱瘡神社の敷地でしょうか。一里塚のすぐ隣には、朱塗りの立派な鳥居です。

 案内板には、「江戸日本橋から十八番十八里にあたり、甲斐国山梨県)に入って最初の一里塚です。」と書かれています。実際には、「疱瘡(ほうそう)神社の裏手にある小高い塚が一里塚と言われている」とのこと。

 私たちは、神社には入らずに、街道歩きを続けます。

 

※塚原一里塚と疱瘡神社の鳥居。

 

 中央自動車道

 街道は、一里塚を越えた先で、中央高速自動車道路の跨道橋(こどうきょう)を渡ります。橋の下には、高速道路。東に向かうと、渋滞で有名な、小仏トンネルがすぐそこです。

 

中央自動車道を越える街道。

 

 国境へ

 街道は、跨道橋を越えた後、もう一度、下り坂に入ります。この先は、集落の様相で、途中には、「旧甲州街道」と刻まれた、大きな石標がありました。

 ただ、この石標、歴史を感じる装いですが、左右に彫られた文字を見ると、そこそこ新しい感じです。「あいさつをかわす思いやりの道」とのフレーズは、集落の人々の思いが伝わる内容です。

 

甲州道中の石標。

 

 しばらく進むと、道沿に建つ、立派な蔵に目を引かれます。古からの集落なのか、静かで、落ち着いた雰囲気のところです。

 街道は、緩やかに弧を描き、次の集落へと向かいます。

 

※立派な蔵が建つ集落。

 わずかに下る坂道は、木々が迫る林の中を擦り抜けて、平坦な道につながります。この辺り、甲州上野原市の最東端。この先に、相模の国との国境が、待ち構えているのです。

 

※神奈川県との県境に近い境沢の集落。

 諏訪関跡

 やがて街道は、再び下り坂に入ります。大きく湾曲を繰り返す下り道。その途中のところの左には、諏訪関跡の案内板がありました。この関所、武田氏により作られた、甲斐の国への出入口。戦国の世にあって、人や物資の出入りの様子を、厳しく監視していたところです。

 

※諏訪関跡。

 

 相模川

 街道は、この先で、つづら折れの下り坂を迎えます。道は一気に高度を下げて、桂川から相模川へと名前を変える境界へと近づきます。

 

※つづら折れの下り坂。

 

 坂道を下り切ったところには、国境の橋が架かります。この橋は、境沢橋と呼ばれていて、まさに、この橋の中央に、甲斐の国と相模の国の境界があるようです。

 おそらく、これまでの桂川も、ここから先は相模川となるのでしょう。ただ、街道は、境沢橋を渡ることはありません。橋を渡る直前で、左に大きく折り返し、元来た道の直ぐ脇を、反対の方向へと戻るのです。

 

※境沢橋。街道は、左手に折り返し、ガードレールの向こうを手前方向に進みます。

 

 国境

 折り返した街道は、下の写真の状態です。つづら折れの坂道のすぐ下を、折り返すように進みます。

 実は、街道が越える国境は、この道の正面奥。その場には、相模川に流れ注ぐ、支流の小さな川があり、その橋の中央付近で国境を渡ることになるのです。

 

※国境直前の街道の様子。

 

 相模の国へと踏み入れた街道は、少しだけ、集落の坂道を上ります。そして、その先が、国道20号線との合流点。名倉入口交差点と呼ばれているところです。

 いよいよ、甲斐の国から相模の国へ。次の宿場の関宿も、もう間近のところです。

 

※名倉入口交差点(旧道と国道20号線との合流点)。

 

 

*1:路線バスはありますが、何本も出ている訳ではありません。