旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]31・・・岡崎宿から藤川宿へ

 三河の街道

 

 三河の国の2つの都市、岡崎市豊橋市の間には、三河の山地が横たわります。境川を越えてから、三河の国の街道は、比較的平坦な道でした。見晴らしも良く、平地が広がる地形の中を、街道は一筋の流れをつくります。

 岡崎の宿場を後にして、まだしばらくは、これまでと同様の道ですが、次第に低い山が近づくと、街道は、松並木が残る藤川の宿場へと入ります。

 

 

 岡崎を終えて

 岡崎の宿場を終えて、街道を東へと進みます。次の宿場は藤川宿。およそ6Kmの先にある、東海道37番目の宿場を目指します。

 岡崎の二十七曲りが終わる冠木門(かぶきもん)。その先は、緩やかな下り坂が続きます。途中、国道1号線と合流しつつも、すぐに旧道に戻るという道筋です。少し複雑なところは、国道と東名高速道路を結ぶアクセス道路の導入口。ここには、親切な案内板が掲示され、地下道を巧みにすり抜ける道筋が描かれていて、心強い味方になりました。

 

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※左、国道脇の東海道。右、東名高速へのアクセス地点。青い案内板が味方です。

 複雑な高架下をすり抜ける街道は、短い区間に、起伏と屈曲を繰り返しつつ、一筋のつながりを保ちながら東へと向かいます。

 

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※高架下を潜り抜ける街道。

 乙川へ

 街道は、高架下を抜けた後、少しだけ、国道を歩いて左に延びる旧道に入ります。住宅が続く集落は、大平という町です。落ち着いた集落の道を歩いていると、右側に大平の一里塚が見えました。この一里塚、塚自体それほど大きくはないものの、しっかりと保護されていて、わずかに往時の姿を留めています。

 

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※左、大平の町。右、大平の一里塚。

 

 家並みの中をさらに進むと、右方向に緩やかに下る坂道に。左には、六角堂のようなお堂が見える寺院があって、その先は、国道1号線が走ります。

 街道は、国道を横断し、向かいに続く旧道につながります。旧道の入口には、この先の乙川(おとがわ)を越える道筋や、岡崎と藤川の宿場を紹介した、分かりやすい案内板がありました。 

 

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※左、国道との交差点。右、国道を渡ったところにある案内板。

 案内板に描かれた道筋を辿りながら、乙川へと向かいます。乙川越えをする位置は、今日の街道歩きでよくあるように、昔と少しそのルートが異なります。旧街道では、集落内を真っ直ぐ進み、川に突き当たったところで川渡り。

 ところが、今はそこには橋はなく、川伝いに、一旦国道に戻ります。このルートは、迂回道。今では国道の橋を渡らなければ、川を越すことができません。

 

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※乙川を渡る橋。

 

 美合
 乙川を越えると、岡崎市の美合(みあい)の町に入ります。この辺り、川沿いには農地が広がり、国道の沿線は、飲食店が点在します。遠景は、左手から前方奥に、それほど高くはない山並みが、平地を抱き込むように連なります。この先で、豊橋の吉田宿に達するまでに、少しの間、三河の山地を通り抜けなければなりません。

 

 街道は、国道の橋を終えたところを右折して、旧道につながります。そして、次第に集落の方向へ。

 しばらく進むと、周囲の様子は、新しい街の雰囲気に変わります。街道の左手には並行して、国道1号線が走るとともに、右側奥には名鉄名古屋本線の軌道が敷かれています。名鉄の美合駅は、この新しい街中にあるようです。

 やがて松並木が現れて、少しの区間、片側だけではありますが、松が連なる歩道を歩きます。

 

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※美合の町の様子。

 

 国道歩き

 街道は、住宅の外れになると、少しずつ左手の国道1号線に近づきます。やがて、国道に吸い込まれるように合流し、しばらくは、国道の歩道を進みます。

 わずかに上り坂となった国道は、倉庫や小さな工場などが並んでいる、殺風景な景色です。やがて、前方に山並みが近づいて、辺りの景色は一変します。 

 

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※美合から藤川に向かう国道1号線。

 

 藤川宿へ

 1Kmほど、国道を歩いたところで、街道は右前方の旧道に入ります。ここは藤川西の交差点。旧道との分岐点には、「藤川宿」と記された、大きな表示板がありました。   

 街道は、ここから右手に進むのですが、その先には、青々と茂る立派な松の並木が連なります。

 

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※藤川西の交差点。右方向が街道です。

 

 藤川の松並木

 藤川の松並木は圧巻です。ここまでの東海道の沿線で、池鯉鮒宿を出た先の、知立の松並木も素晴らしいものでした。その並木道に引けをとらない見事さを、藤川の並木も誇っています。

 この先の、藤川の宿場も含めて、1Kmほども続く並木道。およそ90本の見事な松が並びます。

 

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 ※藤川の松並木。

 

 松並木が続く街道は、小高い丘の斜面に沿って築かれたような道筋です。右側は石垣状の擁壁が斜面を保護し、その上には、大きな工場が見られます。左には、一段下がった場所に、住宅などが並んでいます。

 この道は歩道が無いため、それこそ、昔ながらの並木の様子を楽しみながら歩けます。ただ、舗装もしっかりされていて、時折、車が速度を速めてすり抜けるので、気を抜くことはできません。

 

 立派に続く松並木。その先が、藤川の宿場です。

歩き旅のスケッチ[東海道]30・・・岡崎宿

 二十七曲がりの町

 

 岡崎は、徳川家康の本拠地とも言える場所。岡崎城が優雅に構え、その周りを城下町が取り巻きます。

 街道は、城下では、右に左に複雑に屈曲を重ねます。この折れ曲がった道筋は、二十七曲がりと名付けられ、岡崎の代名詞でもあるようです。複雑につながる街道は、岡崎城を遠巻きに迂回しながら、東へと向かいます。

 

 

 八丁味噌

 矢作橋を渡り切ると、正面に岡崎市の市街地が見渡せます。街中には、高層の建物や、高架の軌道が整備され、市の発展が窺えます。

 街道は、堤防に続く坂道に設けられた地下道へ。そこで国道を横切って、道の反対側に出て行きます。

 地下道を出た後は、堤防下の細い路地を少し進んで左折です。

 

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※左、矢作橋を渡ったところ。前方が岡崎市。右、矢作川堤防下の路地。 

 

 この辺りは、細い路地道が廻らされ、昔ながらの区割りが残されたようなところです。少し進むと、由緒ある立派な木造の建物が現れ、その角の、辻から見渡たす風景は、白壁と板張りの幾棟の蔵や屋敷が連なる、独特の町並みです。

 この辻には、「八丁蔵通り」の案内がありました。白壁には、「八丁味噌」と記された蔵のような建物もあり、この地域が赤味噌で有名な、八丁味噌の発祥地であることを知りました。

 街道を進むと、老舗の看板が掛かった、古くからの店舗なども見られます。時間があれば、中を覗いてみたいような、本場の味噌醸造の町並みです。

 

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八丁味噌の蔵などが連なる辻。

 

 松葉総門跡

 細い路地を進んでいくと、広い通りに出てきます。そこには、「松葉総門跡」と刻まれた石碑とともに、「岡崎城下二十七曲り」の案内がありました。かつては、この門をくぐって、城下の町に入っていたことでしょう。

 この先の、岡崎の城下の街道は、幾度となく路地を折れて、屈曲を重ねる道筋です。地図があっても、なかなか正確には辿れそうもない道ですが、角々に、「岡崎城下二十七曲り」の標識が設けられているために、まず、間違えることはありません。

 この標識、よく見ると、下に写った写真のように、平仮名が書かれています。おそらく、東から、い・ろ・はの順序に、この仮名が付されているのだと思います。だとすると、松葉総門跡の標識は、”た”と書かれているため、16番目ということです。元々あった、27か所の曲りの場所も、今はその数を減らしているということか、或いは、八百八町と言うように、たくさんの曲りがあったということか。その真意は不明です。

 

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※松葉総門跡。

 

 城下へ

 広い通りを渡った先で、再び、細い路地に入ります。この辺りから、本来の城下のような町割りで、その後、直角に左に折れて、北の方へと向かいます。軒が連なる民家の軒が途切れると、東には、岡崎城天守閣が望めます。

 

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※板屋本通りから岡崎城を望みます。

 北に向かった街道は、途中で国道1号線がその進路を妨げます。やむなく、少し迂回して、歩道橋で国道を渡って、元の街道に戻ります。

 その先は、田町と呼ばれる街の中。住宅やアパートなどが密集するところです。街中をジグザグに進んで、三清橋を渡ります。

 

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※左、田町の街中。右、三清橋。

 

 橋を渡った先を左折して、川の左岸を少し上流に進みます。そして、今度は右折です。この辺り、人通りはあまりなく、ひっそりとしています。ただ、沿線は、ビルやマンションが建ち並び、区画整理されたような街並みです。

 

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※左、材木町の街並み。右、岡崎城に近い位置にあるデパートの裏手。

 岡崎の街中

 道は相変わらず屈曲を繰り返し、シビコという、デパートの裏手に差し掛かります。それから、今度は、本町一丁目の交差点、そして、連尺通りへと進みます。

 岡崎宿は、城下にあった宿場町。城下の重要な地域を避けながら、宿場の機能が設定されているようで、城の中心部からは、やや距離を開けながら街道筋は続きます。

 岡崎は、大戦の戦災に見舞われたということで、街並みは、往時の面影を残すところはありません。宿場の姿は影をひそめて、新しい街が広がります。

 

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連尺通りへ。

 籠田公園から伝馬町へ

 連尺通りが終わったところで、右前方に籠田公園が現れます。街中の広々とした公園は、よく整備されていて、市民の憩いの場となっている様子です。

 街道は、この公園を取り巻くように半周し、その先で、伝馬町方面に向かいます。

 

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※籠田公園。

 

 伝馬町の裏通りの道を進んで行くと、左前方に、歴史的な石造りの建物が見えました。この建物は、岡崎信用金庫資料館。元は、商工会議所の建物だったということで、大正時代の雰囲気を感じます。

 今は、資料館として開放され、貴重な資料などが展示されているということです。

 

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岡崎信用金庫資料館。

 

 岡崎の東へ

 街道の後半は、曲りの数も減少し、概ね、東の方向に進みます。整備された道路脇には、所々に、老舗の店舗なども見られます。

 やがて、街道は、岡崎市役所にほど近い道路を進み、次第に住宅地へと入ります。左手に、岡崎げんき館と書かれた大きな建物が現れると、その先で右折です。

 しばらく進んだ先の左には、小さな三角地の小公園。そこには、冠木門(かぶきもん)と、二十七曲りを紹介した、石造りのモニュメントがありました。この付近が、岡崎宿の東の端なのかも知れません。

 ここから先、旧道が現れて、斜め左の緩やかな坂道に入ります。この坂を下って、次の宿場、藤川宿を目指します。

 

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※左、冠木門。右、二十七曲りのモニュメント。

歩き旅のスケッチ[東海道]29・・・岡崎宿へ

 安城市

 

 知立市から岡崎の宿場に向かう時、街道は、安城市の北部を通ります。この道中には、今も多くの区間に松並木が残されて、風情を感じるところです。

 安城市は、かつては農業が盛んだったようですが、今では、たくさんの工場も見られます。東海道新幹線も市の中央部を横断し、三河安城駅の周辺は、新しい街が広がります。

 街道は、安城の松並木を通り抜け、矢作川へ、岡崎へと向かいます。

 

 

 来迎寺の一里塚

 500mほど続く知立の松並木。この並木道を通り過ぎ、その先で、街道は自動車道路の高架下をくぐります。

 美しく整備された道筋は、しばらく、街道の雰囲気から離れます。それでも、落ち着いた家並みが続く沿線は、交通量も落ち着いて、気分よく歩けます。

 

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知立市東部の街道の様子。

 

 相変わらず住宅地が続く中、来迎寺の町に入ると、右側に、一里塚が現れました。この一里塚は、来迎寺の一里塚。小山状の塚の部分は、綺麗に芝生が覆います。一里塚の周囲も新しく整えられて、ポケットパークのような感じです。

 

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※来迎寺の一里塚。

 

 安城市

 来迎寺の町は、知立市の東の端。集落が尽きたところの左手に、御鍬神社の林が広がり、青々とした緑が鮮やかです。

 街道は、神社の先で、右方向に弧を描きながら、安城市に入ります。 

 

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※御鍬神社前。

 

 安城の松並木

 安城市に入ると、風景は少し変わります。街道には、所々に松の木が植えられて、並木という感じではないものの、東海道の風情が漂う雰囲気です。

 ただ、沿道には、大小の工場が並ぶほか、新しい住宅の建物なども見受けられ、複雑な様相も呈しているところです。

 おそらく、近代の成長期以前には、この辺りは広々とした農地が広がり、その中を松並木の街道がゆるやかに貫いていたのだと思います。松の根に腰を下ろした旅人が、広々と横たわる畑地を見ながら、煙管を吹かす光景が目に浮かぶような気がします。

 

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安城市の街道の様子。

 

 安城市の松並木は、結構長い区間続きます。時には疎らに、時には整然とした間隔で、東海道の道案内をしてくれます。

 この松並木、近年はずいぶんとその数を減らしているようですが、それでも、200本を超える規模ということです。大きな松は、200年から250年と推定される樹齢の木。江戸時代末期の世相も見ながら、令和の時代に、なお、優美な姿を残しています。

 

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安城市の松並木。

 

 東へ

 松並木の街道は、数キロの間、延々と続きます。この道は、国道1号線の北側を、少し弓なりに迂回して、岡崎方面へと向かいます。

 街道自体は、今は片側1車線の自動車が走る道。所々に、神社や寺院、石碑などが残っていて、地域の歴史を伝えています。

 

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※左、明治川神社。右、一里塚のように、石碑が立っています。

 国道との合流

 やがて街道は、旧道を後にして、国道1号線と合流します。どこにでもあるような、車が行き交う国道を歩いて、矢作川(やはぎがわ)へと向かいます。

 

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※国道との合流地点。

 矢作の町

 矢作川が近づくと、少しの区間、国道の北側に残る旧道に入ります。1Km弱のこの旧道は、前半は、道幅もそこそこあって、過去には道路拡張が行われた様子です。対照的に、後半は、昔のままの街道が残されたような雰囲気です。

 

 矢作町の旧道の、道幅が狭まる中央辺りの交差点を右折して、少し南に向かうと、名鉄名古屋本線矢作橋駅に行き着きます。

 私たちは、街道からそれ、矢作橋駅でこの日の行程を終了です。この日の朝、池鯉鮒宿の手前にある、名鉄豊明駅から歩き始めて、矢作の町まで、およそ17Kmの行程でした。

 

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※矢作の町の様子。

 矢作川

 翌朝、再び矢作町の旧道に立ち戻り、そこから新たなスタートです。

 旧道の街道の後半は、道幅が急に狭まります。途中には、老舗のお店なども見受けられ、矢作川の堤防へと続く坂道と共に、街道独特の風情を放っています。

 堤防は、治水整備が終わったような、スッキリとした姿です。三河の国の大河川、矢作川のその先は岡崎です。

 

 出会之像

 矢作川には、江戸時代、土橋が架けられていたということです。度々の洪水で流されたようですが、その都度、再建されました。

 今は、かつての橋から少し南に、国道1号線の矢作橋が架かります。

 矢作橋の西の堤防のところには、少し奇妙な石像がありました。出合之像と刻まれたこの石像は、子どもの頃の豊臣秀吉のエピソードを表したモニュメント。像の脇には、その説明がありました。

 

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※出会之像とその解説。

 説明によると、豊臣秀吉(幼少の頃は、日吉丸)は、8歳の頃から奉公に出されたようですが、12歳で奉公先の陶器屋を逃げ出したとのこと。家に帰れず、東海道を東へ下る途中、矢作橋の上で寝てしまったようで、その時、蜂須賀小六(当時は、小六正勝)という野武士が、寝ていた日吉丸の頭を蹴ってしまったということです。

 出会之像は、この時の日吉丸と小六正勝を模したもの。後年、豊臣秀吉は、蜂須賀小六を家来にするのですが、実は、この時のエピソードは、主従関係は真逆です。

 

 頭を蹴られた日吉丸は、無頓着に通り過ぎようとする小六に対し、「謝れ」と諭します。小六は、「度胸があるやつだ。手下にするから手柄を見せよ」と日吉丸に迫ります。

 日吉丸は、承知して、岡崎の味噌屋*1に小六とその一行を連れて行き、中を荒らすのを手伝います。やがて、味噌屋の人々が強盗に気づいて大騒ぎ。日吉丸は、井戸に大きな石を投げ入れて、「盗賊は井戸に落ちた」と叫びます。

 それを聞いた人々は、井戸の周りに集まります。そして、その隙に、日吉丸や小六たちは、走り去ったというのです。


 どうも、このエピソードは、史実ではないようですが、微笑ましくなるお話です。後に、太閤となる秀吉が、その下積み時代、どのような生活をしていたのか、わずかながら、垣間見ることができたような気がします。

 

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矢作橋

 国道1号線に架けられた、矢作橋を渡って行くと、その先は、岡崎市徳川家康の居城として有名な、岡崎の城下町が近づきます。

 

*1:次回のブログで触れますが、岡崎は八丁味噌で有名です。味噌煮込みうどんなどに欠かすことができない赤味噌は、ここ岡崎が発祥の地のようです。

歩き旅のスケッチ[東海道]28・・・池鯉鮒宿と松並木

 池鯉鮒

 

 東海道を歩きつつ、今後訪れる宿場の名前を調べていた時、「池鯉鮒宿」を知りました。初めは、その読み方がわからずに、「いけこいふな」と読むのかどうか、不思議な名前の宿場町もあったのかと、新鮮な気持ちになりました。

 調べてみると、「ちりゅう」と読むということです。そう言えば、知立市は、愛知県の地方都市。どうして宿場は「池鯉鮒」なのか、地名の由来に興味をそそられたものでした。

 

 

 カキツバタの町

 逢妻川(あいづまがわ)を渡った後、左岸堤防の道と並んで、もう一つ、左手に少し下る坂道が現れます。この道が東海道。池鯉鮒宿の入口です。

 下り坂は、すぐ先で右手に大きく折れ曲がり、住宅地の中に入ります。

 

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※池鯉鮒宿の入り口付近。

 

 街道は、ごく普通の住宅地の風景ですが、さらに進むと、次第に道幅は狭くなり、緩やかな上り道に変わります。かつての宿場町の面影を、ほとんど感じることはできないものの、道の流れそのものは、往時の雰囲気を残しています。

 よく見ると、道に埋められたマンホールには、あの有名なカキツバタの歌(唐衣の歌)が刻まれていたのです。

 

   らころも つつなれにし ましあれば 

   るばるきぬる びをしぞおもふ

 

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※唐衣の歌が刻まれたマンホール。

 

 唐衣の歌

 この歌は、伊勢物語の第九段に記されているもので、高校時代に古文の教材として学んだことをよく覚えています。

 「むかし をとこありけり」で、始まる幾つかの段が有名で、この「をとこ」は、定説として、在原業平(ありわらのなりひら)とされています。

 在原業平は、平安前期の人で、友人と東の国に向かう途中、道に迷い、池鯉鮒にある八橋(やつはし)に立ち寄ります。(八橋は、知立市の北東にある地名で、今も、八橋かきつばた園と呼ばれる名勝地があるようです。)そこには沢があって、そのほとりの木陰で休憩ををするのですが、その沢には沢山のかきつばたの花が咲いていたのです。

 ある人が、在原業平に「かきつばたといふ五文字を句の上にすえて、旅の心をよめ」と言われて詠んだ歌が、先の歌。みごとに、か・き・つ・ば・た、の文字が句に収められています。

 

 八橋は、池鯉鮒宿とは少し離れたところにありますが、知立市では大切にされている歴史の証を残す場所。地域の誇りの場所と言えるでしょう。

 

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※左、池鯉鮒宿の中心辺り。突き当りを右折します。右、右折後の宿場。右奥が知立城址

 

 知立古城

 池鯉鮒宿の中ほど辺りの街道は、クランク状に折れ曲がります。途中には、知立城址の案内板が設置され、古城の様子が描かれています。

 

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知立古城の案内板。

 

 池鯉鮒宿

 それはさておき、ここで、「池鯉鮒」のいわれを記さなければなりません。知立の町は歴史が古く、早くから「知立」という字が使われていたようです。街道近くに知立神社があることからも、その説は頷けなくもありません。

 やがて、東海道が整備され、多くの旅人がこの地を訪れるようになりました。そして、知立神社の池に飼われていた、たくさんの鯉や鮒を見て、「池鯉鮒」という字が定着したというのです。宿場の名前は池鯉鮒宿。鯉や鮒が池に泳ぐ姿を思い描いて、旅人は、この地を目指してきたのでしょう。

 

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※池鯉鮒宿の中心辺り。道はクランク状に折れ曲がります。

 

 東へ

 池鯉鮒宿があった街中を、東へと進みます。街道は、狭い道幅が続いていて、昔から拡張されていない様子です。途中には、国道155号線を渡る地下道が。さらには、再びクランクになったところもあって、道筋の確認を怠ることができません。

 

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※池鯉鮒宿の道筋。

 

 やがて、ホテルが建つ交差点に差し掛かり、街の様子が一変します。この交差点を右に向かったところが、名鉄知立駅。街道は、交差点を直進です。

 道沿いには、ところどころに鰻の店などもありますが、概ね、旧市街地の住宅地。緩やかに弧を描きながら街道は東へと続きます。

 

 松並木

 しばらくすると、街道の左手からは、国道1号線が迫ります。街道は国道と、鋭角状に交差して、その後、国道の北側を通って安城市の方角へ。

 この鋭角状になった御林の交差点。地下道で、国道1号線を渡ったその先には、立派な松並木の道が続きます。

 

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※御林の交差点。

 

 東海道は、今も多くのところに松並木が残っていて、街道歩きの雰囲気を盛り上げます。特に、池鯉鮒から舞阪までの街道には、あちこちで、松並木の道を通ります。また、神奈川県も松並木は有名で、今後の旅の楽しみです。

 ところで、この池鯉鮒の松並木。今も、500mにわたって、約170本の松が並んでいるということです。並木の中は、自動車道路で、歩行者は、並木の外側に整備された歩道を進まなければなりません。

 少し残念な状況ではありますが、それでも、延々と続く松の並木は、東海道の圧巻のひとつです。

 

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※左、松並木の西の入口。右、松並木の様子。

 松並木を歩き進んで、安城市へ、そして、次の宿場の38番岡崎宿を目指します。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]27・・・池鯉鮒宿へ

 尾張から三河

 

 街道は、尾張の国の東の外れ。道筋は、郊外の街中の風景が続きます。今では、何れも愛知県の領域ですが、かつては、尾張の先は三河の国。尾張織田信長と、三河徳川家康の性格などでも語られるほど、二つの国は、風土の違いがあるようです。

 境川を越えると、いよいよ三河三河の国の最初の宿場は池鯉鮒(ちりゅう)です。

 

 

 阿野の一里塚

 国道から旧道に入った街道は、道幅もそこそこあって、ある程度整備された道路です。道筋の風景も、街道の面影はありません。右手に、時折見える名鉄名古屋本線の軌道に沿って、南東方向に進みます。

 しばらく歩いて、少し賑やかな空気を感じたところに、ちょっとした商業施設が現れました。よく見ると、その施設の裏側が、名鉄の前後駅。この辺り、豊明市の中心地のようなところです。

 

 駅を過ぎると、街道は、再び落ち着いた住宅を進みます。そして、しばらく行くと、阿野一里塚の案内が見えました。この一里塚、塚そのものはほとんど残ってはいないものの、松の木などが整備され、かつての名残を留めています。

 阿野の一里塚は、また、街道左右の双方に、塚の跡が保存された珍しい一里塚ということです。これから先の道中で、一対の一里塚は、何か所かあったように思います。それでも、現存する一里塚は、片方にとどまるか、石標だけのところが多かったような気がします。

 

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※阿野一里塚。

 豊明駅辺り

 一里塚を過ぎると、その先で国道1号線に入ります。ここからしばらく国道を歩くことになる訳ですが、私たちは、途中の名鉄豊明駅で一区切り。この日の朝、宮宿の手前にあった、地下鉄の六番町の駅に降り立って、宮宿、鳴海宿、有松と歩きつないで、豊明駅まで、約15Kmの行程でした。

 郊外の街の様子も、次第に寂しさを感じるような風景に変わります。あまり人の姿を見かけない、豊明の駅を利用して、この日の宿泊地、三河安城へと移動です。

 

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※豊明駅付近の街道(国道1号線)の様子。

 境川

 翌朝は、豊明駅からスタートです。引き続き、国道1号線の歩道を進むと、前方に、第二東海自動車道路の高架橋が現れます。街道は、その下で国道から左にそれて、細い迂回路へと入ります。間もなく、緩やかな上り坂の旧道につながって、その坂道を上ります。

 辺りは、リサイクル関係の事業者などが連なって、景色としては、興ざめなところです。

 

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境川へと向かう旧道の様子。

 坂道が終わったところが境川。この川で、尾張三河が分かれます。東海道に架けられた境川の橋はユニークで、欄干が、四角い狭間を整然と並べたような意匠です。

 欄干の一角に、この橋に関する、以下のような記述がありました。

 

 「慶長6年(1601)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張三河の立ち合いで橋が設けられた。この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。やがて継橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。」

 

 今では、土橋のイメージはなかなか想像できないものですが、どうも、木で造られた橋の上部に、土を敷いた構造のよう。どうして、わざわざ土をかぶせなければならなかったのか。あるいは、現代風の舗装の意味があったのかもしれません。馬などの通行のことを思う時、少し頷けるような気もします。

 

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※境橋。

 

 刈谷市

 境川を渡り切ると、そこはようやく三河の国。今は、愛知県刈谷市の領域です。境川の堤防から、今度は下り坂に変わります。道幅は広がって、辺りは工場が並びます。

 街道は、その先で国道1号線を斜めに横切るように交差です。この地点は、今川町の交差点。不幸にして、ここには歩道がありません。国道を渡るためには、迂回するか、信号のタイミングを見て、駆け足で横断するしかないのです。

 願わくば、横断程歩道を設けていただければと思います。

 

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※左、境川を越えた辺り。右、今川町交差点。大きな道は国道。

 富士松

 国道を横断し、今川町の街中を通過する旧道を進みます。この地域は、富士松と呼ばれる地域。少し先には、街道近くに名鉄富士松駅もあるようです。

 道幅が狭まって、道の両側には住宅が並びます。

 

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※今川町の様子。

 

 途中には、県道が街道を分断しますが、この場所は、幸いにも歩道橋が設けられ、難なく越えることができました。

 その先は、右手に富士松の駅。そして、緩やかに弧を描きながら、街道は続きます。辺りの景色は、落ち着いた雰囲気の住宅地。所々に、板塀の建物なども残っていて、趣も感じます。

 

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※左、県道を横断する歩道橋。右、富士松の街道。

 

 知立市

 国道の南側を、弧を描くように迂回してきた街道は、やがて国道を再び横切って、今度は北側で小さな弧を描きます。

 その後、もう一度、国道に合流すると、刈谷の一里塚跡とされる辺りに達します。ただ、残念ながら、私たちは一里塚の標識を見逃すことに。恐らく、一里塚跡を示す案内などは、国道の南の歩道にあったのでしょう。私たちは、北側歩道を歩いたために、確認できずに終えました。

 少しだけ、国道を歩いた先の、逢妻町の交差点。街道は、この交差点を右折です。

 

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※逢妻町交差点。右方向が街道で、知立の市街地方向です。

 

 左に右にカーブして、道は逢妻川(あいづまがわ)に達します。そして、この川を渡ると、知立市(ちりゅうし)の市街地です。
 街道は、橋を渡ったすぐ先を左折して、池鯉鮒の宿場へと入ります。

 

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逢妻川に架かる橋。

歩き旅のスケッチ[東海道]26・・・有松と桶狭間

 間の宿有松

 

 有松(ありまつ)は、東海道の間の宿(あいのしゅく)として発展し、有松絞り(しぼり)など、伝統工芸の町としても有名です。名鉄名古屋本線を利用すれば、名古屋駅からわずか20分ほどの距離。国道1号線と名鉄の軌道に挟まれたこの町は、都市からの至近距離の位置にありながら、江戸期の町並みが良く残っているところです。

 街道は、有松を出てからは、名鉄名古屋本線と国道1号線に沿いながら、南東の方角へ。古の武将たちが戦った、桶狭間の合戦跡近くを通り抜け、三河の国、池鯉鮒(ちりゅう)の宿場へと向かいます。

 

 

 有松

 有松の町に入ると、街道の風景は一変します。これまでの、普通の家並みは姿を消して、格子窓や漆喰壁など、時代を感じる意匠を配した、木造の建物が連なります。

 まさに、江戸時代にタイムスリップしたかのような、趣ある町並みです。

 ここまでの東海道の道筋で、往時の面影をよく残す町の筆頭は、47番関宿です。それに続くところが、49番土山宿と、この有松だと思います。東海道の多くの宿場が、開発の波に飲まれる中で、このように、歴史的な町並みが残るところは貴重です。

 

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※有松の町並み。

 

 冒頭で、有松は間の宿(あいのしゅく)として発展し、有松絞りで有名であると書きました。ところが、私が有松という町を知ったのは、街道を歩きつないで、この町の姿を見てからです。

 実は、それまで有松は、私の脳裏には存在しない、見知らぬ土地でしかなかった所。鳴海宿を後にして、池鯉鮒(ちりゅう)の宿場を目指す中、突然現れた歴史の町に、驚きと感銘を受けたのです。

 

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※有松の町並み。

 

 絞り商人の町

 有松の道筋に並ぶ伝統的な建物は、その多くが絞商によるものです。町中の案内には、「絞商の主屋は『江戸期』『明治期』『大正~昭和前期』の3つの時代に大きく分類できる・・・。明治以降に建てられた町屋は、天明の大火(1784年)後に確立された有松の町家の基本的な様式を踏まえつつ、当時の流行を取り入れて2階の高さや窓のデザインが変化していく傾向が確認」されると記しています。

 大火に見舞われながらも、伝統を引き継いで今日まで繁栄を保ち続けた絞りの町。これから先も、この風景を後世に残していただければと願います。

 

 そもそも、絞りとは、木綿などの布地の一部を、糸で自在に結んで絞り、藍染めにした生地のこと。ボツボツとした立体の凹凸と、繊細な模様の生地は、高級感を放ちます。

 思いもかけず、伝統家屋と絞りの町に遭遇した私たち。東海道の歩き旅で、ひとつの大きな発見でした。

 

 絞会館

 有松の町並みの美しさに浸りながら、歩みを東へと進めます。町の中ほどには、県道との交差点が現れて、家並みは一時分断されてしまいます。ただ、この交差点は有松の町の中心地。駅にも近く、多くの観光客で賑わいます。

 交差点から東に向かい、街道が緩やかな上り坂へと変わる辺りに、「有松・鳴海 絞会館」がありました。ここでは、絞りの展示や土産物の販売などが行われていて、観光客が気軽に立ち寄れるところです。

 会館辺りは、なめこ壁の建物や古い木造家屋も立ち並び、街道の雰囲気を盛り上げます。

 

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※有松の町並み。

 

 有松から東へ

 絞会館を後にして、わずかに上り坂道の街道を進みます。町並みが現代風に変化して、その中をさらに東に向かうと、国道1号線と合流です。

 その後しばらく、国道の歩道を歩きます。交通量が激しくて、自動車が頻繁に往き交う国道は、もう、街道の風景はありません。道沿いには、郊外型の店舗が目立ち、事務所や倉庫なども点在します。

 左手には、名鉄の軌道が走り、ほどなく、中京競馬場前駅の駅舎です。中央競馬のひとつである中京競馬場。街道は、駅の南を通っていますが、競馬場は北側です。

 

 桶狭間

 この辺り、街道の右手の坂道を上って行くと、桶狭間(おけはざま)古戦場跡があるようです。国道にも、史跡を示す表示板がありました。

 桶狭間の戦いは、1560年に起きた戦国時代の合戦です。この戦い、東海の覇権を狙った駿府(今の静岡市)の今川義元が、尾張の地に攻め入ったもの。尾張の国の織田信長は、軍勢では劣勢を余儀なくされたようですが、桶狭間で奇襲攻撃を成功させて、今川義元を討ち取ったというものです。

 桶狭間では、徳川家康も今川軍として出兵しますが、家康は、この近くにある大高城に入った後、兵を動かすことなく静観していた様子です。戦況の見極めをしていたのか、或いは、他に理由があったのか。大河ドラマの中においても、時々、この時の家康の様子が描かれます。

 「鳴くまで待とうホトトギス」の一つの行動様式だったのかも知れません。

 

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※国道1号線の様子。左に中京競馬場駅が現れて、右には桶狭間の案内がある場所です。

 池鯉鮒宿へ

 中京競馬場前駅を過ぎた後、名鉄の軌道下を潜り抜けると、名古屋市から豊明市(とよあけし)に入ります。街道は、国道を離れて、右手の旧道の方向へ。この先しばらく、名鉄と国道1号線に挟まれて、街道は池鯉鮒(ちりゅう)の宿場を目指します。

歩き旅のスケッチ[東海道]25・・・笠寺から鳴海宿、有松へ

 鳴海宿へ

 

 街道は、笠寺の街を通りすぎ、鳴海宿へと向かいます。この辺りは、尾張の国の東部にあって、三河の国につながるところ。戦国の時代には、織田家が治めた国でした。恐らく、群雄割拠の時代には、戦や陰謀などの出来事がこの地を舞台に繰り返されたことでしょう。

 

 

 笠寺の一里塚

 街道は、笠寺観音の外周を半周ほど取り巻くように回り込み、南東の方角に向かいます。

 道幅の狭い、旧市街地のような家並みを通り過ぎると、左前方に立派な樹形の大木が望めます。この大木のところが、笠寺の一里塚。今も立派な塚が残っています。

 一里塚は、元は街道の左右両側に1基ずつ築かれていましたが、今では双方が残るところはそれほど多くはありません。それどころか、片側でも、往時の姿を感じ取れる一里塚は、数少ないと言えるでしょう。

 笠寺の一里塚は、片側ながら、東海道の中においても、随一の容姿を誇っています。

 

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 ※笠寺の一里塚。

 

 鳴海へ

 一里塚を通り過ぎ、その先をやや左方向に進んだところで、天白川を渡ります。辺りは、すっかりと近代的な街の風景となりますが、その後、県道を横切った後は、旧道に入ります。

 旧道の左手は、小高い丘が迫っていて、緩やかな崖地の下を這うように街道は続きます。一段高くなった丘の上には、新しい住居などの建物も見えました。

 道は住宅が連なるところを、緩やかに蛇行しながら進みます。

 やがて、左手に、常夜灯が見えてくると、鳴海宿はもう目前です。この常夜灯、丹下町の常夜灯と呼ばれるもので、東へと向かう旅人にとっては、鳴海の入口の目印です。

 

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※左、鳴海宿に向かう旧道。右、丹下町の常夜灯。

 鳴海宿

 街道は、昔ながらの道筋を残して、40番鳴海宿に入ります。宿場の様子は写真の通り。時折、厳かな格子が連なる住宅もありますが、全体として、宿場町の面影はありません。

 

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※鳴海宿の入口付近。

 

 旧市街地の景色が連なる街中を、南方向に進みます。やがて、作町(さくまち)の三差路が現れて、そこを左手方向へ。一時、南下した街道は、ここから南東に進路を移します。

 

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※作町の三差路。左下の方向から南下した街道は、ここで正面奥の南東に延びる道に方向を変えます。

 

 本陣跡

 宿場の道を進んで行くと、道路の右手に、”鳴海本陣跡”を示す標識がありました。今は本陣の姿は無いものの、かろうじて、この案内板で鳴海宿の様子を思い描くことができるのです。

 

 「鳴海宿の本陣はここにあり、幕末の頃そのおよその規模は、間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は2軒あった。」

 

 街道を進むと、鳴海宿の歴史などを記述し、宿場絵などを配置した大きな表示板がありました。この街は、祭りには大きな山車も繰り出すようで、古い時代の祭りの写真が活気ある往時の様子を伝えています。

 

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※左、本陣跡。右、鳴海宿の街道の様子。

 

 鳴海宿の東 

  本陣を過ぎ、宿場の東側に進んで行くと、辺りはお店などは無くなって、住宅の建物だけが軒を連ねた街並みに変わります。時に木造の、格子戸がある古い住居が見られるものの、ほぼ、新しい建物です。

 

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※鳴海宿の様子。

 

 道幅の狭い街道をしばらく歩くと、平部北の交差点に出てきます。この交差点の南西角にあるのが、平部町の常夜灯。この辺りが、鳴海宿の東の入口になるようです。交差点は、結構な交通量。近くの国道1号線や名古屋高速などとも連結できる、便利な道の様子です。

 

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※平部町常夜灯。

 

 有松へ

 交差点を渡った後は、街道は、ゆっくりと弧を描きながら南東に向かいます。交差点付近の道幅は、少し広めの道ですが、次第に幅は狭まって、往時の街道のような道筋に変わります。

 やがて、小さな川が現れて、橋を渡り、名鉄名古屋本線の踏切を通過すると、頭上には名古屋環状線の高架道路が覆います。この付近の街道は、新しい幾多の交通インフラに埋もれることなく、自らの姿を主張しているような光景です。

 

 巨大な高架を潜り抜けると、少しだけ道幅は広がります。辺りは小さな緑地として整備され、高架道路の建設時に周辺整備が進んだような印象です。

 この緑地のところには、有松の一里塚を示す石標がありました。今は一里塚の姿はないものの、その名残が感じられるようなところです。

 

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※小緑地と有松の一里塚の石標。道の先は有松の町。

 

 有松

 一里塚を過ぎ、緩やかな坂道に差し掛かったと思った時、目の前に、突如として、趣ある町並みが現れました。前触れもなく視野に入った、木造の落ち着いた建物と、街道沿いに庇が連なる風景は、宿場町そのものの雰囲気です。

 関宿を出てからは、宿場町らしい町並みを味わうところが無かっただけに、突然の町の変化に、大きな衝撃を受けました。

 私たちが目指している次の宿場は39番池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)。その宿場まではまだ随分と、時間が掛かります。その前に現れた有松の町とは、いったいどのような町なのか。予備知識無く訪れた私たち。しばし、街道筋に今も残る、歴史ある町並みの風景を味わうことになりました。

 

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※有松の西の入口。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]24・・・宮宿から笠寺へ

 東国へ

 

 宮宿は、東国への入口と言っても良いところ。幾つかの主要な道が収れんし、この先、三河遠州駿河など、東の国への拠点です。

 宮宿を後にした東海道は、名古屋市南部の街並みを南東方向に延びていき、次の宿場の鳴海宿へと向かいます。

 

 

 道標

 熱田神宮の参拝を終え、私たちは、再び宮宿の街道筋に立ちました。今はT字路になっている伝馬町の三差路から、再び歩き旅を続けます。

 この三差路。その一角に、古い道標がありました。刻まれた文字は、随分と風化していて、直接判読することはできません。それでも、道標のすぐ脇に説明板が置かれているため、その内容を知ることが可能です。

 

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※伝馬町のT字路。左に見えるのが道標。

 説明板に記された内容は、次の通りです。

 

 「ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標は、建立当時(1790年)より三叉路東南隅にあったが、平成27年に現在の地に移設した。四面には、次のように刻まれている。

  東  北 さやつしま 道      南  寛政二庚戌年 

     同 みのち              

  西  東 江戸かいとう       北  南 京 いせ 七里の渡し

     北 なこやきそ道          是より北あつた御本社弐丁」

 

 この説明の内容から、伝馬町三差路は、佐屋街道を通って津島へと続く道、美濃への道、江戸に向かう東海道、名古屋から木曽に向かう道、都や伊勢へは七里の渡しを利用するなど、幾つもの交通の結節点だったことが分かります。

 

 草津の宿場で、中山道と別れを告げた東海道。実は、ここ宮宿から美濃路を伝い、中山道の垂井宿(たるいじゅく)とつながっているのです。従って、都から江戸に向かう人たちも、草津から中山道を利用して垂井に至り、垂井から美濃路を通って熱田へと向かう場合もあったのだと思います。

 朝鮮からやってきて、江戸を目指した朝鮮通信使の一行も、中山道を守山へと向かった後、近江の野洲辺りから、朝鮮人街道を経由して彦根鳥居本に至ります。その後、垂井まで中山道を進んだ後は、熱田へと方向を転換することに。そしてその先は、東海道を利用して、一気に江戸へと向かうのです。


 裁断橋跡

 伝馬町を東に進む街道は、国道1号線の一筋南の通りです。道沿いは、住居や雑居ビルなどが並んでいて、宿場町の面影はありません。
 しばらく歩くと、左手に、「裁断橋址」と刻まれた石標と、模型のような小橋が目に止まります。この橋は、宮宿の東の外れに架けられていたもので、戦国時代に、小田原の陣で息子を亡くした母親が、息子の菩提を弔って築かれたということです。

 橋の欄干にある擬宝珠の銘文が貴重なものらしいのですが、由来を綴った案内板には、今は市営博物館に保存されていると記されています。

 

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※左、宮宿の道筋。右、裁断橋址。

 

 宮宿を後に

 裁断橋を通り過ぎ、街中を進んで行くと、新堀川に架けられた小さな橋を渡ります。その先、住宅が中心の街並みを進んで、途中、地下鉄名城線が地上を走る踏切を越えると、街道は国道1号線と合流です。

 少しの間、国道の歩道を歩いた先で、名古屋高速の高架の下をくぐり抜け、街道は真っ直ぐに、東に続く旧道に入ります。一方の国道1号線は、街道と離れて高架の所で南下です。

 ここまでの国道は、交通量も激しくて、周囲もビルが建ち並びます。

 

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※左、新堀川。右、国道、内浜の交差点。

 

 笠寺へ

 旧道は、しばらく進むと、閑静な住宅地に入ります。この辺り、呼続(よびつぎ)と呼ばれるところで、名古屋市の南区に属します。途中には、所々に神社や城跡なども見受けられ、古くから武将たちが往き来した情景が浮かんでくるようなところです。

 

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※左、山崎城跡の石標。右、神社の入口には「東海道」の石碑がありました。何れも、呼続

 街道は、呼続で東から南の方向に向きを変え、落ち着いた住宅地の中を進みます。やがて、笠寺と呼ばれる街に入ると、街並みも少し賑やかな雰囲気に。この辺り、名鉄名古屋本線の鉄道が、街道の左手を走ります。

 

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※笠寺の街並み。

 

 名鉄本笠寺駅に近づくところで、街道は左に折れて、その先で名鉄の踏切を渡ります。この辺り、ちょっとした商店街の様子です。買い物客で賑わう街は、人々の暮らしの活気を感じます。

 そして街道は、名古屋市道の広い道を横切って、南東の方向へ。小さなお店が点在する、門前町のような街並みのその先には、笠寺観音の山門が控えます。

 

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笠寺観音の山門を望む街道。

 笠寺観音

 街道の正面に控える笠寺観音。「笠寺」の地名はここから来ているのかも知れません。私たちは、由緒あるこの寺院に参拝するため、少しだけ寄り道です。

 笠寺観音は、歴史ある寺院で、奈良時代に建立されたということです。十一面観音を本尊と仰ぐ真言宗のこの寺院。赤々と連なる幟旗が、存在感を誇示しています。

 よく知られている史実としては、織田家に人質として幽閉されていた徳川家康(当時は”竹千代”)と、今川義元に捕らえられた織田信長の兄、織田信広との人質交換がこの寺の境内で行われたということです。

 

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笠寺観音の境内。

 

 笠寺観音の境内には、その一角に多宝塔が配置され、その正面に、「人質交換之地」と刻まれた石碑が置かれているのです。この石碑を確かめて、確かにこの地で竹千代と織田信広の人質の交換が行われたことを納得したものでした。

 人質交換の後、竹千代は駿府静岡市)に向かい、幼少期のしばらくの年月を駿府で暮らすことになるのです。

 

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笠寺観音の境内。左が多宝塔で、その前にあるのが「人質交換之地」の石碑。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]23・・・宮宿と七里の渡し、熱田の宮

 東海道随一の宿場町

 

 宮宿は、東海道で最大規模の宿場であったと言われています。どうして、この宿場が賑わったのか。その理由は幾つかあるようです。

 その一つが、七里の渡し。桑名宿と宮宿を海路で結んだ東海道の、東の湊がここ宮宿にあったのです。

 二つ目の理由は、熱田神宮の存在です。古くから地域の人々に慕われた神宮は、織田信長などにも信仰され、崇められてきたようです。

 第三の理由は、尾張の国と美濃の国など、各地を結ぶ交通の要衝であったということです。東海道の迂回路として存在した佐屋街道、そして、中山道の垂井宿と結ぶ脇街道美濃路など、幾つもの街道がここ宮宿と交わります。

 このように、東海道の中心的な存在感を誇った宮宿ですが、今はもう、その面影はありません。七里の渡しの湊跡や熱田の宮を巡りながら、往時の繁栄を偲びます。

 

 

 宮宿へ

 堀川に架かる国道1号線の白鳥橋。この橋を渡ったところで右折して、堀川の左岸の道を下ります。おそらく、宮宿はこの辺りからだと思うのですが、東海道はこの先の七里の渡しの湊から始まります。

 歩き旅のスケッチ[東海道20]のところで触れた通り、桑名宿と宮宿を結ぶ正規のルートは海路です。七里の渡しと呼ばれるこのルート。今では陸路を迂回して、国道を進む以外にありません。従って、湊までの道筋は、現代の仮の道という訳です。

 宮の湊へと向かう道筋は、全く新しい街の風景です。

 

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 ※堀川沿いの道を湊へと向います。

 

 七里の渡し

 堀川の左岸道路を少し進むと、右手には公園が現れます。そして、白壁や歴史を感じるモニュメントなどが見えてくると、その先が宮の渡し公園です。

 公園に入っていくと、前方が堀川で、広々とした川面が広がります。川の周囲は、ビルや建物が連なって、とても海が近いとは思えない風景です。かつては、すぐそこが海だったはずですが、今や埋め立てが進行し、伊勢湾は遥か遠くに退きました。

 

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※堀川に残る湊跡。

 

 宮の渡し公園には、常夜灯や石碑などが配置され、川岸には船着き場跡も見られます。桑名から江戸を目指した人たちは、ここで下船し、宮の宿場に吸い込まれていくように、東へと向かっていったことでしょう。

 一方で、桑名に向かう旅人は、東国との別れを告げて、伊勢へ京へと船旅の途についたのだと思います。

 

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※左、宮の渡し公園の入口。右、七里の渡しの船着き場。

 

 宮の渡し公園

 公園内には、幾つかのモニュメントなどもありますが、目立つのは、鐘つき堂のような建物です。昔からの、由緒あるものかどうかは分かりませんが、湊にはよく似合う雰囲気の良い建物です。

 宮の湊は、桑名に向かう七里の渡しの渡船場ではありますが、もうひとつ、伊勢湾を巡る遊覧船の湊でもあった様子です。園内に幾つか設置された説明板のひとつには、松尾芭蕉が船遊びを楽しんだという記述がありました。

 それによると、「松尾芭蕉(1644 1694)は、日本を代表する俳人で、・・・旅の初期に熱田に度々訪れ、・・・名古屋や鳴海の門人たちと交流。七里の渡しから舟遊びであゆち潟(愛知のことでしょう)を楽しみ・・・」と記されています。

 

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※宮の渡し公園内。

 

 宮宿

 七里の渡しの船着き場からすぐ先は、湊を抱き込むように道が広がり、確かに宮宿の中心地だった様子です。街道は、その先を直角に進んで、熱田神宮に近づきます。

 

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※七里の渡しの説明板。

 宮宿の中心地当たりの街道は、往時の面影を感じるところはありません。ここが、東海道随一の宿場町であったとは、誰もが思いもよらない光景です。街は完全に近代化され、その姿を一変させました。

 熱田の宮と幾つかの街道が交差する、重要な街であった熱田の宿場。時代の変遷が疎ましくも思えます。今は、東海道の道しるべとして、舗装道路に埋められた目印のタイルと、所々に設置された道標で、そこが街道筋であったことを僅かに感じる状況です。

 

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※左、宮宿の様子。右、道しるべのタイル。

 熱田の宮

 街道は、国道247号線を横切って、宿場町の北側の熱田神宮へと近づきます。その後は、神宮を目前にした伝馬町の三差路で、東へと方向を変えるのです。

 私たちは、一旦ここで街道を離れて、熱田の宮への参拝です。

 南北に走る国道247号線は、直ぐに東西の国道1号線と交わります。そして、1号線を横切ってしばらく歩くと、右方向に熱田神宮の西門の鳥居が現れます。

 この鳥居、木造の厳かさを備えた構えです。鳥居辺りの雰囲気は、背後に控える広大な神社の境内に、人々を誘い込む力を感じるような空間です。

 

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熱田神宮西門。

 鳥居をくぐり境内の奥を見渡すと、鬱蒼とした森の中に入るような感覚です。参道を進んで、第二の鳥居を通り抜け、左に向かうと熱田の宮の本殿が現れます。大勢の人々が参拝する本殿は壮大で、信仰の厚さを思い知ることとなりました。

 熱田神宮は、伊勢神宮に次ぐ由緒ある大社とされていて、格式高い神宮です。境内には、幾つもの社や建物が配置され、それこそ参拝者は途切れることがありません。

 かつて街道を旅した人々は、宮の宿場に足を止め、この神宮に参拝し、掌を合わせたことでしょう。織田信長や戦国の武将たちも、熱田の宮の存在を、畏れ大きものとして捉えていたに違いないと思います。

 

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熱田神宮の本殿。

 街道へ

 私たちは、神宮の参拝を終えた後、再び伝馬町の三差路に戻って、街道歩きを続けます。

歩き旅のスケッチ[東海道]22・・・宮宿への道(後編)

 国道歩き

 

 桑名宿と宮宿の間は、今は陸路でつながります。七里の渡しの海路があれば、さぞかし優雅な旅ができたのではと思いながら、国道をひたすら歩き続けます。

 国道1号線が通るあたりは、かつては、伊勢湾の汀線近くだったのだと思います。あるいは、干潟が広がる湿地のような場所だったのかも知れません。時が進んで、海岸線は次第に湾の奥へと遠ざかり、今では、潮の香りを感じることはありません。

 整地され、区画されたコンクリートの街が広がります。

 

 

 愛西市蟹江町

 弥富市の隣の街は、愛西市。そしてすぐに、蟹江町(かにえちょう)に入ります。この辺りは、民家はまばらで、農地と沿道サービスの店舗などが散らばります。

 ”蟹江”という町の名称から推測すると、海辺や干潟で蟹が戯れる姿を思い描いてしまいます。地名からの単純な想像ではあるものの、国道の道筋は、かつては、水辺に近い場所だったことでしょう。

 

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※左、愛西市の入口。右、蟹江町の入口。

 名古屋市

 蟹江町の国道を歩いた先で、いよいよ名古屋市に入ります。相変わらずの景色が広がり、街道歩きを味わえる区間ではありません。

 戸田川の橋を過ぎた辺りから、マンションなどが建ち始め、次第に都会の様相に変わります。

 

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※左、名古屋市の入口。右、戸田川。

 やがて、左手前方の遠くには、高層ビル群の姿を捉えることができました。これらのビルは、名古屋駅周辺に林立する建物で、今いる場所と駅との位置関係を確認できる目印です。

 

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※中央遠方に見えるのが名古屋駅周辺の高層ビル。

 松蔭遊園地

 名古屋市に入った後、幾つかの小さな川を越えて進むと、やがて少し大きな川に差し掛かります。この川は、庄内川と呼ばれていて、左岸には樹齢を重ねた立派な松並木が見えました。

 庄内川の橋を渡ると、その左手の少し目立った説明板が目に止まります。この説明板、昔の写真を配置した、興味を引く内容です。表題は、「中川まちなか博物館ー松蔭遊園地」というもので、ここにある松並木は”松蔭(まつかげ)遊園地”の名残だと書かれています。

 少し惹かれる内容なので、敢えて記載の内容を記します。

 

 「大正2(1913)年の尾頭橋から下之一色までの路面電車の開通に併せて下之一色電車軌道株式会社が水泳場を建設した。当時は砂浜があり、庄内川の水もきれいであったため、名古屋郊外の遊園地、遠足地、写生地として知られ、夏場は団体連れや家族連れで賑わった。川岸には脱衣場の桟橋、路上には貸しボートや飲食店などが並んだ。現在も樹齢100年を超えるクロマツ並木が続き、かつてのなごりをとどめている。」

 

 川を利用した水泳場が、市民の憩いの場として整備され、大いににぎわっていた様子の写真を見ると、時の流れを感じない訳にはいきません。何故か郷愁に駆られる場所でした。

 

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※左、庄内川。右、松蔭遊園地の説明板。

 六番町へ

 庄内川を渡ってしばらく歩くと、左手に、人目を引く朱色の鳥居がありました。ここは、中島稲荷大社というお稲荷さん。入口で柏手を打ち、先の道を急ぎます。

 やがて前方には、鉄道の軌道の高架が国道をまたぎます。この高架、名古屋駅と名古屋港のふ頭をを結ぶ、あおなみ線の軌道です。

 

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※左、中島稲荷大社。右、正面であおなみ線の高架が国道を横切ります。

 幅の広い国道は、多くの車両が往き交います。道は真っ直ぐ東に向かい、延々と続くコンクリートの景色の中で、ひたすら歩数を刻みます。

 この日、弥富の駅から歩き始めて、5時間近く。国道の前方に、六番町と記された大きな交差点が見えました。

 何よりも目に引いたのは、交差点をまたいで貫く新幹線の軌道です。そして、新幹線のさらに上には、名古屋高速の大きな高架が覆っています。そして、もうひとつ。地下に下りると、そこは地下鉄の六番町駅。ここから名古屋駅に向かうことが可能です。

 様々な交通機関が集中する交差点。名古屋市南部の拠点のひとつと言えるのかも知れません。

 

  六番町の近くには、十番町などの町名もあり、町割りの区画のような名称が印象に残ります。この名称は、江戸時代に海岸が埋立てられた時に付けられたものということで、元々、三十三番町までの区割りです。今は、何番町が残っているのか分かりませんが、歴史を感じる地名です。

 

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※左、六番町の交差点。右、六番町から東へ。

 

 私たちは、六番町の交差点でこの日の行程を終了です。

 

 宮宿へ

 次回、再び鉄道を利用して、この交差点に降り立って、その先の宮宿に向かいます。

 六番町から宮宿までは、少し距離があるとの思いでしたが、歩いてみるとそれほど遠くはありません。歩き始めてしばらくすると、左手に熱田社(あつたしゃ)の鳥居が見えました。

 この神社は、熱田神宮とは直接の関係は無いようですが、神宮が近いことを暗示している様子です。

 

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※熱田社。

 

 交通量の多い国道をさらに東へと歩き進むと、堀川という、運河のような川に行き着きます。この川に架かる白鳥橋を渡ったところが白鳥橋東交差点。

 何本かの道が交差する、広々としたこの交差点を堀川沿いに下っていくと、その辺りが、宮の宿場の入口です。今は、宿場の面影はほとんど残ってはいませんが、かつて、桑名と宮の2つの宿場をつないでいた、七里の渡しの跡だけは、往時の姿が偲ばれるようなところです。

 

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※左、堀川。右、白鳥東交差点。

 宮の宿場と七里の渡し、そして、この宿場を見守るように鎮座する、熱田神宮を巡りながら、街道歩きを続けます。