桑名へ
四日市市を過ぎた後、街道は、朝日町(あさひちょう)という小さな町を通り過ぎ、桑名市へと入ります。この辺り、鉄道は、JR関西本線と近鉄名古屋線などが往来し、道路も、東名阪自動車道路や伊勢湾岸道路などが交差していて、交通の便は良好です。
街道は、このような街中を、少しずつ表情を変えながら桑名の湊へと続きます。
朝日町へ
富田の一里塚跡を通り過ぎ、近鉄線の高架下を潜り抜けると、左手に工場の跡地のような大きな空き地がありました。その先はマンションなども見受けられ、この空き地、いずれはマンションかスーパーマーケットなどが建設される雰囲気です。
街道は、少し真っ直ぐに進んだ後に右折して、三岐鉄道*1の踏切と、JR関西本線の高架の軌道を連続して横切ります。
その先は、ひとつの集落を通り過ぎると、朝明川(あさけがわ)へと行き着きます。
※左、先の高架がJR関西本線。手前の踏切が三岐鉄道。右、松寺辺りの集落。
朝明川
集落を抜けたところが朝明川。この川を渡る手前の右手には、ちょっとした公園がありました。公園の名前は、松寺いこいの広場。この松寺の集落が、四日市市の北の入口になるようです。
広場には、ここにも”力石”が置かれていて、「江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶店の主・・・が後世に残したもの」との案内がありました。この力石、下の写真の通りです。これで約100Kgもあるとは思えませんが、東海道を往来した旅人などが、石を持ち上げ、力試しに興じていたということです。
※左、朝明川に架かる橋と伊勢湾岸自動車道の高架。中、広場の案内板。右、力石。
朝日町
朝明川を渡った先で、朝日町に入ります。川の左岸に沿うように、左右に延びる伊勢湾岸自動車道路の高架下を潜り抜け、農地が広がる街道を進みます。
この辺り、道の両側には桜の木が植えられていて、並木道の様子です。春になると、さぞ美しい桜の花が咲き誇ることでしょう。
この先、朝日町の幾つかの集落の中を進みます。道はそれほど広くなく、交通量もさほどではありません。町の中ほど辺りには、立派な門構えの寺院などもありました。
※左、桜の並木道。右、朝日町の様子。
朝日町の集落を幾つか過ぎると、近鉄名古屋線の伊勢朝日駅前へ。この駅は、駅舎自体は小さいものの、たくさんの自転車が見受けられ、通勤通学の拠点のような感じです。
そして、駅の向かいは東芝の工場です。東芝三重工場は、そこそこ大きな敷地の様子。朝日町にとっては地域産業の柱なのかも知れません。
員弁川
東芝の工場を過ぎたところで、近鉄の踏切を横切ります。その先は、再び住宅が並ぶ集落へ。途中には、住宅敷地の一角に、縄生の一里塚(なおのいちりづか)の石標が見えました。密かに佇む石標は何故か寂しく感じるものの、かつての街道の証としての、貴重な目印のひとつです。ひとつずつ、一里塚を越え、東への旅を進めます。
やがて街道は少し大きな川の堤防に行き着きます。この川は、員弁川(いなべがわ)。おそらくは、鈴鹿山麓の”いなべ市”辺りを源流として流れ下っているのでしょう。
※左、縄生(なお)の一里塚。右、員弁川堤防。
員弁川は、国道1号線の橋で渡ります。橋の入口には、東海道に関する案内があり、ここにも街道の証を残しています。
国道の橋を渡ると、いよいよ桑名市の領域です。
※員弁川の様子。
伊勢両宮常夜灯
員弁川を渡り切ったところを左折して、旧道へと向かいます。国道の橋とその前後の道は、員弁川を渡るための現在のルートです。昔は、橋の少し上流が、川渡しの場所だったのだと思います。
旧道に戻り着いたところには、道の角に大きな常夜灯がありました。この常夜灯、伊勢両宮常夜灯と呼ばれていて、奥深さを感じる姿です。伊勢路へと続く桑名の街道の象徴として、今日まで大切に保存されてきた様子が窺えます。
下の写真をよく見ると、左端の東海道の道案内は「↕」という表示です。これは、かつての街道の本筋を表す案内です。写真の角を左に向かうと、その先が員弁川。元は、そこで川を往き来したのでしょう。今は、写真の手前からこの角にやってきて、ここを右折して桑名の宿場に向かいます。
※伊勢両宮常夜灯。
矢田立場
街道は、この後真っ直ぐに北へ延び、JR関西本線と近鉄名古屋線の益生駅方面に向かいます。
益生駅の少し東で、道は少し変形した三差路に。東海道は、ここを直角に右折です。街道がこの三差路にぶつかる所の正面には、梯子状のモニュメントが建てられていて、興味をそそる一角です。この梯子、かつての火の見櫓を模したもの。
この辺りは、矢田の立場と呼ばれていて、桑名宿の直前の休憩所だったということです。
※左、桑名宿へ。右、矢田の立場と火の見櫓のモニュメント。
私たちは、この先の行程を次の機会に残しながら、三差路を左に進んで、益生の駅へ。次回は、数週間後に、再びこの地に戻ります。