旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]25・・・笠寺から鳴海宿、有松へ

 鳴海宿へ

 

 街道は、笠寺の街を通りすぎ、鳴海宿へと向かいます。この辺りは、尾張の国の東部にあって、三河の国につながるところ。戦国の時代には、織田家が治めた国でした。恐らく、群雄割拠の時代には、戦や陰謀などの出来事がこの地を舞台に繰り返されたことでしょう。

 

 

 笠寺の一里塚

 街道は、笠寺観音の外周を半周ほど取り巻くように回り込み、南東の方角に向かいます。

 道幅の狭い、旧市街地のような家並みを通り過ぎると、左前方に立派な樹形の大木が望めます。この大木のところが、笠寺の一里塚。今も立派な塚が残っています。

 一里塚は、元は街道の左右両側に1基ずつ築かれていましたが、今では双方が残るところはそれほど多くはありません。それどころか、片側でも、往時の姿を感じ取れる一里塚は、数少ないと言えるでしょう。

 笠寺の一里塚は、片側ながら、東海道の中においても、随一の容姿を誇っています。

 

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 ※笠寺の一里塚。

 

 鳴海へ

 一里塚を通り過ぎ、その先をやや左方向に進んだところで、天白川を渡ります。辺りは、すっかりと近代的な街の風景となりますが、その後、県道を横切った後は、旧道に入ります。

 旧道の左手は、小高い丘が迫っていて、緩やかな崖地の下を這うように街道は続きます。一段高くなった丘の上には、新しい住居などの建物も見えました。

 道は住宅が連なるところを、緩やかに蛇行しながら進みます。

 やがて、左手に、常夜灯が見えてくると、鳴海宿はもう目前です。この常夜灯、丹下町の常夜灯と呼ばれるもので、東へと向かう旅人にとっては、鳴海の入口の目印です。

 

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※左、鳴海宿に向かう旧道。右、丹下町の常夜灯。

 鳴海宿

 街道は、昔ながらの道筋を残して、40番鳴海宿に入ります。宿場の様子は写真の通り。時折、厳かな格子が連なる住宅もありますが、全体として、宿場町の面影はありません。

 

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※鳴海宿の入口付近。

 

 旧市街地の景色が連なる街中を、南方向に進みます。やがて、作町(さくまち)の三差路が現れて、そこを左手方向へ。一時、南下した街道は、ここから南東に進路を移します。

 

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※作町の三差路。左下の方向から南下した街道は、ここで正面奥の南東に延びる道に方向を変えます。

 

 本陣跡

 宿場の道を進んで行くと、道路の右手に、”鳴海本陣跡”を示す標識がありました。今は本陣の姿は無いものの、かろうじて、この案内板で鳴海宿の様子を思い描くことができるのです。

 

 「鳴海宿の本陣はここにあり、幕末の頃そのおよその規模は、間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳であった。なお、天保14年(1843)の調査によれば、宿駅内には、家数847軒・人口3643人・旅籠68軒と記録され、当時の繁栄ぶりが推測される。また、予備の脇本陣は2軒あった。」

 

 街道を進むと、鳴海宿の歴史などを記述し、宿場絵などを配置した大きな表示板がありました。この街は、祭りには大きな山車も繰り出すようで、古い時代の祭りの写真が活気ある往時の様子を伝えています。

 

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※左、本陣跡。右、鳴海宿の街道の様子。

 

 鳴海宿の東 

  本陣を過ぎ、宿場の東側に進んで行くと、辺りはお店などは無くなって、住宅の建物だけが軒を連ねた街並みに変わります。時に木造の、格子戸がある古い住居が見られるものの、ほぼ、新しい建物です。

 

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※鳴海宿の様子。

 

 道幅の狭い街道をしばらく歩くと、平部北の交差点に出てきます。この交差点の南西角にあるのが、平部町の常夜灯。この辺りが、鳴海宿の東の入口になるようです。交差点は、結構な交通量。近くの国道1号線や名古屋高速などとも連結できる、便利な道の様子です。

 

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※平部町常夜灯。

 

 有松へ

 交差点を渡った後は、街道は、ゆっくりと弧を描きながら南東に向かいます。交差点付近の道幅は、少し広めの道ですが、次第に幅は狭まって、往時の街道のような道筋に変わります。

 やがて、小さな川が現れて、橋を渡り、名鉄名古屋本線の踏切を通過すると、頭上には名古屋環状線の高架道路が覆います。この付近の街道は、新しい幾多の交通インフラに埋もれることなく、自らの姿を主張しているような光景です。

 

 巨大な高架を潜り抜けると、少しだけ道幅は広がります。辺りは小さな緑地として整備され、高架道路の建設時に周辺整備が進んだような印象です。

 この緑地のところには、有松の一里塚を示す石標がありました。今は一里塚の姿はないものの、その名残が感じられるようなところです。

 

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※小緑地と有松の一里塚の石標。道の先は有松の町。

 

 有松

 一里塚を過ぎ、緩やかな坂道に差し掛かったと思った時、目の前に、突如として、趣ある町並みが現れました。前触れもなく視野に入った、木造の落ち着いた建物と、街道沿いに庇が連なる風景は、宿場町そのものの雰囲気です。

 関宿を出てからは、宿場町らしい町並みを味わうところが無かっただけに、突然の町の変化に、大きな衝撃を受けました。

 私たちが目指している次の宿場は39番池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)。その宿場まではまだ随分と、時間が掛かります。その前に現れた有松の町とは、いったいどのような町なのか。予備知識無く訪れた私たち。しばし、街道筋に今も残る、歴史ある町並みの風景を味わうことになりました。

 

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※有松の西の入口。