宿場町・湊町・城下町
桑名の街は、古くから交通の要衝であったため、まずは宿場町として発展したのだと思います。そして、この街は、東国へとつなぐ渡船の湊が設置され、湊町としても賑わいをみせました。
さらに、江戸期になると、桑名城の城下町としても栄えることに。
宿場町、湊町、城下町という、華やかな賑わいを彷彿とさせる伊勢の国の玄関口。さぞかし、大勢の人々が往き交って、喧騒に包まれた、活気みなぎる街だったことでしょう。
宿場町へ
JR関西本線の益生駅に降り立って、前回、歩き旅に区切りをつけた、矢田の立場に向かいます。
東海道は、立場跡の三差路から東の方角へ。道筋は、ごく普通の住宅が並ぶ旧市街地の光景です。桑名の宿場はこの辺りからということですが、宿場町の面影はありません。
※矢田の立場跡。真っ直ぐに延びる道が桑名宿の入口です。
街道は、ほどなく国道1号線を横切って、真っ直ぐに、さらに東に進みます。
宿場町の途中には、由緒ある和菓子屋の店構えや、街道にはみ出しながら威厳を示す鳥居など、わずかに歴史を感じるスポットが現れます。それでも、大方は普通の街角。時代と共に、街の姿は変わります。
※かつての桑名宿の様子。
やがて市街地の主要道路に辿り着いたところで、街道は左折して、北の方へと向かいます。桑名の宿場は、コンクリートの道案内柱が整っていて、複雑な道であっても迷うことはありません。それでも、地図を手放さず、慎重に街道を辿ります。
主要道路の県道を、少し歩いたその先は、道が二股に分かれます。街道は、左手の旧道です。
※左、市街地を走る県道。右、県道は右方向。旧道は左方向に真っ直ぐです。
桑名の市街地
旧道に入った後は、市街地の中の住宅地。左に右に折れ曲がり、街中を東西に貫く県道を横切ります。
この先は、さすがに道も狭くなり、昔からの区割りが残る道筋です。古くからの老舗の名残なのかは分かりませんが、ところどころにお店なども見られます。
※左、横に走る県道を渡って正面先の旧道へ。右、街中の街道の様子。
この辺りの道筋は、街道の目印として、茶系統の舗装材が敷かれています。曲がり角に設置された、道案内の標識と合わせて確認すれば、道を迷うことはありません。
やがて、突き当りに毘沙門天堂が現れたところで右折して、東の方角へと進みます。市街地の東のはずれは、揖斐川が伊勢湾にそそぐ場所。街道は、水辺を目指して東進です。
道幅が少し広がると、その先に歴史公園のような景色が見えました。道路脇には、松の木や石垣風の塀が現れ、石造りの橋の欄干も目に入ります。
※左、三之丸堀への道。右、堀の角に立てられた、近辺の史跡案内。
街道は、橋が架かる直前の交差点を左折です。この先、右手には、桑名城の外堀が取り巻いていて、堀伝いに細長い緑地が広がります。
緑地には、近辺の史跡の案内や桑名宿と桑名城の説明板などもありました。外堀を挟んだ向かいには、民家などが林立し、場内の景色としてはやや興ざめのところはありますが、堀をかたどる石垣は歴史の重みを伝えています。
地図を見ると、外堀の向かいの住宅のさらに奥には、内側の堀があり、桑名城跡の中心部となるようです。今は、九華公園(きゅうかこうえん)*1と呼ばれていて、水と木々が美しい市民の憩いの空間です。
※左、外堀伝いの街道。右、外堀から城内を望みます。
桑名宿
外堀伝いの道筋も、かつての宿場町の一部分です。堀端の緑地には、桑名宿の概要を記した案内板が立てられていて、そこには、次のような記述がありました。
桑名宿は、「東隣の宮宿から海上7里(約28Km)、四日市宿までは陸上3里8町(約13Km)の位置にあって、宿場は、七里の渡し場から・・・福江町(矢田立場の辺り)まで」
また、「宿場の規模は、天保14年(1843年)調べでは、人口8,848人であり、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒があった。」とのこと。
桑名は、冒頭でも触れた通り、宿場町に加えて、湊町と城下町の顔を持ち、多様な機能を備えています。このように、重要な役割を果たしたこの町は、東海道53次の中でも屈指の規模を誇ったようで、街道第2の大きさだったと言われています。
※外堀の風景。
外堀沿いの街道を進んで行くと、再び両側に住宅などの建物が張り付きます。堀は、かぎ型に折れ曲がり、右手の住宅の裏側に隠れます。
ほどなく、街道の左手に大きな鳥居が現れて、その奥には、立派な山門や神社が見えました。春日神社と称されるこの神社。宿場、湊、城下に近く、往時の賑わいが偲ばれます。
※春日神社。
七里の渡し
春日神社を通り過ぎ、外堀道の街道を北に進むと、間もなく道案内の石柱が現れます。石柱が指示する街道の方向は右折ということではありますが、指示に従い、先に進むと、城の櫓に辿り着き、その向こうは揖斐川です。
この辺り、城跡の公園の北の端。東海道は、かつてはこの辺りから船で伊勢湾を横断し、熱田神宮がある宮宿へと向かうことになるのです。
※左、七里の渡しの入口。右、蟠龍櫓。
揖斐川から、元の街道に戻ってみると、石柱のすぐ傍が小公園のようになっていて、荘厳な鳥居が見えました。この鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居とされていて、東国から伊勢を目指した人たちの玄関口。
この小公園は、かつての「七里の渡し」の船着き場であった様子です。敷地の端には石碑が立てられ、その証を残しています。
江戸日本橋と京の都の三条大橋を結ぶ東海道。およそ126里という道のりの中、42番桑名宿と41番宮宿を往き来する主な手段は渡船です。
7里(約28Km)という長い区間を船に揺られて渡る時、あるいは危険な船旅だったかも知れません。しかし、心地よい晴天が広がる下では、伊勢湾の絶景を楽しみながら、疲れた足を休めることができたでしょう。
伊勢参りに向かった、”やじさん”と”きたさん”も、宮宿から、一番船でこの桑名に渡ったということです。
長い道中での船旅は、かつての旅人にとって、どのようなものだったのか。想像すると、何故か微笑ましくも感じます。
※左、七里の渡し跡。右、揖斐川の流れ。写真の右2/3は、揖斐川が長良川と合流します。
宮宿へ
かつての渡しも、今はその姿はありません。私たちは、陸路を迂回することで、一路宮宿を目指します。