今年もよろしくお願いします。
年末年始の期間中、しばらく休憩させていただきました。この間、我が家も久々に家族が集い、てんやわんやの大騒ぎ。挙句の果ては、体調を崩してしまう始末です。
今日からは、ようやく体力も回復し、元の生活に戻ります。これまで通り、週2回、月曜と金曜の記事掲載に努めますので、ご愛読、よろしくお願いします。
今年は、3月頃まで、「歩き旅のスケッチ[甲州道中]」シリーズを続けさせていただいて、その後、「歩き旅のスケッチ[日光道中]」に移ります。途中、部分的に、「巡り旅のスケッチ」として、西国三十三所の巡礼の様子もお伝えできればと思っています。
では、相模の国に踏み入れた、甲州道中の旅の続きからの再開です。
相模の道
甲州道中の道筋は、わずかの区間、相模の国を通ります。相模川に築かれた、人工の湖の相模湖を見下ろしながら、湖の北に連なる山の斜面を歩きます。
この間は、時折、国道20号線を辿りつつ、大半は、古くからの街道です。山の中に残された、歴史の道を歩き進んで、相模の国を横切ります。
関野宿へ
国境を過ぎた後、国道に戻った街道は、その先で、少しだけ山道に入ります。ただ、私たちは、その入り口を見失い、そのまま国道を進むことになりました。
山道の旧道を確認することができたのは、少し先の辺りです。国道の左には、石畳風の脇道が延び、その入り口には、「甲州古道」と記された、道標がありました。こちら側では、その入口を見誤ることはありません。少し後悔の念を抱きながら、間近かに迫る関野の宿場を目指します。
※国道から北にそれて通っている旧道。写真は東の出口です。
関野宿
国道をしばらく歩くと、道路際の民家の前に、それほどは目立たない、案内板がありました。この案内板、「関野本陣跡」と書かれています。
道沿いは、古くからの集落の様相ですが、宿場町の面影はありません。それでも、案内板を見る限り、この辺りが確かに関野の宿場。直前の上野原の宿場から、約4キロのところです。
※関野宿の様子。
本陣跡に建てられた案内板は、下の写真の通りです。やや、退化した感じではありますが、そこには、次のように書かれています。
「関野本陣は、延宝二年(1674年)に設定され、江戸から十八里の位置にあり、隣の吉野宿」えは二十六町、甲斐の国上野原宿へは二十四町*1のところにあります。往時には、この近辺は奥三保とも桂里とも呼ばれており、関野宿は、諏訪番所(前回のブログで紹介しています。)を通り甲斐の国に通じる最後の宿場だっただけに大変重要視されていました。」
「道巾は二間余り、民家が相対して軒を並べ、本陣・脇本陣を備えた宿場であったが、明治二十一年の火災と、その後二度の大火によって本陣及び宿場のおもかげを残すほとんどの建物が焼失してしまいました。」
※本陣跡に置かれた案内板。
関野宿には、本陣、脇本陣、問屋が各1軒ありました。そして、旅籠は、わずかに3軒。もともと、宿場としては、小規模だったようですが、一般の民家が軒を連ねて、そこそこの集落を形成していた様子です。
藤野駅へ
関野の宿場の途中辺りで、街道は国道をそれ、右側の脇道に入ります。その先は、JR中央本線の軌道を越える歩道橋。街道は、軌道を越えて、向かい側の細道へと進みます。
※JR中央本線の歩道橋。街道は、ここを通ります。
歩道橋を下りた先は、舗装道を辿らずに、真っ直ぐの土道に入ります。少しの間、軌道と林に挟まれた、細い道を歩きます。
※歩道橋の下り坂。街道は、真っ直ぐの土道に入ります。
やがて、街道は、緩やかな下り坂に入ります。すぐ左脇の鉄道も、次第に上部に遠ざかり、木々が覆う、鬱蒼とした状態に。この道が、本当に街道なのかと、不安になるような道筋です。
この辺り、元々は、今の軌道敷きそのものが、街道のルートだったのかも知れません。今は、そのすぐ近くの道筋を、仮の道との位置づけで、つなげられているのでしょう。
※細く続く軌道下の街道。
やがて、街道は、仮の道のところから、旧道の道筋へと変わります。道沿いには、民家なども現れて、その先には、マンションなども見られます。
相変わらず、JR中央本線は、街道のすぐ左側を通っています。
※旧道に入った街道。
旧道の道筋は、この先で、ちょっとした住宅地に入ります。左に迫った山の斜面も、やや遠ざかった感じです。切り立った、谷間の地形は、国道やJR中央本線の軌道の位置から、緩やかな傾斜をつけて、相模川へと下っています。
この緩やかな傾斜のところが、新しい住宅地。街道は、その中をすり抜けて、一旦国道に戻ります。
※国道へと戻った街道。
私たちの街道歩きは、この日はここで一区切り。国道傍の、JR中央本線藤野駅を利用して、宿泊地へと向かいます。
2日半の行程で臨んだ今回の街道歩き。2日をかけて、猿橋駅から藤野駅まで、踏破することができました。
翌日は、あと半日。相模の国の街道歩きを続けます。
※街道(国道20号線)のすぐ北にある藤野駅。
翌日
翌日の朝、再び藤野駅に舞い戻り、街道歩きを再開です。
街道は、駅を下りてわずかのところ。国道20号線の道筋です。それほど道幅は広くなく、歩道も途切れ途切れの状態です。
※日連入口の信号。
旧道へ
住宅が軒を連ねる国道を、少しの間、歩きます。その後、国道は、右へと大きく迂回する中、街道は、真っ直ぐ延びる旧道へ。
※国道が右方向に迂回しますが、街道は真っ直ぐです。
旧道は、真っ直ぐ延びる道ですが、その代わり、小高い丘を横切るように、上り下りで続いています。
落ち着いた雰囲気のこの道の途中には、中学校もありました。
やがて、下り道に入っていくと、その先で、旧道は、再び国道と合流です。
※旧道の様子。右は、国道との合流点に近づく街道。
吉野宿へ
国道と合流した街道は、左から流れ下る、沢井川に架けられた、吉野橋を渡ります。この沢井川、街道の右手を流れる、相模川の支流です。吉野橋のすぐ右側で、相模川に注いでいます。
街道は、橋を越え、すぐ先に近づいた、吉野の宿場を目指します。
※沢井川に架けられた国道の吉野橋。
*1:表記は誤りだと思います。実際には、三十四町のはずです。