旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]29・・・岡崎宿へ

 安城市

 

 知立市から岡崎の宿場に向かう時、街道は、安城市の北部を通ります。この道中には、今も多くの区間に松並木が残されて、風情を感じるところです。

 安城市は、かつては農業が盛んだったようですが、今では、たくさんの工場も見られます。東海道新幹線も市の中央部を横断し、三河安城駅の周辺は、新しい街が広がります。

 街道は、安城の松並木を通り抜け、矢作川へ、岡崎へと向かいます。

 

 

 来迎寺の一里塚

 500mほど続く知立の松並木。この並木道を通り過ぎ、その先で、街道は自動車道路の高架下をくぐります。

 美しく整備された道筋は、しばらく、街道の雰囲気から離れます。それでも、落ち着いた家並みが続く沿線は、交通量も落ち着いて、気分よく歩けます。

 

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知立市東部の街道の様子。

 

 相変わらず住宅地が続く中、来迎寺の町に入ると、右側に、一里塚が現れました。この一里塚は、来迎寺の一里塚。小山状の塚の部分は、綺麗に芝生が覆います。一里塚の周囲も新しく整えられて、ポケットパークのような感じです。

 

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※来迎寺の一里塚。

 

 安城市

 来迎寺の町は、知立市の東の端。集落が尽きたところの左手に、御鍬神社の林が広がり、青々とした緑が鮮やかです。

 街道は、神社の先で、右方向に弧を描きながら、安城市に入ります。 

 

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※御鍬神社前。

 

 安城の松並木

 安城市に入ると、風景は少し変わります。街道には、所々に松の木が植えられて、並木という感じではないものの、東海道の風情が漂う雰囲気です。

 ただ、沿道には、大小の工場が並ぶほか、新しい住宅の建物なども見受けられ、複雑な様相も呈しているところです。

 おそらく、近代の成長期以前には、この辺りは広々とした農地が広がり、その中を松並木の街道がゆるやかに貫いていたのだと思います。松の根に腰を下ろした旅人が、広々と横たわる畑地を見ながら、煙管を吹かす光景が目に浮かぶような気がします。

 

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安城市の街道の様子。

 

 安城市の松並木は、結構長い区間続きます。時には疎らに、時には整然とした間隔で、東海道の道案内をしてくれます。

 この松並木、近年はずいぶんとその数を減らしているようですが、それでも、200本を超える規模ということです。大きな松は、200年から250年と推定される樹齢の木。江戸時代末期の世相も見ながら、令和の時代に、なお、優美な姿を残しています。

 

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安城市の松並木。

 

 東へ

 松並木の街道は、数キロの間、延々と続きます。この道は、国道1号線の北側を、少し弓なりに迂回して、岡崎方面へと向かいます。

 街道自体は、今は片側1車線の自動車が走る道。所々に、神社や寺院、石碑などが残っていて、地域の歴史を伝えています。

 

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※左、明治川神社。右、一里塚のように、石碑が立っています。

 国道との合流

 やがて街道は、旧道を後にして、国道1号線と合流します。どこにでもあるような、車が行き交う国道を歩いて、矢作川(やはぎがわ)へと向かいます。

 

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※国道との合流地点。

 矢作の町

 矢作川が近づくと、少しの区間、国道の北側に残る旧道に入ります。1Km弱のこの旧道は、前半は、道幅もそこそこあって、過去には道路拡張が行われた様子です。対照的に、後半は、昔のままの街道が残されたような雰囲気です。

 

 矢作町の旧道の、道幅が狭まる中央辺りの交差点を右折して、少し南に向かうと、名鉄名古屋本線矢作橋駅に行き着きます。

 私たちは、街道からそれ、矢作橋駅でこの日の行程を終了です。この日の朝、池鯉鮒宿の手前にある、名鉄豊明駅から歩き始めて、矢作の町まで、およそ17Kmの行程でした。

 

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※矢作の町の様子。

 矢作川

 翌朝、再び矢作町の旧道に立ち戻り、そこから新たなスタートです。

 旧道の街道の後半は、道幅が急に狭まります。途中には、老舗のお店なども見受けられ、矢作川の堤防へと続く坂道と共に、街道独特の風情を放っています。

 堤防は、治水整備が終わったような、スッキリとした姿です。三河の国の大河川、矢作川のその先は岡崎です。

 

 出会之像

 矢作川には、江戸時代、土橋が架けられていたということです。度々の洪水で流されたようですが、その都度、再建されました。

 今は、かつての橋から少し南に、国道1号線の矢作橋が架かります。

 矢作橋の西の堤防のところには、少し奇妙な石像がありました。出合之像と刻まれたこの石像は、子どもの頃の豊臣秀吉のエピソードを表したモニュメント。像の脇には、その説明がありました。

 

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※出会之像とその解説。

 説明によると、豊臣秀吉(幼少の頃は、日吉丸)は、8歳の頃から奉公に出されたようですが、12歳で奉公先の陶器屋を逃げ出したとのこと。家に帰れず、東海道を東へ下る途中、矢作橋の上で寝てしまったようで、その時、蜂須賀小六(当時は、小六正勝)という野武士が、寝ていた日吉丸の頭を蹴ってしまったということです。

 出会之像は、この時の日吉丸と小六正勝を模したもの。後年、豊臣秀吉は、蜂須賀小六を家来にするのですが、実は、この時のエピソードは、主従関係は真逆です。

 

 頭を蹴られた日吉丸は、無頓着に通り過ぎようとする小六に対し、「謝れ」と諭します。小六は、「度胸があるやつだ。手下にするから手柄を見せよ」と日吉丸に迫ります。

 日吉丸は、承知して、岡崎の味噌屋*1に小六とその一行を連れて行き、中を荒らすのを手伝います。やがて、味噌屋の人々が強盗に気づいて大騒ぎ。日吉丸は、井戸に大きな石を投げ入れて、「盗賊は井戸に落ちた」と叫びます。

 それを聞いた人々は、井戸の周りに集まります。そして、その隙に、日吉丸や小六たちは、走り去ったというのです。


 どうも、このエピソードは、史実ではないようですが、微笑ましくなるお話です。後に、太閤となる秀吉が、その下積み時代、どのような生活をしていたのか、わずかながら、垣間見ることができたような気がします。

 

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矢作橋

 国道1号線に架けられた、矢作橋を渡って行くと、その先は、岡崎市徳川家康の居城として有名な、岡崎の城下町が近づきます。

 

*1:次回のブログで触れますが、岡崎は八丁味噌で有名です。味噌煮込みうどんなどに欠かすことができない赤味噌は、ここ岡崎が発祥の地のようです。