旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[熊野古道]10・・・熊野三山(前編)

 熊野の3大社

 

 古くから、熊野の地を目指した人々は、熊野本宮大社に参詣するのが、最大の目的でした。深くて険しい山道を越え、熊野の清流が注ぎ下る水際に、目指す聖地はありました。(大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、今も熊野川のほとりにその敷地が残っています。)ところが、明治の大水害で、その聖地は破壊され、遷宮を余儀なくされたというのです。今ある熊野本宮大社は、熊野古道の最後の斜面を切り拓いたような場所にあり、川からは少し離れた、高台のところです。

 かつて、人々は長旅の末、ようやく辿り着いた熊野本宮大社の神前で祈りを捧げ、その後は、新宮の熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)に向かうのです。熊野には、さらに、もうひとつ、那智の滝で有名な、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)が控えています。

 3つの社を巡る熊野詣。熊野三山と称される聖なる地域の巡礼です。

 

 

 熊野三山

 熊野には、冒頭で記したように、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの大社が存在します。それぞれが、個別の成り立ちを有しているとは言うものの、熊野信仰そのものは、3か所が一体となって聖地化されているのです。

 「歩き旅のスケッチ[熊野古道]5」において、少し触れた”三体月伝説”は、月が3つに見えるというものでした。この言い伝えとよく似た話が、熊野本宮大社にも残っています。その話とは、3つの月が、この熊野の地に降り立って、熊野権現として3つの社(熊野三山)に祀られたというのです。

 「日本書紀」などの神話に結びつけられた、熊野の地。日本の成り立ちの聖地として、人々の心を引き付けて止まない場所でした。

 

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※元の熊野本宮大社の鳥居と森、「大斎原(おおゆのはら)」。

 

 熊野本宮大社

 熊野古道を歩いた先は、熊野本宮大社の裏鳥居。そこから、神殿の左側面を回り込み、境内へと向かいます。

 境内に入ったところには、すぐ左手に拝殿が構えます。三本足の八咫烏(やたがらす)の幟旗や石像が勇壮で、特別な場所と言う雰囲気です。

 

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※拝殿。

 

 八咫烏(やたがらす)

 八咫烏のことについては、境内にあった説明板に、次のように書かれています。

 

 「熊野では八咫烏を神の使者と言われています。・・・烏は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇の東征の砌(みぎり)、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。・・・」

 

 初代神武天皇が、九州から東に向かい、熊野を経て大和の橿原へとたどり着き、大和王権を築いたとされる伝説は、幼いころ、耳にしたような気がします。この熊野から、天皇を大和へと導いたのが、八咫烏だったのです。

 ちなみに、日本サッカー協会の旗に描かれたシンボルも、この八咫烏。今では、私たちにとっても、身近な存在となっているのかも知れません。

 

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熊野本宮大社

 

 拝殿から、右隣りの門をくぐって、大社の本殿に向かいます。3棟4殿の建物は、まさに荘厳という他ありません。神聖な空気を感じながら、本殿への参拝を済ませます。

 

 帰路

 本殿から踵を返して、大社の正面入り口へと進みます。道は、真っすぐに階段を下り進む通常の参道と、右側の地道でできた坂道に分かれます。実は、この右側の坂道が、かつて、大斎原へとつづいていた、熊野古道です。

 私たちは、古道を伝い、正面へと向かいます。 

 

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※左、正面に向かう古道。右、正面から見た通常の参詣道。

 

 正面に下り立つと、森に向かって、熊野本宮大社の立派な鳥居が構えています。ここが本来の正面となるところ。私たちは、ここで別れを告げて、次の目的地に向かいます。

 

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熊野本宮大社正面鳥居。

 

 熊野速玉大社

 熊野本宮大社の参詣を終え、朝、車を停めた、熊野本宮館の駐車場に戻ります。次に目指すところは、新宮市にある、熊野速玉大社です。

 私たちは、熊野川伝いの国道を一気に下り、新宮へと向かいます。

 

 新宮は、紀伊半島南部の中心地。熊野川の流れを挟んで、三重県と接する位置にあたります。川沿いの道を一旦抜けて、新宮の市街地が近づくと、次第に家並みやお店などが連なります。その後、街中の中心道路を北方向にしばらく進み、熊野川を越える直前で左に進路を変えると、その先が、熊野速玉大社です。

 正面の右奥にある駐車場から神門までは、目と鼻の先。車を置いた直ぐ先に、境内はありました。

  

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 熊野速玉大社の建物は、総じて、朱塗りの鮮やかな建前です。熊野本宮大社とは対照的な色合いですが、こちらも、その姿は荘厳です。

 

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※熊野速玉大社本殿。

 

 熊野速玉大社の謂れについては、境内に置かれている、「熊野速玉大社御由緒」と記された説明書きから、およそのことが分かります。

 

 「熊野速玉大社は、悠久の彼方、熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天磐盾に降臨せられた熊野三神景行天皇五十八年の御代(西暦128年)、初めて瑞々しい神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。」

 

 景行天皇自体が、伝説の人とされているため、史実としては首をかしげたくなる解説ですが、

 

 「『新宮』*1・・・の尊称は、まさに熊野速玉大社が天地(あめつち)を教典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有することの証といえるでしょう。」

 

 と続けられ、自然崇拝を起源とする原始信仰の成り立ちを受け継いだ大社であることが分かります。自然を畏れ敬う中から信仰が誕生し、綿々として、その精神が受け継がれている姿を、目の当たりにしたような気がします。

 

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※熊野速玉大社の正規の入口。

 

 熊野那智大社

 熊野三山の最後の聖地は、那智の滝で有名な、熊野那智大社です。新宮から勝浦へと南下して、そこから一気に山の中に向かいます。

 

*1:神倉山の霊石の地が元々の霊場で、今の熊野速玉大社は、その麓に新しく造られたことから、新宮と呼ぶとのこと。あるいは、熊野本宮大社の「本宮」に対して、「新宮」と呼ばれるようになったとの記述もどこかで読んだ気がします。

歩き旅のスケッチ[熊野古道]9・・・熊野本宮大社へ

 巡礼の道

 

 いよいよ、熊野詣の聖地である、熊野本宮大社に迫ります。かつて、ここまでの道のりは、参詣者の目的ごとに、幾つかのルートがありました。

 都から、直接参詣に向かう場合には、川を下って難波に入り、紀州を経て、今の田辺市辺りから東に広がる熊野の峰へ。この道は、中辺路(なかへち)と呼ばれていて、多くの人が辿ってきたルートです。

 一方で、高野山の参詣を兼ねた人たちは、紀伊の山地を真っ直ぐに南下する、小辺路(こへじ)の道を利用して、熊野へと足を向けました。さらには、伊勢参りを遂げてから、尾鷲を通り、熊野の山へと足を進めた旅人も、少なくはなかったということです(伊勢路)。

 様々なルートを有する熊野の古道。歴史のロマンが溢れます。

 

 

 果無山脈

 発心門王子から、中辺路の最後の区間の歩き旅。次の目標地点は、伏拝王子(ふしおがみおうじ)です。

 しばらくの間、舗装道路を進んだ後で、坂道を上ります。坂道を上ったところは、さらに眺望が開けていて、果無山脈(はてなしさんみゃく)と表示された案内板がありました。

 この位置から北を望んだ山々が、果無山脈と呼ぶようで、解説には、「和田の森(1,049m)、安堵山(1,083m)、黒尾山(1,235m)、冷水山(1,270m)、石地力山(1,140m)の連山を呼び、東西に18Km連なり、稜線は奈良県境となっている。」と記されています。

 また、「高野山熊野本宮大社を結ぶ参詣道が残り、今なお行きかう人々もある。」とのこと。この深い峰を越え、熊野古道は、神宿る聖地へと人々を誘ってきたのです。

 

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※果無山脈。

 

 伏拝王子へ

 果無山脈の素晴らしい眺望を左に見ながら少し進むと、道はやがて草地の上り坂に入ります。道伝いには、「南無神変(じんぺん)大菩薩」と表示された、派手な幟がありました。

 「神変大菩薩」とは、修験道の人である、役行者(えんのぎょうじゃ)、或いは、役小角(えんのおづぬ)のことを指すようで、それこそ、熊野山中を修行の地として駆け回っていた草分けの人の諡号(しごう)です。

 奈良時代より、さらに昔の世の中で、山々に溶け込んで修行を重ねた人の姿は、あの空海も手本にしたとも言われています。熊野の地ならではの、役行者を崇める姿。少し、不思議な光景を味わうことができました。

 

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※伏拝王子に向かう草地の道。

 

 伏拝王子(ふしおがみおうじ)

 草の生えた坂道を少し上ると、小高い、丘のようなところに出てきます。その後、道は下り坂。その先に、休憩所のような建物が見えました。

 この建物は、伏拝王子の休憩所。トイレなども併設されて、古道を歩く人たちが一息つける施設です。

 

 休憩所から、古道を挟んだ向かいには、伏拝王子に向かう石段が森の上へと続いています。この石段を少し上ると、わずかに開けた場所があり、そこに、伏拝王子がありました。

 王子跡には、祠などの建物はなく、幾つかの石碑だけが、ひそかに木陰に佇みます。

 伏拝王子の謂れについては、これまでに、何度か触れた地図中の解説に、次のように書かれています。

 

 「昔人々は、苦労を重ね古道を踏破し、眼下遥かな熊野川と音無川の出合う森の中に熊野本宮大社を初めて目にした時、感激のあまりにひれしてんだといわれています。」

 

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※左、伏拝王子の休憩所。右、伏拝王子。

 伏拝王子から、後ろを振り向いてみたところ、展望所のような、開けた空間がありました。そこからは、遥か下の谷底に、本宮大社の鳥居*1が望めるとのことですが、私の視力では、かないません。

 昔の人は、ここから熊野本宮大社を目に止めて、感動に浸りながら、伏し拝んで行かれたのだと思います。

 

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※写真の中央やや右側の谷底が、その位置になるようです。


 三軒茶屋

 伏拝王子から、道は再び山道へと変わります。それでも、下り坂が中心で、歩きやすいところです。

 次に目指す目標は、三軒茶屋跡。文字通り、かつて、三軒の茶屋があった場所だということです。

 

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※左、三軒茶屋跡に向かう森の道。右、舗装道路をまたぐ橋を渡って三軒茶屋跡へ。

 

 三軒茶屋

 森の中の坂道を下っていくと、やがて、舗装道路をまたいでいる、橋の道を通ります。この舗装道路は、十津川へと通じる道らしく、高野山と繋がっている、小辺路と呼ばれるルートです。

 橋を渡ると、もうそこが三軒茶屋があった場所。往時の茶屋を彷彿とさせるような、凝った意匠の休憩所がありました。

 

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三軒茶屋跡。

 

 九鬼ケ口関所

 三軒茶屋跡から先に向かうと、再び山道に入ります。その山道の入口に、九鬼ケ口関所(くきがくちせきしょ)、と表示された木の門がありました。

 この関所については、地図中の解説に、「小辺路高野山に続く古道)を行く人々からの通行料を徴収していた『九鬼ケ口関所』が模式的に再現されています。」と記されていて、小辺路から熊野本宮大社に向かう人に対して、通行料が徴収されていたようです。この関所は、元は、小辺路を少し北に向かった辺りにあったようで、今は解説にあるように、「模式的」に作られているのです。

 

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※九鬼ケ口関所。

 

 祓殿王子(はらいどおうじ)へ

 熊野古道は、再び山道に入ります。緩やかな上り道もありますが、全体として下り道。木々に覆われ、古の空気を味わいながら、最後の古道歩きを楽しみます。途中には、展望所へ行く脇道もありますが、私たちは、真っすぐに古道の坂道を下ります。

 

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熊野古道の醍醐味が味わえる道筋。

 

 やがて、徐々に空が開けてくると、里が近づいた雰囲気を感じます。その後、石積みの塚跡がある、祓殿石塚(はらいどいしづか)遺跡に到着です。

 遺跡前には、案内板が置かれていて、「祓殿石塚遺跡」の説明書きがありました。この石塚は、江戸期に築かれたということで、「参詣者たちが自らの穢れを清めることや参詣道中の安全などを祈念するために、石を積み上げたとされている。」と書かれています。

 

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※左、里に続く古道。右、祓殿石塚遺跡。

 祓殿王子

 道は、その先で、石畳の坂道を一気に下り、舗装道路に下り立ちます。ここからは、普通の集落の道路です。車の通りはほとんどなくて、穏やかな雰囲気のところです。

 

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※左、舗装道への下り坂。右、舗装道へ下り立ったところ。

 

 舗装道路をしばらく進むと、右側に、祓殿王子(はらいどおうじ)がありました。この王子は、熊野本宮大社を目前にした位置にあり、熊野を訪れる人にとっては、この上なく、重要な場所だったのだと思います。

 祓殿王子は、身なりを整え、熊野本宮大社にお参りする禊(みそぎ)の場でもあったのです。

 

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※祓殿王子跡の標識。

 祓殿王子社跡
 祓殿王子跡の少し奥まったところには、祓殿王子の社跡がありました。祠などはないものの、石造りの社を模した彫像は、王子の面影を伝えています。

 

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※祓殿王子社跡。

 

 熊野本宮大社裏鳥居へ

 祓殿王子を通り過ぎると、もう間もなく、熊野本宮大社に到着です。熊野古道は、熊野本宮大社の裏鳥居に通じていて、そこから、大社の正面へと向かいます。

 

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熊野本宮大社裏鳥居。

 

*1:今の本宮大社は、明治の大水害を受けて、少し山側に位置変更されていますが、その昔は、熊野川の流れのほとりに境内がありました。今は、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれるところに、大鳥居があり、その鳥居が伏拝王子から望めるとか。

歩き旅のスケッチ[熊野古道]8・・・発心門王子から熊野本宮大社へ

 熊野本宮大社

 

 中辺路を辿りながら、熊野本宮大社を目指す旅。いよいよ最後の、歩き旅の区間に入ります。

 この日に歩く行程は、大社の北西の峠にある、発心門王子から、熊野本宮大社まで。熊野古道の、最も人気のあるルートです。この区間には、幾つかの王子があるため、ペースの確認ができる他、全体的に下り坂となっていて、歩きやすいところです。

 石畳の道筋や、杉の大木に囲まれて、森の中を縫うように延びていく熊野の道は、歴史のロマンをかきたてます。

 

 

 発心門王子

 発心門王子(ほっしんもんおうじ)の名前の謂れは、地元で入手できる地図中に、次のように書かれています。

 

 「かつて大きな鳥居があった場所です。『鳥居をくぐる事で、仏道に帰依しようとする心が芽生える』という意味から『発心門』といいます。」

 

 その昔、熊野詣を試みた人々は、いよいよ熊野本宮大社に向かうため、神聖な、特別の場として、発心門の大鳥居をくぐったことでしょう。

 

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※発心門王子前の熊野古道

 

 「発心門」という名を聞くと、四国八十八か所の巡礼の入口である、徳島県霊山寺を思い起こします。霊山寺は、88か所ある霊場の1番札所。多くのお遍路さんたちが、最初に訪れる寺院です。

 この霊山寺の門前に向かう道にも鳥居があって、その名がまさしく「発心門」。四国巡礼の入口です。

 1400Kmにも及ぶ巡礼の旅の入口と、約7Km先に位置している聖地を前にした入口とでは、少し趣は異なるものの、気持的には、共に、信心の心を確かめる、重要な役割を担っているところだと思います。

 

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※左、四国徳島県、1番札所霊山寺の参道にある「発心門」。右、熊野の発心門王子。

 

 私たちは、熊野の山中に密かに佇む、発心門王子を後にして、熊野本宮大社を目指す、最後の古道歩きを始めます。

 

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※左、発心門から古道歩きの再開です。右、熊野古道は、ここを右方向へ。

 

 発心門王子のバス停へ

 発心門王子から、少し舗装道路を歩いた先で、右方向の旧道に入ります。ほぼ平坦な道を進むと、左手に少し広がりのある空間が。その場所は、路線バスの停留所兼転回所。近くには、トイレなども併設された、小奇麗な休憩所もありました。

 この辺りには、地元の方や観光客の移動のために、龍神バスが路線を維持してくれているのです。バスは、熊野本宮大社の駐車場や、湯の峰温泉川湯温泉などとを結んでいて、観光客には、大変ありがたい路線です。

 

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バス停留所近くの休憩所。

 水呑王子へ

 バス停留所を過ぎてから、道は舗装された下り坂に向かいます。山の斜面に拓かれた、畑地の中を縫って歩くと、所々に民家なども見られます。

 私たちは、次の目標地点である、水呑王子(みずのみおうじ)を目指します。

 

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※バス停の先の古道。

 

 この先しばらく、舗装された、歩きやすい道筋を進みます。上り道も緩やかで、それほど苦にはなりません。深い森と言うよりも、高原の雰囲気が感じられるところです。

 

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※時折、小さな集落を通って進みます。

 

 やがて、古道は、杉林の中へと入ります。木漏れ日が心地よく、爽やかな初夏の空気を感じながらの歩みです。

 依然として、舗装された、歩きやすい道筋は、ゆっくりと下り坂に向かいます。

 

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※杉林の古道。

 

 水呑王子

 道はやがて、右に向かう舗装道と、左方向の地道とに分かれます。この分岐の所に標識があり、ここが水呑王子跡。地道の入り口付近には、石の碑と、小さなお地蔵様がありました。

 発心門王子を出てから、およそ30分。1.5Kmほどの行程です。

 

 水呑王子は、名前の通り、かつてはここに湧水があり、旅人が喉を潤した場所だったということです。地蔵様は、「腰痛地蔵」と呼ばれていて、腰痛を直してくれるとの言い伝えがあるようです。

 

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※水呑王子の辺り。

 

 水呑王子の後ろには、少し大きな木造の建物がありました。集会所のようにも見えるこの建物。かつては、学校の校舎だったということです。山深いこの辺りにも、その昔、多くの人が暮らしていたのかと、感慨深くもなりました。

 

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※学校跡を通って山道に入ります。

 伏拝王子へ

 熊野古道は、石畳の坂道を越え、森の中へと入ります。次の目標地点は、伏拝王子(ふしおがみおうじ)。再び、30分ほどの区間を進みます。

 森の道は、幅の狭い杣道です。緩やかに上った後は、下り道に変わります。道の脇には、ところどころにお地蔵様の姿も見られます。

 

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※水呑王子と伏拝王子間の山道。

 道は、やがて舗装道路に出てきます。そこは、空が開けた、見晴らしのよい場所になっているため、しばしの間足を止め、熊野の美しい峰々を見渡します。

 

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熊野古道からの眺望。

 

 その後、舗装道路は、弧を描きながら続きます。この辺りにも、民家などが点在し、人々の暮らしの様子が窺えます。

 道はおおむね平坦ですが、ところどころに緩やかな上り下りの坂道が混ざります。

 

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※舗装道。民家や小屋などの建物も見られます。

 

 やがて、道は少し急な上り坂を迎えます。道沿いには、休憩所を兼ねたお店などもありますが、この時は閑散期。足をとめる観光客の姿はありません。

 伏拝王子まで、あと一息。明るい日差しを浴びながら、古道歩きを続けます。

 

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※伏拝王子に向かう上り坂。

歩き旅のスケッチ[熊野古道]7・・・近露王子と発心門王子

 車の移動

 

 私たちの熊野古道歩きの計画は、中辺路を完歩して、熊野本宮大社に向かうというものでした。ところが、出発地点の滝尻王子から、牛馬童子口までの行程が余りにも厳しくて、とても続けて、すべての道を歩くことは、不可能と思うようになりました。

 そのために、中辺路の後半は、古道近くの旧道を、車を使って移動です。そして、最後の区間となっている、発心門王子から熊野本宮大社まで、再び徒歩で進みます。

 今回は、つなぎの区間。近露の里から発心門王子まで、車移動の道のりの紹介です。

 

 

 近露王子

 近露の里に下り立って、日置川(ひきがわ)の橋を渡ると、すぐ左手に、近露王子がありました。

 近露王子は、かなり古くからの王子として、記録にも残っているようです。ところが、位置的には、変遷があるらしく、詳しいことは不明です。日置川という、熊野の谷を縫う川は、時折氾濫を繰り返し、周囲の地形を少しずつ変えるとともに、王子の位置も移動を重ねてきたのだと思います。

 

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※近露王子の入口。

 

 近露王子は、道の左の少し小高い場所あり、石段を上って向かいます。上にあがると、平らな広場になっていて、幾つかの石碑や歌碑が置かれています。奥の方には、表示板などもありますが、祠の姿は見えません。その昔、旅の合間に、歌会などが行われていたということで、近露は、長い旅の道中の、安息の地だった様子です。

 

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※近露王子。

 

 近露から牛馬童子口へ

 私たちのこの日の古道歩きはここまでです。あとは、車を停めた、道の駅熊野古道中辺路まで、路線バスで戻ります。

 

 この辺りを走るバスは、明光バス龍神バスの2社があり、本数は少ないものの、上手く時間配分されているため、便利な交通手段です。

 ただ、一方の路線バスしか停まらない停留所もあるようで、少し注意が必要です。近露王子のバス停もその一つ。明光バスは、すぐ近くの、なかへち美術館前のバス停まで行かなければなりません。

 

 私たちは、なかへち美術館を右に見て、その少し先のバス停留所へと向かいます。美術館前と名付けられたバス停ですが、その場所は、わずかに美術館の南側。バス停留所とはいうものの、かなり大きなところです。バスターミナルのような大きな敷地は、熊野古道のバスの中継基地なのかも知れません。

 

 車の移動へ

 この日は、牛馬童子口から歩き始めて、近露まで、1時間ほどの行程でした。後は、道の駅までバスで戻って、駐車してある車に乗って、中辺路の旧道を辿ります。

 

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牛馬童子のモニュメントがある、道の駅熊野古道中辺路。

 

 野中の清水

 道の駅から車に乗りかえ、国道311号線を近露へと戻ります。近露の集落に近づいて、日置川を越えた所で、左方向の旧道へ。そこからしばらく、山際の細い坂道を進むのです。

 途中、熊野古道と重なる場所では、古道歩きの方の姿も見えました。私たちは、車でこの区間を進みます。 

 しばらく、先へと向かって行くと、民家は無くなり、斜面沿いの木々が覆う道へと変わります。やがて、左手に、鮮やかな朱塗りの欄干が目に止まり、少し開けた空間が広がります。

 

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※野中の清水。

 

 この場所が、野中の清水。欄干の向こうには、清らかな湧水が流れる、小さな池がありました。

 この池は、古くから知られた名水で、真上の崖地を熊野古道が通っています。古道を歩く旅人たちは、ここまで下って水を飲み、喉を潤していたということが、傍に置かれた説明板に書かれています。

 

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※野中の清水脇の説明板。

 

 一方杉と継桜王子

 説明板にもありますが、野中の清水の上方に、野中の一方杉があるようです。一方杉は、何本かの杉の大木が、片側だけに枝を付けた、不安定な姿をした樹形です。その不思議な形が好まれて、名所と言われるようになったのか。理由は良く分かりませんが、その傍の継桜王子とともに、この辺りの熊野古道の見どころです。

 私がかつて、中辺路を訪ねた時、この一方杉と野中の清水を訪れました。深い山の奥にありながら、歴史が語り継がれている現実に、いたく感銘を受けたものでした。

 

 旧国道

 熊野古道は、この位置から15Kmほど、深い山の中を辿った先で、発心門王子(ほっしんもんおうじ)に至ります。

 この間の道筋は、おそらく、大変な行程だと思います。道案内などを読んでいると、本来の古道ではなく、迂回路などもあるようです。私たちは、体力的な問題で、この区間はパスをさせて頂きました。

 しばらくの間、国道の旧道を車での移動です。心細くなるような山の道。かつては、この道を多くの車が往来していたのでしょう。

 3Kmほど走った先で、ひとつの王子がありました。小広王子だったと思うのですが、写真も撮らず、はっきりと思い出すことはできません。何れにしても、その先で、旧国道は右に折れ、新国道311号線に入ります。

 

 川湯

 私たちは、国道を快適にドライブし、この日の宿泊地、川湯温泉に向かいます。

 川湯温泉は、一度は訪れてみたい土地でした。清らかな川の中に温泉が湧いている光景は、テレビではよく目にします。昨日の疲れた体を癒すのに、絶好の温泉地となりました。

 

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川湯温泉。川に面した露天風呂も。

 発心門王子へ

 発心門(ほっしんもんおうじ)から、熊野本宮大社に向かう道は、熊野古道随一の、人気のルートです。翌日は、朝から再び、この熊野古道を歩きます。

 先ずは、川湯温泉の宿の方の計らいで、宿の車と、発心門王子に向かう2組の車とで、熊野本宮大社の駐車場に向かいます。その後、2組の車を駐車して、宿の車に乗り込みます。そこから、20分ほどをかけ、熊野本宮大社の奥にある山中へと向かうのです。

 そして、いよいよ、発心門王子です。王子前で降車して、そこから熊野古道の最後の区間を歩きます。

 宿の親切な計らいは、熊野古道の人気にも一役買っているのだと思います。そのサービスが無い場合には、路線バスを使います。時期が良ければ、きっと、多くの観光客が訪れる場所なのだと思います。

 

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※発心門王子。

 

 私たちは、発心門王子に祈りを捧げ、熊野古道の最終区間に向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[熊野古道]6・・・牛馬童子と近露の里

 牛馬童子の事

 

 およそ四半世紀前、私が熊野の地を訪れたということは、このブログのシリーズで、何回か触れてきたところです。その時に、実際に訪ねた熊野古道の史跡の一つが、牛馬童子(ぎゅうばどうじ)像だったのです。

 山の中の小高い場所の一角に神聖な場所があり、その脇にひっそりと、可愛らしい石像がありました。像そのものは、どこにでもありそうな、小さな石の彫像です。それでも、牛と馬に跨った王子の姿は珍しく、新鮮な驚きを覚えたものでした。

 この、牛馬童子像、2008年には、衝撃的なニュースが走ります。この像の童子の首が折れ落ちていたのです。私自身、そのニュースを聞いた時、大きな衝撃を受けました。後に頭部は複製され、今は、元の姿に戻っているとはいうものの、何とも悲しい事件だったと言うほかはありません。

 一人の人生の時間では、短くはない四半世紀の時を越え、再び、牛馬童子の地へと向かいます。

 

 

 牛馬童子

 前日の古道歩きの終着点は、牛馬童子口のバス停でした。このバス停のところには、道の駅熊野古道中辺路があり、駐車場も自由に利用できるのです。私たちは、この日の昼少し前、車で道の駅に戻った後、そこに車を駐車して、熊野古道歩きを再開です。

 

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※道の駅前の熊野古道入口。

 

 この日の予定は、前日の疲れがまだ癒されていないため、牛馬童子口から近露(ちかつゆ)の里までの間、距離にして、およそ1.5Kmを歩くのみ。その後は、近露から、バスで牛馬童子口へと戻ります。後は、車で中辺路の中央区間の傍を通って、熊野の趣を感じつつ、宿泊地である川湯温泉へと向かいます。

 

 古道歩きの再開

 牛馬童子口にある、熊野古道の入口は、道の駅から国道を挟んだ向かい側。いきなり、山の中へと分け入ります。再び森の道に入って行くと、右方向に階段状の坂道が。ここから先は、しばらくの間、上り道を進みます。

 

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牛馬童子に向かう古道の入口。

 

 牛馬童子

 階段状の坂道をしばらく登ると、舗装道路が現れます。この舗装道路は旧国道で、今では、林業関係の方以外、あまり利用されていないように思います。 

 

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※左、牛馬童子へ向かう古道。右、舗装道路との合流点。

 

 この辺りの熊野古道は、所々で、舗装道路を辿りながら、杉の植林地の中を進みます。しばらく、舗装道を進んだ後で、古道は、左方向の細い砂利道に入ります。山の中の道であっても、里に近いところです。昨日のような、深い森とは空気感が異なります。幾分、心に余裕を持って、安心して歩ける区間です。

 

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※舗装道路から旧道へと入ります。

 熊野古道は、山の斜面を取り巻くように、緩やかに弧を描きながら続きます。道は、それほど急な坂道ではありません。観光客が軽装でも歩けるような道筋です。

 途中には、昨日も幾つか確認した、一里塚跡の石標もありました。

 

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牛馬童子に向かう古道。

 箸折峠

 山道を進んで行くと、やがて、少し平坦なところに出てきます。その辺りには、「望郷の 箸折峠 ゆりかおる」と刻まれた、箸折峠(はしおりとうげ)の句碑があり、何となく、郷愁を感じたものでした。

 

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※箸折峠の句碑。

 

 牛馬童子

 箸折峠は、目前に近露の里を控えているため、かつての旅人にとっては、長旅の疲れを忘れられる、安息の場所だったのかも知れません。この先は下り坂。あと一息の行程と、足を休めたことでしょう。

 このような峠の平坦地。その一角に、こんもりとした、小高い塚が目に止まります。牛馬童子像は、その塚の片隅に、ひっそりと、その身を隠しているのです。

 

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牛馬童子像が佇む塚とその登り口。

 

 私たちは、塚につづく小さな階段を踏みしめて、牛馬童子に面会です。久しぶりの童子の像。首のところに修復の跡があり、少し痛々しくも感じます。

 

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牛馬童子像。(左の像)

 

 牛馬童子は、田辺市の指定史跡となっていますが、国の文化財ではないようです。ウイキペディアの解説には「高さ50cm程度の小さな石像。文字通り、牛と馬の2頭の背中の上に跨った像である。一説には、延喜22年(922年)に熊野行幸を行った花山法皇の旅姿を模して明治時代に作られたとされる。」と記されています。

 

 事件

 冒頭でも少し触れたように、この牛馬童子像は、2008年に頭部が壊され、無くなっているのが発見されました。その後、レプリカで頭部の複製が作られて、本体に取り付けられたようですが、2年後に、失われた頭部が、あるところから無事発見されたというのです。

 ミステリーのようなこの事件。人為的か自然の仕業か、その真相は不明とはいうものの、何とも悲しい出来事であったことは事実です。

 

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牛馬童子像下の解説。

 

 近露の里

 牛馬童子が置かれている塚の下には、箸折峠の牛馬童子と題された、説明板が置かれています。牛馬童子と、次に向かう近露のことが書かれているため、少し引用したいと思います。

 

 「箸折峠のこの丘は、花山法皇が御経を埋めた所と伝えられ、またお食事の際カヤの軸を折って箸にしたので、ここが箸折峠、カヤの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、『これは血か露か』と尋ねられたので、この土地が近露になったという。・・・石仏の牛馬童子像は、花山法皇の旅姿だというようなことも言われ、その珍しいかたちと可憐な顔立ちで近年有名になった。傍の石仏は役ノ行者(えんのぎょうじゃ)像である。」

 

 「血か露か」との言い伝えは、大変興味深いものですが、洒落のような地名の由来が、連綿と今に伝わる事実には、微笑ましくも感じます。

 

 久し振りの牛馬童子像との面会を終え、この先の、近露の里へと向かいます。

 

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※近露の集落。

 峠から先の熊野古道は、一転して、急な下り坂。途中には、近露の里が一望できる、休憩所がありました。熊野の峰に囲まれて、農地や民家が佇む様子は、のどかでもありながら、人々の力強い息吹なども感じられるような風景です。

 道は、さらに急勾配の斜面を下り、一気に里へと近づきます。

 

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※近露までの下り道。

 里に下りると、熊野古道は、舗装道に入ります。真っすぐに進む道には、日置川(ひきがわ)の橋が架けられ、集落の中心地へと近づきます。

 橋の向こうは、街道の宿場町のような光景が広がって、熊野古道の道筋の重要な中継地だったことが分かります。

 

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※日置川の橋を渡って、集落の中心部へ。

 

歩き旅のスケッチ[熊野古道]5・・・大坂本王子から牛馬童子口へ

 峠の先へ

 

 十丈峠を越えた先は、富田川の流域から、日置川の流域に入ります。熊野の山地は、峰々が幾重にも重なる地形。それぞれの峰の間に、深い谷間が形成されて、そこには水の道が通ります。

 川の流れは、谷底を削りながら、蛇行を重ねて、ひたすら海へと向かいます。熊野の谷の清流は、山々の豊かな養分を、海の命につなぐのです。「豊かな山は、豊かな海を作ります」この言葉は、四半世紀も前のこと、私がこの地を訪れた時、教わった名言です。山を愛し、山を育て、山と共に生きてきた、人々の熱い思いが伝わります。

 

 

 もう一つの峠へ

 十丈王子を過ぎた先は、小高い丘に登るように、まばらな木々の斜面を進みます。その後、しばらくすると、道は再び深い山の中に分け入ります。

 ここから先の熊野古道は、杣道のような山の斜面や峠に登る急坂が、入り混じるような道筋です。

 

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※次の峠に向かう古道。

 

 小判地蔵と悪四郎屋敷跡

 この辺りの道沿いには、ところどころに、史跡の案内板が置かれています。

 最初は、小判地蔵の案内板。その傍には、小さな石の地蔵様がおられたような気がします。熊野の巡礼をしていた人が、飢えと疲労で、小判をくわえたまま倒れていたため、その人を弔うために、地蔵様を祀ったというのです。

 説明書きでは、地蔵様に刻まれた、この人の戒名から、豊後の国(大分県)有馬郡の人と分かるとのこと。また、この人は、伊勢参りの帰り道に熊野参詣を終えた後、この古道を通って紀州紀三井寺に向かっていたということです。

 このような小さな史跡も、一人の人間の人生の一コマを伝えているとは、何とも不思議な気がしてなりません。

 

 小判地蔵から、5分ほど坂道を登っていくと、今度は、悪四郎の屋敷跡の表示です。かつて、この辺りに十丈四郎という人の屋敷があったということが、その説明に書かれています。

 悪四郎は、悪い人というよりも、勇猛で強い人のことを指すようです。伝説上の人とされ、この奥の山も、悪四郎山と名付けられているそうです。

 

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※左、小判地蔵。右、悪四郎屋敷跡。

 長い下り道へ

 やがて、急坂も一段落。道は、峠を越えたように、下り道が中心です。途中には、一里塚の石標もあり、山の斜面に切り開かれた、細い道筋を辿ります。

 

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※悪四郎山の斜面の道を進みます。

 

 上多和茶屋跡

 熊野古道は、やがて、もう一度、つづら折れの坂道に。そして、峠のような、平坦な場所に到着します。そこには、茶色のしっかりとした説明板が立てられていて、上多和茶屋跡(うわだわちゃやあと)との表示です。

 江戸期から明治期まで、ここに茶屋があったようですが、奥深い山の生業は、たやすくはなかったと思います。

 

 十丈王子からこの茶屋跡まで、およそ2Kmの道のりです。私たちはこの間を、およそ1時間の時をかけて歩くことになりました。

 

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※上多和茶屋跡。

 三体月伝説

 上多和茶屋の峠を越えると、道は一気に下り坂に入ります。バスの時刻を気にしつつ、下り道で一気に距離を稼ぎます。

 途中には、再び、道端に、興味深い案内板がありました。”三体月伝説”と記された説明には、次のような言い伝えが書かれています。

 

 「今は昔、熊野三山を巡って野中近露の里に姿を見せた一人の修験者が、里人に『わしは11月23日の月の出たとき、高尾山の頂で神変不可思議の法力を得た。村の衆も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝むがよい。月は三体現れる。』半信半疑で村の庄屋を中心に若衆達が、陰暦の11月23日の夜、高尾山に登って月の出を待った。やがて時刻は到来、東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、あっというまにその左右に二体の月が出た。三体月の伝説は、上多和、悪四郎山、槙山にもある。」

 

 この現象が事実かどうかは分かりませんが、気象条件が重なると、蜃気楼のような現象が、実際に起こったのかも知れません。昔からの言い伝えや慣習は、時が経つと失われてしまうもの。大切に、伝承していってほしいと思います。

 

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※三体月伝説の説明板。

 

 大坂本王子へ

 道は再び下り坂。ひたすらに、大坂本王子を目指します。途中、山道は、右上へと向かう道と、左下への道に分かれることに。その分岐には、標識が掲げられ、右方向が、先ほどの、三体月の観賞地。左へ向かう下り坂が熊野古道との表記です。

 

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※左、左の道が大坂本王子方向へ0.9Kmの地点。十丈王子からは3Km。右上への道が三体月鑑賞地。右、熊野古道は手前から右方向へ。

 道は、一気に下ります。下り坂は、上りと異なり、随分とスピードが速まります。この調子では、心配していたバスの時刻も、余裕でクリアしそうです。

 疲れた体も、幾分回復基調のような状態で、残りの行程を進みます。

 

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※大坂本王子への下り道。

 

 標高が随分下がったところに来ると、道を横切る沢なども現れます。親切に、丸太の橋が架けられていて、安全に渡ることができるのです。

 

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※沢に架かる丸太の橋。

 

 大坂本王子

 森の中の下り道を歩き続けて、先の十丈王子から3.9Kmの地点に来ると、次の目標地点である、大坂本王子に到着です。

 ここには、青い案内標識と併さって、古くからの石の碑などもありました。大坂峠、あるいは、逢坂峠の麓にある王子ということで、この名が付けられたとのことで、麓の里は、もう近くに迫っているのでしょう。

 

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※大坂本王子。

 

 牛馬童子口へ

 大坂本王子を出ると、牛馬童子口までは、およそ0.8Kmの道のりです。川のせせらぎの音が聞こえて、平坦な道に変わると、どこからか、車の気配などが感じられるようになりました。

 右側の斜面の上に、自動車道路があるような場所まで来ると、牛馬童子口はもう間もなくのところです。最後の力を振り絞り、もう一息の歩みを進めます。

 

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牛馬童子口近くの古道。

 

 牛馬童子

 牛馬童子口(ぎゅうばどうじぐち)は、熊野古道にある、牛馬童子像へと向かうための入口です。ここには、国道311号線が通っていて、「道の駅熊野古道中辺路」の施設がありました。この道の駅、熊野観光の一つの休憩所となっているようです。

 牛馬童子のことについては、次回のブログに譲ることにして、とにかく、この日の長丁場の行程は、この道の駅で終了です。

 

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※左、牛馬童子口のバス停がある道の駅の施設。右、牛馬童子のモニュメントと道の駅。

 私たちは、道の駅のバス停から、この日の朝、車を置いた、滝尻王子のバス停まで、路線バスで戻ります。そして、次の日に、再び、このバス停を訪れて、ここから、牛馬童子へと向かうことになるのです。

 

歩き旅のスケッチ[熊野古道]4・・・大門王子から十丈王子へ

 森の道

 

 高原(たかはら)の集落から先の中辺路は、牛馬童子口(ぎゅうばどうじぐち)までの間、そのほとんどすべてが、深い山の中を通っています。およそ8Kmも続く森の道。途中から、民家も途切れ、鬱蒼と茂る木々の間を縫うように、細い道を辿るのです。

 この区間は正念場。向かう先の牛馬童子口のバス停から、この日の出発地点である、滝尻王子に戻るため、バスの時刻を考えながら、歩様の速度を調整します。

 

 

 里から森へ

 高原霧の里(たかはらきりのさと)の休憩所から、少し戻って、三叉路を左に折れる細い道に入ります。この三叉路の所には、熊野古道の案内標識があるために、道を誤ることはありません。

 ただ、ここから先の道筋は、再び急勾配の坂道です。途中、石畳風の趣ある通りもありますが、ただでさえ、疲労が蓄積した体には、辺りの情景を味わう余裕はありません。

 

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※急坂が続く石畳の道。

 

 急坂の道筋には、民家などが点在します。中には、茶店などもあったでしょうか。熊野古道世界遺産に登録されてしばらくは、多くの人で賑わっていたのかも知れません。今は、行き交う人もほとんどなくて、ひっそりとしています。

 やがて、集落を離れると、少しなだらかな道に変わります。その一方で、奥深い山の中に向かうような、不安が募る空気感が広がります。

 

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※古道は、ここから山の中に入ります。

 

 一里塚

 この先、7Kmほどの区間には、人里や民家などはありません。緊急の場合には、どころに置かれている、古道の案内標識が頼りです。そこには、通し番号が書かれているため、その数字を携帯電話で知らせることで、位置情報を確認することになるのです。

 

 山の道は、再び急勾配へと変わります。山の中に分け入る場所には、一里塚跡の石標と、四阿風の休憩所がありました。

 熊野の道の一里塚。少し不思議にも思いましたが、その昔には、古道に沿って一里塚が設けられていたようです。

 

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※一里塚跡。

 

 一里塚跡の石標は、それほど古いものではありません。側面には、和歌山からの里数の表示もありました。

 私自身は、この一里塚跡を見るまでは、熊野古道の各所にある「〇〇王子」が、一里塚のような役割も果たしていたのだと、思い込んでいたものです。ところが、「〇〇王子」は、旅の安全を祈願する神聖な施設であって、一里塚は、五街道と同様に、距離を刻む目印として、この熊野の地にも設けられていたのです。

 

 大門王子へ

 ここから先は、杉林が延々と続く山の道。勾配も緩まることなく、試練の歩みの区間です。私たちは、当面の目標地点、大門王子へと向かいます。

 一里塚跡を後にして、およそ30分ほどが経ったでしょうか。右側に、神秘的に水を湛えた、池の姿が見えました。この池は、高原池。人工の溜池のようですが、何とも不思議な光景です。

 この池の少し先には、大門王子があるはずです。もう一息、力を振り絞って進みます。

 

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※高原池。

 

 大門王子

 高原池の脇を過ぎると、道は急勾配の階段状の道に変わります。足には、かなりの負担が加わりますが、ペースを崩さず歩きます。

 一気に急坂を登り進むと、やがて、右方向に、大門王子の標識と朱塗りの社が見えました。

 

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※大門王子。

 

 大門王子の謂れについては、入り口の青色の説明板に、次のような記載がありました。

 

 「この王子は、中世の記録には登場しません。王子の名の由来は、この付近に熊野本宮大社の大鳥居があったことによるものと考えられます。鳥居の付近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのでしょう。」

 

 今はもう、鳥居の跡は見られませんが、この奥深い山の中にも鳥居があったとは、想像もできません。

 

 十丈王子へ

 大門王子を過ぎた後、しばらくは、急な坂道を登らなければなりません。その後、道は比較的平坦になりますが、相変わらず、杉の植林が無限に連なる山道です。

 

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※杉野植林の中を、十丈王子へと向かいます。

 

 大門王子を後にして、およそ40分ほどの道のりを、淡々と歩き進むと、山の崖地の一角が、少し開けた場所に到着します。

 この開けたところの片隅に、重點(十丈)王子跡の標識と案内板がありました。

 

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※十丈王子跡の標識。

 

 十丈王子

 十丈王子跡の説明板には、十丈王子の由来などが書かれています。

 

 「この王子社は十丈峠にあり、現在は十丈王子と呼ばれています。しかし、平安・鎌倉時代の日記には、地名は重點(じゅうてん)、王子社名は「重點王子」と書かれています。・・・江戸時代以降、十丈峠、十丈王子と書かれるようになった理由ははっきりしません。かつてこの峠には、茶店などを営む数軒の民家があり、明治時代には王子神社として祀っていましたが、その後下川春日神社(現、大塔村下川下春日神社)に合祀され、社殿は取り払われました。」

 

 この辺りには、その昔、茶店や民家、さらには、社殿までもが建てられていたということで、少し開けた感じの土地の様子を見ていると、往時の様子が浮かんでくるような気がします。

 説明では、峠の位置とはされていますが、この先、再び上り坂が続きます。

 

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※十丈王子跡から峠道へ。

 

 次に目指すところは、大坂本王子です。この日は、大坂本王子の先にある、牛馬童子口のバス停留所が目標地点。あと一息の行程を進みます。 

 

歩き旅のスケッチ[熊野古道]3・・・高原と深い森

 山里

 

 緑深い山々が、幾重にも続く熊野の土地は、人々が暮らすには、余りにも厳しいところだと思います。過酷とも言えるほどの、原生的な自然の力は、畏敬の念を抱かせるほど圧倒的で、神聖です。

 それなのに、この峰のところどころに集落があり、人々の営みが見られます。どうして、このようなところに人が住むようになったのか。不思議という他ありません。

 かつて、中辺路町を訪れた時、昭和の時代に知識人として活躍された、イーデス・ハンソンさんが、この地に暮らしておられると聞いたような気がします。わざわざ、海外から来られた人が、日本の熊野の、このような奥深い山に暮らすとは、何とも信じられない気持ちになりました。

 山を畏れて、自然とともに生きていく。豊かな山は、清流を守りながら、多様な命を育んでいるのです。自然の力をこよなく愛する人たちは、今も、熊野の峰で、大切な時間を刻んでおられるのだと思います

 

 

 高原へ

 熊野古道は、針地蔵尊を過ぎてから、少し急な坂道になりますが、その先は、比較的緩やかな道に変わります。古道の左下の谷間には、富田川が流れていて、その川伝いには、幾つかの集落が点在します。

 かつての中辺路町の中心地、栗栖川の集落も、山間に僅かに開けた平地の中に、ひとつの町をつくっています。

 

 古道は、この先、谷間の集落を見下ろしながら、高地に開けた高原(たかはら)の集落を目指します。

 道中には、お地蔵さんなども見受けられ、山に暮らす人々の、古道への思いが伝わるようなところです。

 

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※古道沿いのお地蔵さん。

 

 星空の宿など

 森の道を進んで行くと、やがて、少し開けた場所に出てきます。その先は、民家のような建物があり、奥には、幾つかの民宿がありました。”星の宿”と記された木の看板なども目に留まり、この辺りで足を休める旅人もいるのかと、多様な旅のあり方を、今更ながら思い知らされたものでした。

 

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※星の宿などがある、少し開けたところ。

 

 この先は、道は緩やかに、斜面に沿って続きます。左下には、谷間の集落、右上は、なだらかな山々が広がります。

 途中、左方向がよく望める場所があり、その美しい眺望に、しばし、目を奪われることになりました。熊野の峰に囲まれるように佇む集落は、”川合”と呼ばれるところでしょうか。一面緑の景観は、心が洗われるような絶景です。

 

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※熊野の峰と川合の集落。

 

 道は、山の斜面に沿いながら、緩やかに弧を描くように続きます。ところどころに建物も点在し、人々の息吹を感じます。

 木工の工房や、小さな宿、民家などが、山の斜面に張り付くように佇みます。

 

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※民家なども見られる山の道。


 のどかとも、思えるような山の里。やがて、集落のようなところに入っていくと、目標としていた、高原熊野神社に到着です。

 古道の脇には、神社の案内板が設置され、そこから少し右方向の細道に入った先に、鎮守の杜の社ような、可愛らしい神社がありました。

 案内板に記された高原神社の説明では、

 

 「いわゆる熊野九十九王子には入りませんが、春日造りの本殿は、室町時代前期の様式を伝え、熊野参詣道中辺路における最古の神社建築として、県の文化財に指定されています。・・・熊野参詣道が潮見峠越えに改まった南北朝期以降、高原は熊野参詣や西国巡礼の宿場として賑わうようになりました。」との記載です。

 

 南北朝期以前の熊野古道は、私たちが通って来た、滝尻王子から剣ノ山の尾根を進むルートだったようですが、その後は、滝尻王子の西にある潮見峠を越えた後、富田川伝いに東に進み、その後、栗栖川か川合の集落あたりから、高原に登って来たのかも知れません。

 

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※左、高原熊野神社の入口と案内板。右、高原熊野神社

 高原霧の里

 高原神社を出た後は、また、平坦な斜面の道を進みます。この辺りは、民家などの建物が連なって、左下には、棚田などの農地も見られます。

 険しい山の中にありながら、様々な工夫を凝らし、自然の中で力強く生きていく、人々の知恵と努力を感じます。

 集落の道を少し進むと、熊野古道の左には、少し開けた場所が現れます。その広場の左手は、展望所のようになっていて、視野一面を覆い尽くす、熊野の峰々を望むことができました。

 

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※高原の山里。

 

 広場の先には、小さな休憩所のような建物が。”高原霧の里”と称されるその建物は、トイレなども併設された、一息つける施設です。古道の資料や写真なども展示され、足を休めるのには、恰好の場所となりました。

 

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※高原霧の里の休憩所。

 

 私たちは、ここで昼食の休憩です。持参のおにぎりを頬張って、先への体力を蓄えます。

 ここまで、滝尻王子を出発してから4Kmの道のりを、2時間かけての行程です。登りづくめの厳しい道は、思ったよりも距離を稼いでいないのです。

 この先は、この日の予定のところまで、まだ8Kmの道のりが残っています。先の不安を感じながら、昼食のひと時を過ごします。

 

 熊野古道を歩く時、気を付けなければならないことは、水と食料の準備です。古道の道筋は山の中。基本的に、お店などはありません。急坂で体力が奪われるだけでなく、水分補給も忘れてはなりません。

 もう一つ、重要なポイントは、宿泊場所やそこまでの交通手段の選定です。この日の私たちの行程は、滝尻王子に車を停めて、牛馬童子入口のバス停まで歩くのが目標です。牛馬童子口からバスに乗り、滝尻王子へと戻るのです。

 ただ、熊野の地のバスの運行は限定的。時間までにバス停に辿り着けない場合には、厳しい前途が待ち受けます。バスの時刻を考えながら、歩き進まなければなりません。

 

 昼の休憩もそこそこに、先の行程を急ぎます。

 

歩き旅のスケッチ[熊野古道]2・・・中辺路

 熊野

 

 熊野の地が、信仰の対象であるのなら、いったい熊野とは何なのか。その名はどこからきたものなのか、興味は尽きることはありません。

 また、各地に伝わり、地域の中で祀られる熊野神社を思うとき、熊野信仰の大きな力を感じます。

 熊野の地は、もともと、自然崇拝の対象の場であったようですが、そのこと自体は、日本全国どこにでもあったこと。やはり、熊野が神聖な土地になったのは、都に近く、皇族たちの信仰が、大きな影響を及ぼしたのだと思います。

 険しい山間の地形のことを、”いや(祖谷)”とか、”ゆや”と、表現されているようですが、熊野の地は、まさにそのような、深い山々が広がるところ。”ゆや”は、(熊野)と表記され、訓読みの”くまの”になったという説は、説得力があるように思います。

 一方で、アイヌ語のカムイ(神)”kamui”が、クマ”kuma”に転じたという説も、あながち間違いでは無いような気もします。

 様々な謂れが残る熊野の名。その由来を想像しながら、悠久の歴史の道を進みます。

 

 

 胎内くぐり

 滝尻王子を出発してから、最初の目標とする場所は、胎内くぐりの巨石です。中辺路の出だしの道は、険しい山中の急坂で、少しの距離でも体力を奪われます。胎内くぐりの地点まで、僅か15分ほどの道のりですが、息は切れ、足には力が入りません。

 ようやくその地点に辿り着くと、早々に、熊野古道の厳しさを痛感したものでした。

 

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※胎内くぐりの巨石。

 

 胎内くぐりの由来については、巨石の傍の説明板に、次のような記載がありました。

 

 「熊野への道が潮見峠超え(ママ)に改まって、室町時代からこの剣ノ山を登る熊野参詣者はなくなった。しかし、土地の者は、春秋の彼岸に滝尻王子社に参り、そこで竹杖を持って山路を登り、この岩穴をくぐって山の上にあった亀石という石塔に参ってきたといわれる。この岩穴を抜けるのを胎内くぐりといい、女性がくぐれば安産するという俗信がある。」

 

 この説明を読む限り、私たちが今歩いている熊野古道は、室町以前の古道です。潮見峠は、この道から、富田川を挟んだ西にあり、室町からの道筋は、少し離れたところを通っていたのかも知れません。

 

 私たちは、胎内くぐりに挑戦してみましたが、出口が極端に狭いため、リュックを下げての潜り抜けはできません。今更安産でもないものか、と、潜り抜けを諦めて、先を急ぐことにしたのです。

 

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※胎内くぐりの説明板と、巨石(奥に見えます)。

 不寝王子(ねずおうじ)

 山道は、勾配の緩急を繰り返し、さらに山の峰へと続きます。次の目標地点は、不寝王子。熊野古道の道中は、王子から王子へと踏み進む山道です。節目の地点を目標に、少しずつ、神聖な信仰の地へと向かいます。

 木々に覆われ、細く続く坂道は、尾根伝いにどこまでも続きます。湿度が高く、急激に体力を奪われるような道中です。

 胎内くぐりの巨石から、10分ほどが経ったでしょうか。ようやく、不寝王子の石標が目に入り、ほっと一息、安堵の心地になりました。

 

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※左、不寝王子への道。右、不寝王子。

 

 不寝王子のことについては、石標の傍に置かれた、青色の案内板に記されていましたが、鎌倉の時代などには、この王子の記録は無く、よく分かっていないということです。今は、滝尻王子に合祀されているとのことで、不寝王子の社などはありません。僅かに、小さな木の置物が、寂し気に旅人を見守っているだけです。

 

 剣ノ山へ

 心細くなるような、急坂の山道は続きます。道を誤り、遭難の恐怖心も頭をかすめるような道筋です。

 ところどころに置かれている、道標だけを頼りにして、上へ上へと進みます。

 

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※尾根状の上り坂の熊野古道

 

 急坂が少し緩まった所には、剣ノ山経塚跡の案内表示がありました。経典を筒に入れ、壺に納めて地中に埋めたところ、とのことですが、詳しくは分かりません。今では、中辺路を辿る旅人の、一つの目標地点です。

 経塚跡を越えた先、道はやや緩やかな状態が続きます。ここまでの坂道は、心が折れそうになるぐらい、大変な急坂だったため、この辺りは本当に、ありがたい区間です。

 

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※緩やかな崖地の道。

 

 地蔵尊

 私たちは、相当な標高の位置に来たらしく、木々の先には、深い谷間の景色も見え隠れする状態に。そして、しばらくすると、山の中に分け入るように設けられた、細い自動車道路に出くわします。

 熊野古道は、この道路を横断し、再び、向かいの森の中に入るのです。

 

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※左、左下には、谷間の景色が見えています。右、自動車道路を横断です。

 しばらくの間、自動車道路の脇にある、森の中の尾根道を歩きます。この間は、明るい日差しも差し込んで、心細さは緩みます。その後、見上げてみると、針地蔵尊の案内が見えました。

 古道の右の傾斜の上には、祠のような建物があり、どうもそこにお地蔵さまがおられるような感じです。

 

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※針地蔵尊の案内と、地蔵様の祠。

 

 せっかくの、中辺路の道中です。私たちは、地蔵尊に立ち寄って、旅の安全を祈ります。

 祠に上ると、そこには、3体のお地蔵様。素朴ではあるものの、静かに、来る人を見守っておられる様子です。

 

   みゆきみち ゆき交う人を 守らんと 深き情けの 仏なりけり

 

 お地蔵様の後ろには、こんな歌が書かれています。針地蔵尊という名から想像すると、針や縫物にも関係しているのかどうか。謂れについては分かりませんが、傍には、新しい花や供え物も置かれていて、地域の方の信仰深さが窺えたものでした。

 

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※針地蔵尊

 

 私たちは、地蔵尊で手を合わせ、中辺路の道をさらに奥へと進みます。

 

歩き旅のスケッチ[熊野古道]1・・・熊野古道と滝尻王子

 熊野の森

 

 もう四半世紀も前のこと、私は、ある仕事の関係で、初めて熊野の峰々に囲まれた、小さな町を訪れました。歴史を刻んだその町は、中辺路町というところ。今は田辺市の市域に入ります。

 熊野の名前は、以前から、時々耳にしていましたが、実際に訪れるまで、関心を持つことはなかったと思います。それでも、一たび足を踏み入れてからというものは、淡い興味を惹かれるようになったのです。

 私の脳裏に刻まれた、熊野の地。熊野古道が、2004年に世界遺産に登録されて、広く世界中に知られるようになりました。この時以来、幾つかの道筋を持つこの道を、一度は歩いてみたいと思うようになったのです。

 そんな思いを持ちながら、時は過ぎ、とうとう今日を迎えることになりました。街道歩きの狭間の時期に、つかの間の、体力づくりと思い立ち、昨年(2021年)の梅の実が色づく季節に、熊野の古道歩きに挑戦することになりました。

 「歩き旅のスケッチ[熊野古道]」は、今回から、10回ほどのシリーズでお届けしたいと思います。

 

 

 熊野古道の道筋

 

 熊野古道」と、一口で呼ぶものの、この道は、幾つかのルートを有していて、一様ではありません。「熊野古道」は、紀伊半島の南部に広がる峰々を、様々な方向から歩きつなぐ山道の総称です。

 平安の頃から信仰を高めた熊野の地。京の都辺りから、或いは、紀伊の国を海沿いに南下して、また或いは、高野山から真っすぐに山並みを南に下って、熊野本宮大社を目指すのです。

 さらには、伊勢神宮の参詣を終え、伊勢の国の険しい道を辿るルートも知られています。

 

 新宮市観光協会がホームページに掲載しているルート図は、これらの道筋の全容がよく分かります。下の地図をご覧いただき、その姿を確認頂ければと思います。

 

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新宮市観光協会HPより。

 

 熊野詣(くまのもうで)

 何故、人々は、熊野の地を目指すのか。それはひとえに、熊野三山の参詣のため。熊野の地にある、3か所の霊場を辿る巡礼です。

 紀伊山地の南の峰には、熊野本宮大社が姿を隠し、熊野灘に面した地には、熊野速玉(はやたま)大社が鎮座して、那智の峰の直下には、熊野那智大社が控えています。

 この熊野三山は、古くから、信仰の対象となりました。神話にも関係しているようですが、いつの日か、修験道の人達の修行の場として、或いは、皇族たちの参詣により、霊験あらたかな聖地へと、昇華することになったのです。

 

 熊野三山を目指す道。私たちは、中でも、多くの都人が利用した、中辺路なかへちへと向かいます。

 

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 中辺路(なかへち)

 今も残る熊野古道の中辺路は、田辺市から、車で30分ほど紀伊山地に入ったところが起点です。元々は、上の地図にもあるように、田辺市辺りから、この道は、始まってはいましたが、今でも辿り歩くことができるのか、詳しくは分かりません。

 今では、富田川の清流に、石船川(いしぶりがわ)が合流する位置にある、滝尻王子が、スタート地点として紹介されているのです。

 中辺路は、名前の通り、熊野の峰の中央を、東に向けて横断する、熊野詣の中心道。

 川の合流点付近には、広々とした駐車場や、熊野古道館と名づけられた観光案内施設なども整備され、古道に向かう拠点の役割を担っています。

 私たちは、ここに車を駐車して、滝尻王子に向かいます。

 

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※滝尻王子の入口付近の様子。

 

 滝尻王子の入口は、山裾の小さな広場のようなところです。近くには、観光客相手のお店もあって、一時期は多くの人達で賑わっていたのでしょう。今は、コロナの影響や世界遺産のブームも去って、少し寂しく感じます。

 

 滝尻王子の敷地に入ると、そこは鎮守の杜の境内のような雰囲気です。木々が茂る奥の方には、小さな社がひっそりと佇みます。

 この社こそ、滝尻王子。熊野本宮大社に向かう道の、ある種の、神聖な入口と位置づけられていたところです。

 私たちは、道中の安全を願いつつ、社の前で柏手を打ちました。

 

 さあ、いよいよ、熊野古道歩きに挑戦です。古道へは、滝尻王子の左側、富田川の左岸近くの細道から入ります。

 境内の左側の片隅に、「起点」を示す表示杭。そこから、滝尻王子の社の裏へと進みます。

 

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熊野古道の「起点」。

 

 王子とは

 ここで少し、「王子(おうじ)」について触れておきたいと思います。熊野古道の起点には、先に述べた滝尻王子がある訳ですが、古道には、この他にも、至る所に「〇〇王子」が置かれています。

 私が以前、熊野の地を訪れた時、地元の方に教わったのは、”王子とは、古道を歩く人々の目印として、あるいはまた、安全祈願の施設として整備された”、というものです。もしかして、街道の一里塚とよく似た位置づけの施設なのかも知れません。

 ウィキペディアの説明では、「王子は参詣途上で儀礼を行う場所であった。」とされていて、「熊野権現御子神」として「参詣者の庇護が期待された」施設であったということです。

 参詣者は、厳しい巡礼の道に祀られた「王子」を区切りに、歩きつないで行かれたのだと思います。そして、その前に差し掛かると、「王子」に対し手を合わせ、道中の安全の祈りを捧げていたのかも知れません。

 

 山中へ

 熊野古道の中辺路は、滝尻王子の裏山に入ります。道は、一気に急峻な坂道に。辺りは、鬱蒼とした木々が斜面を覆い、深い森の中に突き進んで行く感覚です。

 一人では、とても心細くなるような、自然の恐怖をも感じてしまう道筋が続きます。

 

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熊野古道、中辺路の急峻な坂道。