旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]21・・・宮宿への道(前編)

 迂回路

 

 七里の渡しから先の行程は、今では陸路を進むしかありません。そのルートは、国道1号線の利用です。

 江戸時代には、伊勢湾の海岸線は、今よりもさらに陸地側にあったということで、国道の道沿いは、海だったのかも知れません。それでも今は、国道を進むしかなく、やむを得ずこのルートを辿って、熱田神宮にほど近い、宮の宿場に向かいます。

 

 

 佐屋街道

 桑名の宿場と宮宿を結ぶ本来の道筋は、両宿の湊を海でつないだ、七里の渡し。この間を、4時間の船旅で渡ります。

 ところが、実はもうひとつ、別のルートもあったようで、その道は「佐屋街道(さやかいどう)」と呼ばれています。このルートは、桑名の湊から今の愛西市佐屋までのおよそ3里の川筋を、上流に向かって船で進み、そこから名古屋の南を経由して、宮宿までを陸路で進むコースです。

 川筋の船の渡しは、「三里の渡し」と呼ばれたようで、いずれにしても、桑名から先の道は、船に頼らざるを得なかったということです。

 

 渡船による往来が不可欠だったその訳は、伊勢の国と尾張の国を分断する、木曽三川(きそさんせん、桑名側から、揖斐川長良川木曽川と並びます。)の存在です。日本でも屈指と言える3つの河川。これらが、伊勢湾に流れ込む辺では、互いにその距離を狭めて、まるでひとつの大河のように姿を変えて横たわります。

 この大河を渡るためには、船を利用するのが一番です。言い換えると、船でなければ渡れない、自然の地形が立ちはだかっているのです。

 

 桑名宿を後に

 七里の渡しの湊を発って、桑名宿の北端の街中を、県道方面に向かいます。この間の街並みは、本陣跡や料理店などが並んでいて、少し宿場の面影が感じられるところです。

 県道に出た後は、右折して北の方角へと進みます。まもなく、揖斐川の堤防道が現れて、雄大な川の景色が見えました。整備された堤防には、住吉神社が鎮座して、船旅の安全を見守ってくれている様子です。

 広々とした揖斐川伝いの堤防道を、上流へと向かいます。

 

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※左、住吉神社。右、揖斐川と遠方の国道の橋を望みます。

 

 木曽三川

 堤防道が国道1号線に接する所で、木曽三川の川越が始まります。右手には、雄大な川が広がり、上流から伊勢湾を目指して川面はゆったりと流れます。左前方には、養老の山並みが大河に迫り、まさに、桑名は自然の要衝という地形です。

 国道に入ったところで、揖斐川に架かる橋を渡ります。この橋は、少し錆が浮かんだ鉄橋で、ずっしりと重みを感じる大橋です。橋の右手下流には、新しい橋の橋台工事が進んでいて、いずれ、付け替えられることになるのでしょう。

 途中には、中洲のような所があって、その先は長良川の流れです。伊勢大橋と呼ばれるこの橋は、長良川も越えて行き、木曽川との間に挟まれた、いわゆる輪中(わじゅう)の町へと続きます。 

 

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※伊勢大橋と揖斐川

 

 輪中

 長良川を渡った後は、少しだけ、輪中の中を歩きます。この辺りは長良川木曽川下流にできた、島状の陸地です。かつては、幾つもの小規模の輪中が散らばっていて、その隙間を縫うように、川が流れていたということです。

 桑名の湊を出発した、三里の渡し。船は、この輪中の隙間の水路を通って、佐屋の湊を目指したのだと思います。

 今では、この輪中は一つの大きな陸地です。下流には、有名なレジャー施設、長嶋スパーランドを擁しています。

 

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※左、輪中の中の交差点。右、木曽川へのアクセス。

 尾張
 木曽川を渡る橋は、尾張大橋と呼ばれています。この橋の途中が、伊勢の国と尾張の国の国境。木曽川を渡り終わると、愛知県弥富市です。

 

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※左、尾張大橋。右、弥富市へ。

 

 弥富市に入ると、国道は交通量が増えてきて、さながら幹線道路の風景です。この辺りは、名古屋などのベッドタウンの様相で、新しく、活気がある街に映ります。

 所々に、古い木造の建物や、「東海道」の道しるべなどもありますが、この道筋がいつごろからあったのか、知るよしもありません。全体として、道筋の様相は近代的な装いです。

 国道をしばらく歩くと、左手奥には、近鉄弥富駅とJR関西本線弥富駅、さらには、名鉄線の駅がありました。

 私たちの行程は、この日の朝、関西本線益生駅に降り立って、桑名宿の南西にある矢田立場を出発し、この弥富駅で終了です。それほど長い区間ではなかったものの、七里の渡しや木曽三川の大河を楽しんで、充実した歩き旅となりました。

 

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弥富市の国道筋。右の写真は、弥富駅の近くです。

 弥富から東へ

 数週間後、再び弥富駅にやってきて、引き続き、国道を東へと向かいます。建物がまばらになったり、時折、古い構築物も現れますが、どこにでもあるような、国道の風景が主流です。

 国道脇を眺めながら歩いていると、幾つもの区画された池が広がる区域がありました。近くの道沿いには、大きな金魚の看板です。この辺り、金魚の水槽が並ぶお店が幾つもあって、興味をそそられるところです。

 弥富市が、金魚の町ということは、ここに来て初めて知ることになりました。奈良県大和郡山は、金魚の町として余りにも有名ですが、愛知県にも同様の町があったのです。

 

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※左、金魚の看板。右、国道の風景。

 

 私たちは、迂回路である、国道1号線の歩道を歩き、一路東へと向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]20・・・桑名宿と七里の渡し

 宿場町・湊町・城下町

 

 桑名の街は、古くから交通の要衝であったため、まずは宿場町として発展したのだと思います。そして、この街は、東国へとつなぐ渡船の湊が設置され、湊町としても賑わいをみせました。

 さらに、江戸期になると、桑名城の城下町としても栄えることに。

 宿場町、湊町、城下町という、華やかな賑わいを彷彿とさせる伊勢の国の玄関口。さぞかし、大勢の人々が往き交って、喧騒に包まれた、活気みなぎる街だったことでしょう。

 

 

 宿場町へ

 JR関西本線の益生駅に降り立って、前回、歩き旅に区切りをつけた、矢田の立場に向かいます。

 東海道は、立場跡の三差路から東の方角へ。道筋は、ごく普通の住宅が並ぶ旧市街地の光景です。桑名の宿場はこの辺りからということですが、宿場町の面影はありません。

 

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※矢田の立場跡。真っ直ぐに延びる道が桑名宿の入口です。

 

 街道は、ほどなく国道1号線を横切って、真っ直ぐに、さらに東に進みます。

 宿場町の途中には、由緒ある和菓子屋の店構えや、街道にはみ出しながら威厳を示す鳥居など、わずかに歴史を感じるスポットが現れます。それでも、大方は普通の街角。時代と共に、街の姿は変わります。

 

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※かつての桑名宿の様子。

 やがて市街地の主要道路に辿り着いたところで、街道は左折して、北の方へと向かいます。桑名の宿場は、コンクリートの道案内柱が整っていて、複雑な道であっても迷うことはありません。それでも、地図を手放さず、慎重に街道を辿ります。

 主要道路の県道を、少し歩いたその先は、道が二股に分かれます。街道は、左手の旧道です。

 

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※左、市街地を走る県道。右、県道は右方向。旧道は左方向に真っ直ぐです。

 桑名の市街地

 旧道に入った後は、市街地の中の住宅地。左に右に折れ曲がり、街中を東西に貫く県道を横切ります。

 この先は、さすがに道も狭くなり、昔からの区割りが残る道筋です。古くからの老舗の名残なのかは分かりませんが、ところどころにお店なども見られます。

 

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※左、横に走る県道を渡って正面先の旧道へ。右、街中の街道の様子。

 この辺りの道筋は、街道の目印として、茶系統の舗装材が敷かれています。曲がり角に設置された、道案内の標識と合わせて確認すれば、道を迷うことはありません。

 やがて、突き当りに毘沙門天堂が現れたところで右折して、東の方角へと進みます。市街地の東のはずれは、揖斐川が伊勢湾にそそぐ場所。街道は、水辺を目指して東進です。

 道幅が少し広がると、その先に歴史公園のような景色が見えました。道路脇には、松の木や石垣風の塀が現れ、石造りの橋の欄干も目に入ります。

 

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※左、三之丸堀への道。右、堀の角に立てられた、近辺の史跡案内。

 桑名城

 街道は、橋が架かる直前の交差点を左折です。この先、右手には、桑名城の外堀が取り巻いていて、堀伝いに細長い緑地が広がります。

 緑地には、近辺の史跡の案内や桑名宿と桑名城の説明板などもありました。外堀を挟んだ向かいには、民家などが林立し、場内の景色としてはやや興ざめのところはありますが、堀をかたどる石垣は歴史の重みを伝えています。

 地図を見ると、外堀の向かいの住宅のさらに奥には、内側の堀があり、桑名城跡の中心部となるようです。今は、九華公園(きゅうかこうえん)*1と呼ばれていて、水と木々が美しい市民の憩いの空間です。

 

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※左、外堀伝いの街道。右、外堀から城内を望みます。

 

 桑名宿

 外堀伝いの道筋も、かつての宿場町の一部分です。堀端の緑地には、桑名宿の概要を記した案内板が立てられていて、そこには、次のような記述がありました。

 

 桑名宿は、「東隣の宮宿から海上7里(約28Km)、四日市宿までは陸上3里8町(約13Km)の位置にあって、宿場は、七里の渡し場から・・・福江町(矢田立場の辺り)まで」

 また、「宿場の規模は、天保14年(1843年)調べでは、人口8,848人であり、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒があった。」とのこと。

 

 桑名は、冒頭でも触れた通り、宿場町に加えて、湊町と城下町の顔を持ち、多様な機能を備えています。このように、重要な役割を果たしたこの町は、東海道53次の中でも屈指の規模を誇ったようで、街道第2の大きさだったと言われています。

 

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※外堀の風景。

 外堀沿いの街道を進んで行くと、再び両側に住宅などの建物が張り付きます。堀は、かぎ型に折れ曲がり、右手の住宅の裏側に隠れます。

 ほどなく、街道の左手に大きな鳥居が現れて、その奥には、立派な山門や神社が見えました。春日神社と称されるこの神社。宿場、湊、城下に近く、往時の賑わいが偲ばれます。

 

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春日神社。

 

 七里の渡し

 春日神社を通り過ぎ、外堀道の街道を北に進むと、間もなく道案内の石柱が現れます。石柱が指示する街道の方向は右折ということではありますが、指示に従い、先に進むと、城の櫓に辿り着き、その向こうは揖斐川です。

 この辺り、城跡の公園の北の端。東海道は、かつてはこの辺りから船で伊勢湾を横断し、熱田神宮がある宮宿へと向かうことになるのです。

 

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※左、七里の渡しの入口。右、蟠龍櫓。

 

 揖斐川から、元の街道に戻ってみると、石柱のすぐ傍が小公園のようになっていて、荘厳な鳥居が見えました。この鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居とされていて、東国から伊勢を目指した人たちの玄関口。

 この小公園は、かつての「七里の渡し」の船着き場であった様子です。敷地の端には石碑が立てられ、その証を残しています。

 

 江戸日本橋と京の都の三条大橋を結ぶ東海道。およそ126里という道のりの中、42番桑名宿と41番宮宿を往き来する主な手段は渡船です。

 7里(約28Km)という長い区間を船に揺られて渡る時、あるいは危険な船旅だったかも知れません。しかし、心地よい晴天が広がる下では、伊勢湾の絶景を楽しみながら、疲れた足を休めることができたでしょう。

 伊勢参りに向かった、”やじさん”と”きたさん”も、宮宿から、一番船でこの桑名に渡ったということです。

 

 長い道中での船旅は、かつての旅人にとって、どのようなものだったのか。想像すると、何故か微笑ましくも感じます。

 

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※左、七里の渡し跡。右、揖斐川の流れ。写真の右2/3は、揖斐川長良川と合流します。

 宮宿へ

 かつての渡しも、今はその姿はありません。私たちは、陸路を迂回することで、一路宮宿を目指します。

 

*1:ウィキペディアによると、九華公園という名前の由来は、桑名城の通称である”扇城”からきているとのこと。中国の”九華扇”という扇との関連です。”九華”はまた、訓読みで”くはな”と読むことができるため、このように名付けられたとも記されています。

歩き旅のスケッチ[東海道]19・・・四日市宿から桑名宿へ(後編)

 桑名へ

 

 四日市市を過ぎた後、街道は、朝日町(あさひちょう)という小さな町を通り過ぎ、桑名市へと入ります。この辺り、鉄道は、JR関西本線近鉄名古屋線などが往来し、道路も、東名阪自動車道路や伊勢湾岸道路などが交差していて、交通の便は良好です。

 街道は、このような街中を、少しずつ表情を変えながら桑名の湊へと続きます。

 

 

 朝日町へ

 富田の一里塚跡を通り過ぎ、近鉄線の高架下を潜り抜けると、左手に工場の跡地のような大きな空き地がありました。その先はマンションなども見受けられ、この空き地、いずれはマンションかスーパーマーケットなどが建設される雰囲気です。

 街道は、少し真っ直ぐに進んだ後に右折して、三岐鉄道*1の踏切と、JR関西本線の高架の軌道を連続して横切ります。

 その先は、ひとつの集落を通り過ぎると、朝明川(あさけがわ)へと行き着きます。

 

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※左、先の高架がJR関西本線。手前の踏切が三岐鉄道。右、松寺辺りの集落。

 

 朝明川

 集落を抜けたところが朝明川。この川を渡る手前の右手には、ちょっとした公園がありました。公園の名前は、松寺いこいの広場。この松寺の集落が、四日市市の北の入口になるようです。

 広場には、ここにも”力石”が置かれていて、「江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店の主・・・が後世に残したもの」との案内がありました。この力石、下の写真の通りです。これで約100Kgもあるとは思えませんが、東海道を往来した旅人などが、石を持ち上げ、力試しに興じていたということです。

 

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※左、朝明川に架かる橋と伊勢湾岸自動車道の高架。中、広場の案内板。右、力石。

 朝日町

 朝明川を渡った先で、朝日町に入ります。川の左岸に沿うように、左右に延びる伊勢湾岸自動車道路の高架下を潜り抜け、農地が広がる街道を進みます。

 この辺り、道の両側には桜の木が植えられていて、並木道の様子です。春になると、さぞ美しい桜の花が咲き誇ることでしょう。

 この先、朝日町の幾つかの集落の中を進みます。道はそれほど広くなく、交通量もさほどではありません。町の中ほど辺りには、立派な門構えの寺院などもありました。

 

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※左、桜の並木道。右、朝日町の様子。

 

 東芝

 朝日町の集落を幾つか過ぎると、近鉄名古屋線の伊勢朝日駅前へ。この駅は、駅舎自体は小さいものの、たくさんの自転車が見受けられ、通勤通学の拠点のような感じです。

 そして、駅の向かいは東芝の工場です。東芝三重工場は、そこそこ大きな敷地の様子。朝日町にとっては地域産業の柱なのかも知れません。

 

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※左、伊勢朝日駅前。右、東芝三重工場。この道が東海道です。

 

 員弁川

 東芝の工場を過ぎたところで、近鉄の踏切を横切ります。その先は、再び住宅が並ぶ集落へ。途中には、住宅敷地の一角に、縄生の一里塚(なおのいちりづか)の石標が見えました。密かに佇む石標は何故か寂しく感じるものの、かつての街道の証としての、貴重な目印のひとつです。ひとつずつ、一里塚を越え、東への旅を進めます。

 やがて街道は少し大きな川の堤防に行き着きます。この川は、員弁川(いなべがわ)。おそらくは、鈴鹿山麓の”いなべ市”辺りを源流として流れ下っているのでしょう。

 

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※左、縄生(なお)の一里塚。右、員弁川堤防。

 員弁川は、国道1号線の橋で渡ります。橋の入口には、東海道に関する案内があり、ここにも街道の証を残しています。

 国道の橋を渡ると、いよいよ桑名市の領域です。

 

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※員弁川の様子。

 

 伊勢両宮常夜灯

 員弁川を渡り切ったところを左折して、旧道へと向かいます。国道の橋とその前後の道は、員弁川を渡るための現在のルートです。昔は、橋の少し上流が、川渡しの場所だったのだと思います。

 旧道に戻り着いたところには、道の角に大きな常夜灯がありました。この常夜灯、伊勢両宮常夜灯と呼ばれていて、奥深さを感じる姿です。伊勢路へと続く桑名の街道の象徴として、今日まで大切に保存されてきた様子が窺えます。

 下の写真をよく見ると、左端の東海道の道案内は「↕」という表示です。これは、かつての街道の本筋を表す案内です。写真の角を左に向かうと、その先が員弁川。元は、そこで川を往き来したのでしょう。今は、写真の手前からこの角にやってきて、ここを右折して桑名の宿場に向かいます。

 

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※伊勢両宮常夜灯。

 

 矢田立場

 街道は、この後真っ直ぐに北へ延び、JR関西本線近鉄名古屋線の益生駅方面に向かいます。

 益生駅の少し東で、道は少し変形した三差路に。東海道は、ここを直角に右折です。街道がこの三差路にぶつかる所の正面には、梯子状のモニュメントが建てられていて、興味をそそる一角です。この梯子、かつての火の見櫓を模したもの。

 この辺りは、矢田の立場と呼ばれていて、桑名宿の直前の休憩所だったということです。

 

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※左、桑名宿へ。右、矢田の立場と火の見櫓のモニュメント。

 

 私たちは、この先の行程を次の機会に残しながら、三差路を左に進んで、益生の駅へ。次回は、数週間後に、再びこの地に戻ります。

*1:三岐鉄道三岐線は、近鉄富田駅三重県いなべ市藤原町にある西藤原駅を結んでいる鉄道です。

歩き旅のスケッチ[東海道]18・・・四日市宿から桑名宿へ(前編)

 伊勢路の長丁場

 

 四日市の次の宿場は桑名宿。2つの宿場の間隔は、3里を越える長丁場です。かつては、桑名に着いたその先は、船の渡しが中心でした。船に乗れば、疲れた足を休めることができるため、長丁場であったとしても、旅人の心は弾んでいたかも知れません。

 四日市の宿場を出発し、東に向かう旅人たちは、伊勢路最後の街道に名残惜しさを感じつつ、東海の国々への思いを馳せて、先を急いだことでしょう。

 

 

 諏訪神社

 かつては四日市の宿場の一角で、今では、諏訪栄の商店街を抜け出たところの左手に、諏訪神社という立派な神社が佇みます。

 諏訪神社は、名前の通り、信州の諏訪湖のほとりに鎮座する諏訪大社にゆかりがある神社です。鎌倉時代(2002年)に築かれたと言われるこの神社。江戸期にあっては、四日市の宿場を訪ねた旅人たちが参詣し、随分と賑わったことでしょう。

 神社の入口付近には、安藤広重東海道53次の宿場絵が掲げられ、絵の下に、神社の簡単な由緒の記述がありました。 

 

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※左、諏訪神社の境内。右、神社の入口付近に掲げられている安藤広重の宿場絵。

 宿場の外れ

 諏訪神社を後にすると、街道は、四日市の市街地を南北に貫く国道1号線を横切ります。わずかの間、国道の歩道を北に歩いて、直ぐに国道の一筋東の路地に入ります。この路地が、旧道ということですが、今は区画割されたような道路です。

 街並みは、新しく造られた住宅地。ここが宿場町の東の外れであるとは、なかなか想像できません。それでも、ところどころに宿場を示す幟旗が風に揺れる光景や、「東海道四日市宿資料館」の看板が掲げられた小さな建物なども見受けられ、この道が街道筋であったことを再認識することになりました。

 

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※左、宿場の東外れ辺りの様子。右、三滝川に架かる橋への道。

 四日市宿を後に

 四日市の宿場の先で、三滝川を渡ります。橋の上から東を見ると、大きな煙突が幾つも見られ、コンビナートで有名な工業の街であることを、改めて気づくことができました。

 三滝川を越えた先も、同じような住宅地が続きます。やがて、もうひとつの川の堤防へ。この先は、川を越す橋がないために、国道1号線へと戻り、国道の橋を渡ります。そして、引き続き、1Kmほど国道を歩きます。

 

 実は、海蔵川(かいぞうがわ)と呼ばれるこの川を、国道に架かる橋で渡った後、街道は、少しだけ1号線の東に残る旧道に入ります。ところが、私たちは、この道へのルートを失念し、国道をそのまま進むことになりました。

 後々に資料を見ると、わずか数十メートルほどの区間の途中に、三ツ谷の一里塚跡があるとのこと。ここを逃してしまったことに、少し後悔を感じたものでした。

 

 街道は、すぐに国道と合流し、私たちが歩いた歩道に吸い込まれます。その先、この歩道を北東方向に歩き進んで、交差点で反対車線へと移ります。

 やがてガソリンスタンドが近づくと、歩道の際に小さな道標が見えました。完全に再整備された国道に残る石の道標。四日市方面と、もうひとつ、どこかの地名が彫られています。この小さな石標が、取り除かれず、保存されたいきさつはどのようなものだったのか。少し興味をそそられます。

 

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※左、三滝川。右、国道に残る道標。

 富田へ

 もう少し、国道を北東に向かって進みます。国道は、幹線道路の主役の座を自動車専用道路に取って代わられた存在ですが、さすがに国道1号線。交通量は半端ではありません。排気ガスにまとわれながら、ゆっくりと歩道を歩きます。

 先の道標から数百メートル進んだところで、街道は国道からそれ、国道の1本西の道へと変わります。

 

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※左、国道から左にそれます。中・右、その先の街道の様子。

 

 街道の道筋は、住宅や小規模の工場などが並びます。少し歩くと、松の木なども残っていて、かつては、松並木であった様子です。

 小さな川の堤防には常夜灯も見受けられ、往時の名残を感じます。

 街道は、県道の高架下を潜り抜け、富田(とみだ)方面へと向かいます。

 

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※左、常夜灯が見える街道。右、県道の高架。

 茂福

 県道の高架下を潜り抜けると、茂福(もちふく)という町に入ります。この辺りの街道は住宅地ではありますが、右に左に折れ曲がる道筋は、趣を感じます。

 街道の途中には、”茂福の力石”という大石が、モニュメントのように置かれていて、いい雰囲気の一角です。力石は、50番水口宿でも見かけましたが、ここの力石の起源は明治時代ということです。

 

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※左、茂福の街の様子。右、茂福の力石。

 富田

 街道は、その先で富田の町に入ります。富田は、四日市と桑名の中間地点。かつては、宿場間の休憩地、間の宿(あいのしゅく)として栄えたということです。今は、JR関西本線富田駅近鉄富田駅の2つの駅が肩を寄せ、住宅や商店などが密集します。

 街道は、富田の町中で左に折れて、2つの駅の真ん中をすり抜けるように北上です。

 

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※富田の町の様子。

 

 富田の一里塚

 住宅地を通り抜け、正面に、近鉄線の土盛りの軌道が現れた辺りの左手に、富田の一里塚を示す石標がありました。この石標、そこそこ大きく立派です。今は塚や榎などは見られませんが、その存在感を誇示しています。

 街道は、近鉄の高架下を潜り抜け、桑名の宿場へと向かいます。

 

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※富田の一里塚跡。

  

歩き旅のスケッチ[東海道]17・・・日永の追分から四日市宿へ

 追分

 

 追分(おいわけ)は、街道が分岐するところではありますが、裏を返すと、2つの街道が交わる場所でもあるのです。東海道と伊勢街道がひとつに交わる、四日市市の日永の追分。かつては、伊勢参りの旅人と東海道を往来する人馬などで、たいそう賑わっていたことでしょう。

 日永の追分と伊勢の間は18里半(約74Km)、京の都とは、25里(約100Km)という地点です。「東海道中膝栗毛」の”やじさん”と”きたさん”も、四日市の宿場を発って、この日永の追分に差し掛かり、ここの茶屋で餅をたらふく食べて、南に下る伊勢街道に向かったということです。

 

 

 日永の追分

 日永の追分のところには、今も立派な鳥居が建てられ、伊勢神宮に向かう入口の役目を果たしています。先に紹介した関宿では、伊勢別街道との追分があり、そこにも鳥居がありました。

 伊勢神宮から70Km以上も離れた場所に、鳥居が設けられているということは、何とも信じ難いことですが、それこそ信心の深さを表しているように感じます。ただ、日永の追分の鳥居は「二の鳥居」。「一の鳥居」は、まだこの先の、桑名の宿場にあるようです。

 

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※日永の追分と二の鳥居。

 

 日永へ

 日永の追分を後にして、わずかに国道1号線の歩道を進むと、国道を横断する歩道橋の交差点が現れます。この交差点から左手にそれる道が東海道。ここから再び旧道を歩きます。

 この先は、道幅がやや広くなっていているところもあって、住宅地のような地域です。街道の香りは感じませんが、ところどころに見られる松の木は、それだけで、風情を感じてしまいます。

 

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※左、四日市市泊の歩道橋。左にそれる道が東海道。右、旧道の様子。

 日永の一里塚

 道幅がやや狭くなり、木造の住宅が立ち並ぶ景色の中を進んで行くと、やがて、日永の一里塚跡の石碑が現れました。住宅に挟まれた、僅かな空間に建つこの石碑。そこそこの年代を感じるような史跡です。

 石碑の傍には、四日市市教育委員会による説明板が掲げられ、この位置が、江戸から100里の地点であると記しています。東海道の延長が124里余りとされているため、江戸までは、まだ4/5の行程が残されているということです。

 この一里塚、元は、5間四方で高さが2.5間の塚があったと書かれています。明治2年に壊されて、その位置が分からなくなった時期もあったとのこと。歴史遺産も、後世の人々に受け継がれることが叶わなければ、いとも簡単に消え失せてしまうものなのかも知れません。

 

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※左、一里塚の石碑。右、一里塚の解説。

 この先の街道は、道幅が狭いわりには交通量が頻繁です。道路の右端に沿うように、注意しながら歩きます。道路が坂道へと変わった先には河川が流れ、橋を渡ると、今度は坂道を下ります。

 この辺り、川は天井川のようになっていて、住宅地は川よりも低い位置。昔から、洪水などに悩まされることはなかったのか、憂いを感じてしまいます。

 

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天井川を通過する東海道

 

 この辺り、街道の左側の少し離れたところには、四日市あすなろう鉄道が走ります。交差点のところどころで、左方向を確認すると、鉄道の軌道や駅が確認できて、街道と並行して延びている鉄道の存在がわかります。

 やがて、あすなろう鉄道の日永の駅を通過して、幾つかの小さな川を越えていき、赤堀駅へと進んで行くと、街並みは、次第に近代的な雰囲気に変わります。

 

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※左、日永駅近くの街道。右、四日市市街地に近づきます。

 

 諏訪栄の商店街

 街の様子が変わってくると、ところどころに東海道四日市宿と記された、緑色の幟旗が目に入ります。いよいよ、四日市宿の入口のようですが、宿場町の名残をそれほど感じるところはありません。

 ゆるやかに曲線を描く街道と、かすかに残る木造家屋が、僅かに往時を偲ばせます。

 

 やがて、街道は、大通りに差し掛かり、正面には諏訪栄商店街のアーケードが見えました。この大通り。中央通りと呼ばれていて、左手すぐのところに、四日市あすなろう鉄道近鉄四日市駅が位置しています。

 

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※左、先に中央通り、その先に商店街が見えてきます。右、商店街。

 

 中央通りを渡った後、諏訪栄商店街の中に入ります。かつての宿場町が、アーケードの商店街になっているところは、これまでは、見たことがなかったような気がします。東海道の板橋も規模の大きな商店街ではありますが、さすがにアーケードまではいきません。四日市の宿場町。街道筋では、少しユニークなところです。

 

 大入道

 アーケード街の一角で、大きなゆるキャラもどきのからくり人形が目を引きました。音楽に合わせて長い首が伸び縮み。子どもに人気というよりも、怖がってしまうような仕掛けです。この人形は、大入道と呼ばれていて、地元の方に愛されている存在だということです。

 妖怪のような、あるいはまた、伝説の主人公のような大入道。その昔、狸を追い払うために考案された人形で、四日市では知らない人がいないほどの人気者。

 大入道の足元には、一転して、可愛らしいアニメ風の入道のキャラクターが張り付けられて、こちらの方が、愛嬌があるようにも見えました。

  

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※左、大入道のからくり人形。右、商店街の様子。

 商店街を通り抜けても、まだしばらく、四日市の宿場町は続きます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]16・・・日永の追分へ

 四日市

 

 石薬師の宿場を過ぎると、まもなく四日市市に入ります。鈴鹿峠を越えた後、鈴鹿川の流れと共に歩きつないだ街道も、この辺りで鈴鹿川とはお別れです。これまでの、のどかな農地や落ち着いた集落の先には、伊勢湾沿いの工業の街が近づきます。

 

 

 石薬師宿

 佐佐木信綱資料館を過ぎた後、街道は、石薬師宿の後半に入ります。ただ、宿場町の風景は、これまでの町の様子とさほど変わったところはありません。宿場町の面影は、それほど残っていない道筋です。

 やがて、下り坂に差し掛かると、遠方には、眼下に街並みが見渡せます。そう言えば、宿場町の前半はそこそこ急な上り坂。坂を上って、平らな区間を通り過ぎ、最後には下り坂という地形です。このように、石薬師の宿場町は、ひとつの丘のようなところに連なっているのです。

 

 坂道を下りながら、左方向に向かう曲線を進んで行くと、その先で国道1号線と合流します。石薬師の宿場はこの辺りまで。次に目指すは、四日市の宿場です。

 

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※石薬師宿の後半。坂道を下って国道に向かいます。

 四日市市

 国道と合流した街道は、200mほど左側の歩道を進んだ先で、反対車線の右脇に延びる旧道に向かいます。この時、国道を渡る必要がありますが、ここは地下道の利用です。

 地下道を出たところで、国道右手の坂道へ。その後東海道は、国道とはほぼ並行に、一段高い丘の上を進みます。

 

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※左、木田町大谷交差点。ここを地下道で渡り、中央に見える細い坂道に入ります。

 

 丘の上の街道は、集落を抜けると再び国道と合流します。この、合流地点の辺りが鈴鹿市四日市市の境界です。街道は、国道に吸収されて、四日市市の領域へと入ります。

 この先、国道の右側の歩道に沿って、およそ1Kmの行程をひたすら歩き続けます。国道沿いには、運輸会社や倉庫など、殺風景な風景が連なります。ところどころに食堂やガソリンスタンドなど、沿道サービスの店もあり、交通量も頻繁です。

 

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※国道の様子。

 

 釆女町

 途中、采女(うねめ)食堂という、珍しい名の食堂がありました。不思議に感じて、東海道の地図を広げてみたところ、この辺りは四日市市釆女町(うねめちょう)と呼ぶようです。采女(うねめ)とは、宮中に関わる名称で、皇室の仕事をする女官です。調べてみると、その昔、四日市市の釆女あたりから、女官の登用が頻繁にあったということです。地名も、そこから由来しているのかも知れません。

 地図には、采女の一里塚跡があるとされていて、注意しながら歩いたものの、史跡を示す石標は反対車線。私たちは、一里塚を確認できずに終えました。

 

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※釆女町で再び街道は右上方の旧道に。

 杖衝坂へ

 国道は、少しずつ標高を上げてきて、やがて下り坂に差し掛かる辺りで、右側に旧道が現れます。この旧道、下り始める国道とは反対で、さらに上りが続きます。

 坂道には、東海道の案内看板が掲げられ、采女から小古曽(おごそ)、日永(ひなが)と、主な中継点までの道案内がありました。

 坂道を上り進むと、遠方には四日市の街並みが見渡せます。

 

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※左、道案内には、左から、”采女””小古曽””日永””四日市”が記されています。右、旧道の坂道。

 

 この先、街道は、集落の中を通って急な下り坂へと変わります。この下り坂。杖衝坂(つえつきざか)と呼ぶようで、そこそこの急坂です。

 名前の由来は、日本武尊の故事から来ているということですが、その真意は分かりません。

 

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※左、旧道の集落。右、杖衝坂。途中には、芭蕉の歌碑もあります。

 小古曽へ

 杖衝坂を下り切ったら、少し感じの良い街道風景が現れます。そして、道は、右に左に折れながら住宅地をすり抜けて、国道へ。その先は、内部川という川を渡って、小古曽の町へと入ります。

 

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※左、写真左端の国道の橋の下を潜り抜け、内部川に架かる国道の橋へ。右、内部川。

 内部川を渡った先の堤防を左に折れて、すぐその先で堤防を下り、街中に入ります。この辺りの街道は、既に開発された住宅地。昔の道の面影はありません。

 小古曽三丁目の信号は、東海道と県道との交差点。県道を渡って、道なりに進みます。

 この交差点の近くには、四日市市内を走る「四日市あすなろう鉄道」の終点である、内部駅がありました。この先、街道は、概ねあすなろう鉄道に沿うように、四日市宿へと向かいます。

 

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※左、小古曽の町。右、小古曽三丁目交差点。

 日永の追分

 東海道は、相変わらず住宅地の中を進みます。途中では、少しだけ集落のような道筋になりますが、辺りの景色は、全体として市街地に変容します。

 やがて追分駅が近づくと、あすなろう鉄道の踏切を渡って日永の追分(ひえいのおいわけ)方面へ。

 

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※追分駅近く。右奥の踏切を渡ります。

 

 踏切を越え、少し進んだその先で、街道は国道1号線に入ります。東海道と国道とが、鋭角状に交わる場所が、日永の追分と呼ばれるところです。

 三角地には、鳥居や常夜灯、石碑などが厳かに配置され、東海道と伊勢街道が分かれ交わる、重要な分岐点であったことが窺えます。

 

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※日永の追分。交差点の手前から左手向うが東海道。信号を鋭角に右に曲がると伊勢街道。

 石薬師の宿場を発って、日永の追分に至るまで、その距離はおよそ6Kmです。四日市までは残すところ5Kmの行程。

 日永の追分辺りが、2つの宿場の中間地点ということです。

歩き旅のスケッチ[東海道]15・・・庄野宿から石薬師宿へ

 鈴鹿市の2宿

 

 庄野宿とそれに続く石薬師宿は、伊勢の国、鈴鹿市にある宿場です。いずれの宿場も、国道1号線のすぐ傍にあるために、機会があれば、気軽に立ち寄ることが可能です。

 かつては賑わっていたであろう2つの宿場。今はひっそりと佇む感じの町並みですが、それぞれが歴史を受け継ぎ、存在感を保っています。

 

 

 庄野宿

 国道1号線と県道が交わる鈴鹿市の汲川原町交差点。この交差点を複雑なルートですり抜けた後、国道の脇道である街道に戻って、その先を真っ直ぐに進みます。

 やがて、集落が現れると、そこには庄野宿を示す石標がありました。亀山宿からおよそ8Km。鈴鹿川の北に広がる平地を横切り、静かな集落の町並みに入ります。

 

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※左、庄野宿の西の入口。右、庄野宿。

 庄野の宿場は、もう随分と家屋の建て替えが進んでいます。宿場町の面影はほとんど感じるところはありません。元々、それほど大きな宿場ではなかったようで、町並みの延長も1Kmには及ばないと思います。

 

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※庄野宿の様子。

 それでも、宿場町の中ほどには、旧小林家の建物が復元され、宿場の歴史を伝えています。また、この建物は資料館として公開されているようですが、私たちは中には入らず、足を先へと進めます。

 

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※旧小林家住宅。

 

 加佐登駅へ

 庄野宿の東のはずれの交差点*1。ここを道なりに、真っ直ぐ進む道が街道のようにも見えますが、実際は右折して、突き当りにある国道1号線と合流します。

 この先、およそ1.5Kmの間は国道の歩道歩き。単調な景色が続きます。

 

 私たちの行程は、この日の朝、JR関西本線の関駅に降り立って、関宿から亀山の宿場を越えて庄野宿へ。そして、次の石薬師宿へと向かう途中で終了です。

 庄野宿を出た後に国道1号線を少し進んで、東海道から外れます。左手の土手道の階段を下った後、集落内を少し戻ったところにある、加佐登駅が目的地。

 

 この加佐登駅。小さな駅ではありますが、駅前辺りの風景は、街道の続きのような面持ちです。もしかすると、本来の東海道は、庄野宿の東の外れを直進し、この加佐登駅に至る道が本筋なのかも知れません。

 

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※庄野宿を出て、国道1号線と合流します。写真の右側は鈴鹿川

 

 石薬師宿へ

 次の日の朝、再び加佐登駅に降り立って、次の宿場、石薬師宿(いしやくしじゅく)へと向かいます。

 まずは、国道1号線へ。そして1Kmほど、ガソリンスタンドや倉庫などが点在する殺風景な道筋を歩きます。

 

 街道は、国道の途中で左にそれて、農道のような旧道に入ります。その後、小さな川を渡ったところで右折して、国道1号線の堤の下のトンネルへ。そのトンネルを抜けると、左折です。その先は、野道のような細い道。道なりに、右に左に折れ進み、JR関西本線の軌道下をくぐります。

 道が少し上り坂になったと思うと、正面に大きな木と常夜灯などが見えました。

 

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※左、国道からそれて旧道を歩きます。右、JR関西本線をくぐった先の風景。

 石薬師の一里塚

 坂道は、小さな川の土手へと続き、上り着いたところは石薬師の一里塚。先ほど認めた大木や常夜灯は、一里塚の目印という訳です。

 一里塚のところには、金属製の案内板が掲げられ、そこには、一里塚の解説がありました。ただ、その案内板。鈴鹿市教育委員会のものではなく、「石薬師魅力再発見委員会」の作成ということです。そして、案内板の下側には、”信綱かるた道”という表示もありました。それが何を意味するのかは、この後に明らかになるのですが、地元の方の熱意を感じる石薬師宿の入口でした。

 

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※石薬師の一里塚。左手の橋を越えると、宿場町に入ります。

 

 石薬師宿

 一里塚のところに架かる橋を渡ると、その先が石薬師の宿場です。庄野宿から約3Km。この辺り、東海道が西から東に向かう中、進路を一旦北へと変えるところで、宿場町は南北に連なります。

 宿場の中の街道は、やや勾配のある上り道、暫くは上り坂を進みます。宿場内の風景は、取り立てて特徴があるところではありません。普通の住宅が続くだけの街道です。

 それでも、ところどころに”信綱かるた道”の案内と、いろはカルタの調子よい詩の掲示板が掲げられ、”信綱”が、地域で大切にされている様子が窺えます。

 

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※石薬師宿の様子。

 

 街道を進んで行くと、左手に石薬師寺という寺院です。石薬師という地名と同じ名前のこの寺は、この土地の名前の由来になっているのかも知れません。

 坂道に沿って境内が広がり、石垣と生け垣が厳かです。石薬師の宿場町で、この辺りが、唯一街道の面影が残るところです。

 

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※石薬師寺

 

 佐佐木信綱

 石薬師寺を過ぎた後、街道は左に大きく曲がり、国道1号線の上をまたぐ小さな陸橋を渡ります。国道を走る車両を見下ろし先に進むと、集落は右手方向に、さらに北へと続きます。相変わらず、家並みはごく普通の景色です。しかもまだ、”信綱かるた道”も続きます。

 

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※石薬師宿の様子。

 

 やがて、県道との交差点を通り過ぎると、左手に、小さな記念館が見えました。「佐佐木信綱資料館」と記された建物は、その名の通り、明治から昭和にかけて活躍された歌人佐佐木信綱に関わる資料館。

 この方は、石薬師の出身ということで、地元の誇りとして、その名と作品をカルタにして、宿場町の各所に掲げられていたのです。

 

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佐佐木信綱資料館。

 

 佐佐木信綱という歌人。日本史か国語の教科書でしかその名に触れた記憶はありません。それでも、資料館の前に掲示されている案内を見て、何となく、懐かしく、彼の人の代表歌を思い出したものでした。

 

    卯(う)の花の   匂う垣根に   

    時鳥(ほととぎす)   早も来鳴きて

    忍音(しのびね)もらす   夏は来ぬ

 

 街道は、石薬師の宿場から、都市化が進む四日市へと向かいます。

*1:東のはずれではありますが、交差点の名称は”庄野西交差点”となっています。

歩き旅のスケッチ[東海道]14・・・亀山宿から庄野宿へ

 鈴鹿市

 

 亀山市の東隣は鈴鹿市です。鈴鹿峠を越えた後、48番坂下宿から関宿へ、そして、亀山宿までが亀山市。続く、45番庄野宿とその先の石薬師宿の2つの宿場が鈴鹿市です。

 鈴鹿市の中心部は、伊勢湾へと流れを運ぶ鈴鹿川の南側。一方の、東海道鈴鹿川の北側を通ります。市街地から少し離れた空気の中で、のどかな農地や集落の景色を楽しみながら街道歩きを続けます。

 

 

 亀山宿

 左手先の亀山城跡を眺めながら県道の交差点を渡ります。道なりに続く街道は上り坂。道幅は狭く、屈曲を繰り返しながら街中を進みます。坂道と屈曲が重なる街道筋は、それだけで絵になる光景です。

 やがて街道は、商店街の交差点につながって、そこを右折し、商店街を下ります。この辺りも、かつては宿場町だったはずですが、街並みは整備され、宿場の面影はありません。

 

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※左、亀山宿の様子。右、商店街と化した宿場町。

 

 江戸口門跡

 商店街を数百メートル歩いたところで、街道は左方向の脇道へ。この左折する角のところに、かつて江戸口門という城門があったということです。この城門、亀山城下の東門の位置づけで、江戸方面への城門です。江戸口門という名称も、そこから名付けられたのだと思います。

 そう言えば、亀山宿の西のはずれは、京口門と呼ばれる城門跡。京と江戸を意識した、城下町の思いが伝わるような名称です。 

 

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※江戸口門跡の表示板が掲げられた角地。左端の道が庄野へと続く街道。

 

 和田の一里塚

 江戸口門跡の角を左折して旧道に入ると、しばらく旧市街地の住宅地を歩きます。ほぼ真っ直ぐに延びるこの道は、やや退屈な風景ですが、私たちは一路東に向かいます。

 やがて市街地を通り過ぎると、少し視界が開けます。そして、その先には和田の一里塚。この一里塚も、野村の一里塚と同様に、立派な姿を残しています。

 

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※左、和田の一里塚。右、和田交差点。街道は、この交差点へは向かわずに、写真左側のさらに左に続く旧道を進みます。

 井田川

 一里塚を後にして、和田の集落へと入ります。集落の途中には、県道の和田交差点が右手に見えて、その手前には、東海道の案内標識がありました。街道は、交差点へは向かわずに、道なりに湾曲して北の方角へと進みます。

  集落内の道を抜けると、国道1号線の高架下をすり抜けて、椋川へ。そして、井田川の町に入ります。街道が、東方面に大きく方向を変えた辺りには、再び国道1号線。東海道は歩道橋で国道と直角に交差して、JR関西本線井田川駅へと向かいます。

 

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※左、椋川の橋。右、右がJR井田川駅。

 井田川駅は小さな駅ではありますが、周辺は新興住宅地が広がっている様子です。駅前広場や駐輪場などが新しく整備され、少し活気も感じます。

 一方で、道沿いの修景された植栽や街道の案内は、新しくても趣があり、道行くものの目を引き付けます。

 

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井田川駅前の様子。

 

 鈴鹿市の入口
 井田川駅から先の道は、昔ながらの街道筋。細い集落内の道を進むと、その先で、街道は大きく右に弧を描きます。この、弧を描く辺りが、亀山市鈴鹿市の境です。

 街道は、いよいよ鈴鹿市の領域に入ります。そして、JR関西本線の踏切を渡った後、道は二股に分かれることに。

 この分岐の所には、地福寺の大きな看板がありました。東海道は、地福寺の方向で、分岐を左に進みます。緩やかな坂道を進んで行くと、途中、左手の一段上方に地福寺の境内が見えました。整然とした美しい境内を見て、真っ直ぐに集落内の坂道を進みます。

 ほどなく、集落が途切れると、そこは安楽川の堤防です。安楽川は鈴鹿川の支流のひとつ。この先で鈴鹿川へと注ぎます。

  

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※左、地福寺の看板。東海道は左の道。右、安楽川の右岸堤防。

 安楽川

 安楽川は鈴鹿山系を源流としているようですが、それほど延長の長い川ではありません。それでも、街道が通る辺りでは、そこそこの川幅です。

 伊勢の国の大河である鈴鹿川東海道はその上流で何度か川を越えますが、中流以降、川幅が広がると、街道は一貫して鈴鹿川の北側を通ります。

 ただ、安楽川の渡りは避けることができません。富田の集落へと進む手前で、川の渡りが待ち受けます。

 

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※安楽川。

 富田の集落

 安楽川を渡ると、街道は、すぐに富田の集落に入ります。細長く伸びる道筋をひたすら東へと進みます。

 途中には、中富田の一里塚や幾つかの史跡を案内する標識などがありました。この辺り、鈴鹿川の北に広がる平地状の地形です。かつては、自然の河原のようなところだったのかも知れません。

 

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※中富田の一里塚跡とその案内板。

 

 庄野宿へ

 富田の集落を過ぎた後、もうひとつの集落を通り抜けると、国道1号線と県道との自動車道路の交差点に差し掛かります。

 この交差点、歩いて渡る場合は、道案内に忠実に従って、迂回道を進まなければなりません。このことを怠ると、恐らく危険な状況に陥るか、さらに遠回りをしなければならない羽目になるでしょう。

 とにかく、注意を要する地点です。しっかりと歩く道を確かめて、県道下のトンネルや、国道の高架下をジグザグに辿って、交差点の向うにある、街道の続きの道へと向かいます。

 

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※国道と県道の交差点を歩いて越える案内標識。

 

 かつての東海道を分断するように設けられた自動車道。この近代の構造物を貫けるため、複雑な歩道を辿りつつ、再び東海道に戻って来たら、庄野宿はもう目の前です。

歩き旅のスケッチ[東海道]13・・・関宿から亀山宿へ

 伊勢路

 

 東海道は、鈴鹿の難所を越えた後、伊勢の国の北側を通って尾張へと向かいます。伊勢と言えば伊勢神宮。何となく、厳かであり華やかな響きもありますが、国の北部は、静かで落ち着いたところです。

 左手に鈴鹿の山並みを望みつつ、右手には川幅が広がった鈴鹿川を眺めながら、亀山市へ、鈴鹿市へと足を運びます。

 

 

 関をあとに

 関宿は、伊勢別街道と分岐する東の追分辺りまで。それでも、その先は、まだ少しだけ家並みが続きます。やがて集落が途切れて、国道と合流する手前には、右手に三角地の小さな緑地です。街道は間もなく国道の歩道と合流し、少しだけ国道を歩きます。

 ほどなく、前方に歩道橋が現れると、そこを渡って右方向へ。ここで、国道から旧道へと入ります。すぐに関西本線の踏切があり、そこを渡ると鈴鹿川は目の前です。

 

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 ※国道との合流点へ。

 

 鈴鹿川

 旧道の道幅はそれほど狭くはありません。それでも、のどかな畑地の中。堤防のように、一段高くなった道を進みます。

 やがて、街道は鈴鹿川の堤防道に。川伝いに延びるこの道を、川の流れに合わせるように東へと進みます。 

  途中、東名阪自動車道路の高架下に差し掛かると、橋脚を利用して、幾つかの宿場絵が掲げられてありました。恐らく、安藤広重の作品で、48番坂下宿から45番庄野宿までの4か所の絵だったと思います。

 殺風景な高架下に掲げられたこれらの宿場絵。ここがかつての街道であったことを伝えてくれる、粋なはからいに感謝です。

 

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※左、右に鈴鹿川を見て延びる堤防道の街道。右、高速道路高架下の宿場絵。

 

 太岡寺畷

 高架下を潜り抜けても、あとしばらく、鈴鹿川堤防の道は続きます。この堤防道。地元では、”太岡寺畷(たいこうじなわて)”と呼ばれているようで、街道の途中には、この名を示す標識などがありました。

 ”畷(なわて)”は、”縄手”とも書くそうです。辞書で調べてみたところ、「あぜ道、なわて道、まっすぐな長い道、縄の筋」ということです。つまり、縄のように真っ直ぐと延びた道筋を表しているのでしょう。

 そんな畷の表現にぴったりな堤防道。のどかな空気が心地よく、私たちの五感を取り巻きます。

 

 街道は、徐々に堤防から遠ざかり、今度は集落へと向かいます。高架になった道路を上ると、その下には、JR関西本線と県道が見えました。高架の道路で2つの幹線を横切って、集落へと入ります。

 

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※左、堤防道から集落へと切り替わる街道。右、太岡寺畷を記す標識。

 

 高台へ

 集落の入口辺りは、ゆるやかな上り道。歩き進むと、少しずつ、高台のような地形に変わります。鈴鹿川の北に広がる台地上の開けた場所は、あるいは、鈴鹿川河岸段丘なのかも知れません。

 街道は、大きく曲線を描きながら東へと向かいます。やがて、真っ直ぐな、幅の広い道路になると、民家なども途切れがち。視界はさらに広がります。

 この直線道。よく見ると、はるか前方にそびえ立つ大木が目に止まります。

 

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※左、集落内を大きく屈曲する街道。右、野村の集落の様子。中央に野村の一里塚が。

 野村一里塚

 そびえ立つ大木は、野村の一里塚に植えられた椋(むくのき)です。普通、一里塚は榎(えのき)が定番。なぜここは椋なのかは分かりませんが、樹齢が数百年もありそうな立派な古木は、一里塚の塚とともに良く保存されていて、懐かしさを感じる風景でした。

 

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※野村の一里塚。

 

 亀山宿へ

 野村の一里塚を通り過ぎると、再び集落に入ります。そして、この集落を越えてしまえば、いよいよ亀山の宿場に到着です。関宿から亀山宿までおよそ6Km。平均的な宿場の間隔と言っても良いでしょう。

 亀山宿の入口辺りは、わずかに格子戸の古い家が見られるものの、全体として、宿場の面影はありません。どちらかと言えば、雑然とした家並みが続いているという感じです。

 

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※左、野村の集落。右、亀山宿の入口辺り。

 

 亀山城

 亀山宿の途中には、県道が宿場町を分断するように横切ります。この県道との交差点は、街道より少し低い位置。階段を下りて、交差点に向かいます。

 街道は、県道を渡って真っ直ぐの方向です。一方、交差点を右折して坂を下ると、JR関西本線亀山駅。反対に左折して坂を上ると亀山城跡へとつながります。

 

 亀山は、亀山城を擁する城下町。50番水口宿がそうであったと同様に、城下町と宿場町の2つの顔を持つ街です。亀山城は、今は、天守は残っていないようですが、東海道と県道の交差点から左を望むと、わずかに、石垣と矢倉のような白壁の建物が見えました。

 城跡の付近には、幾つかの史跡や城下町の名残などもあるようです。ただ、今回は寄り道はせず、真っ直ぐに街道を進みます。

 

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※宿場の途中。県道が左右に走り、宿場町を分断しています。奥に続く道が東海道。左端には、亀山城の石垣と矢倉が望めます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]12・・・関宿

 東海道の宿場町

 

 関宿は、東海道の中では随一と言っても過言でないほど、往時の姿を良く残している宿場です。この町は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、宿場町を味わうために、多くの観光客が訪れます。

 私のブログ、「歩き旅のスケッチ[中山道総集編]3」の中でも触れたように、関の宿場は、中山道妻籠宿や奈良井宿と肩を並べる、我が国の宿場町の代表です。

 

 宿場町へ

 西の追分のところから、国道を左にそれて旧道に入ります。国道と分岐したところの三角地のスペースは小公園のようになっていて、関宿を紹介する案内板などがありました。

 少しの間、上り坂の街道を進んで行くと、やがて道は平たんになり、その先から木造の軒が連なる宿場町に入ります。この辺りは住宅地でありながら、古くからの建物や板塀などが良く残っていて、宿場の雰囲気が漂います。

 ところどころに、新しく建て替えられた住宅が見られるものの、全体として、往時の町並みが良く残った道筋です。

 

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※左、宿場町の西辺り(新所の家並)。右、地蔵院前の街道。

 

 関宿

 関宿の西半分は新所と呼ばれるところです。その家並みを通り過ぎると、少し開けた空間が現れて、三差路や地蔵院の境内に行き着きます。

 関宿の中心はこの辺りから。宿場の面影満載の町並みが広がります。

 

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※左、地蔵院。右、宿場町の様子。

 

 地蔵院の付近からは、飲食店や土産物店などが目立ちます。会津屋という食堂は、かつての旅籠の跡らしく、由緒ある店構えに魅かれるものを感じます。この辺り、休日には、大変賑わうことでしょう。

 この先の街道筋には、休憩所や資料館なども点在し、町並みはタイムスリップしたような情景です。

 

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※左、休憩所の中にあった宿場町の案内。右、高札場とその向こうが関の郵便局入口。

 

 鈴鹿の関所

 関宿は、その昔、”鈴鹿の関”があったとされるところです。東国から奈良や京都の都を守るため、この地に関所を設けることで、守りを固めていたのでしょう。関という名前の由来は、ここから来ているということです。

 今では、平坦地に近いこの位置に関所があったということは、俄かに信じられないことですが、かつては、北に山が迫り、南には鈴鹿川が流れるという狭隘な土地だったのかも知れません。

 

 東へ

 江戸時代の宿場町の様子を楽しみながら、一路東へと 進みます。途中、町の中央部にある交差点に差し掛かると、より一層、街道の町並みが重みを増してくるように感じます。

 この交差点、右に折れて200mほど先のところが国道1号線。さらにその先がJR関西本線の関駅です。国道は、西の追分を過ぎた後、街道の右側を大回りするように、関駅前へと向かうのです。

 

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※左、宿場町の中央部。右、東に向かう街道。

 

 宿場内をさらに東へと向かいます。街道は、やや下り坂になりながら、宿場の風景を保ったままで集落外れへと近づきます。

 関宿の東の外れ辺りは、さすがに町並みは変化して、老朽化した建物も目に止まります。それでも、ここまで宿場町が保全され、往時の様子を伝えてくれるところは、東海道では関宿しかありません。貴重な国の財産と言っても良いでしょう。

 

 東の追分

 宿場町の東の端は、東の追分の辺りです。ここには、関の一里塚跡と、追分の灯籠などがありました。

 東の追分は、東海道と伊勢別街道との分かれ道。追分を右に折れると、伊勢へと続く街道に入ります。伊勢別街道と称される街道の入口には鳥居がかかり、まさに、伊勢神宮への入口のような情景です。

 

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※東の追分。

 

 伊勢別街道

 伊勢別街道は、東の追分から南に向かい、津市の江戸橋で伊勢街道と合流します。一方、伊勢街道は、後に紹介することになりますが、44番石薬師宿と43番四日市宿の間にある、日永(ひなが)の追分で東海道と分かれた後、南へと向かいます。そして、伊勢別街道と江戸橋で出合うことになるのです。

 江戸から伊勢参りに向かった”やじさん・きたさん”。この2人は、日永の追分から伊勢街道に入って伊勢神宮を目指します。かたや、京の都を発った斎王の群行は、鈴鹿峠を越えた後、関宿の東の追分から伊勢別街道に入ります。その後、この街道を南下して、津の江戸橋で伊勢街道へ。そして、そこからさらに南下して、松坂と伊勢の中間にある斎宮(いつきのみや)に向かったのだと思います。

 

 斎宮

 斎宮(いつきのみや)は、伊勢神宮天照大神に仕える斎王の宮殿があった施設です。斎王は、そこで住まいし、祈りを捧げながら、年数回の祭事の時に伊勢神宮を訪れて祭祀をあげたとされています。

 この斎宮。今でも、三重県明和町というところの、近鉄山田線斎宮駅のすぐ東側にその遺跡が残っています。斎宮跡は、結構な広さの敷地を有し、「いつきの宮歴史体験館」や斎宮跡の模型などが整備され、かつての様子を窺い知ることができました。(この斎宮には、別の機会に訪ねたのですが、不思議なロマンに浸ることができました。)

 

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※左、いつきの宮歴史体験館。右、斎宮跡。(いずれも三重県明和町

 

 亀山宿へ

 東の追分を後にして、次は城下町でもある亀山の宿場へと向かいます。