旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]24・・・宮宿から笠寺へ

 東国へ

 

 宮宿は、東国への入口と言っても良いところ。幾つかの主要な道が収れんし、この先、三河遠州駿河など、東の国への拠点です。

 宮宿を後にした東海道は、名古屋市南部の街並みを南東方向に延びていき、次の宿場の鳴海宿へと向かいます。

 

 

 道標

 熱田神宮の参拝を終え、私たちは、再び宮宿の街道筋に立ちました。今はT字路になっている伝馬町の三差路から、再び歩き旅を続けます。

 この三差路。その一角に、古い道標がありました。刻まれた文字は、随分と風化していて、直接判読することはできません。それでも、道標のすぐ脇に説明板が置かれているため、その内容を知ることが可能です。

 

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※伝馬町のT字路。左に見えるのが道標。

 説明板に記された内容は、次の通りです。

 

 「ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標は、建立当時(1790年)より三叉路東南隅にあったが、平成27年に現在の地に移設した。四面には、次のように刻まれている。

  東  北 さやつしま 道      南  寛政二庚戌年 

     同 みのち              

  西  東 江戸かいとう       北  南 京 いせ 七里の渡し

     北 なこやきそ道          是より北あつた御本社弐丁」

 

 この説明の内容から、伝馬町三差路は、佐屋街道を通って津島へと続く道、美濃への道、江戸に向かう東海道、名古屋から木曽に向かう道、都や伊勢へは七里の渡しを利用するなど、幾つもの交通の結節点だったことが分かります。

 

 草津の宿場で、中山道と別れを告げた東海道。実は、ここ宮宿から美濃路を伝い、中山道の垂井宿(たるいじゅく)とつながっているのです。従って、都から江戸に向かう人たちも、草津から中山道を利用して垂井に至り、垂井から美濃路を通って熱田へと向かう場合もあったのだと思います。

 朝鮮からやってきて、江戸を目指した朝鮮通信使の一行も、中山道を守山へと向かった後、近江の野洲辺りから、朝鮮人街道を経由して彦根鳥居本に至ります。その後、垂井まで中山道を進んだ後は、熱田へと方向を転換することに。そしてその先は、東海道を利用して、一気に江戸へと向かうのです。


 裁断橋跡

 伝馬町を東に進む街道は、国道1号線の一筋南の通りです。道沿いは、住居や雑居ビルなどが並んでいて、宿場町の面影はありません。
 しばらく歩くと、左手に、「裁断橋址」と刻まれた石標と、模型のような小橋が目に止まります。この橋は、宮宿の東の外れに架けられていたもので、戦国時代に、小田原の陣で息子を亡くした母親が、息子の菩提を弔って築かれたということです。

 橋の欄干にある擬宝珠の銘文が貴重なものらしいのですが、由来を綴った案内板には、今は市営博物館に保存されていると記されています。

 

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※左、宮宿の道筋。右、裁断橋址。

 

 宮宿を後に

 裁断橋を通り過ぎ、街中を進んで行くと、新堀川に架けられた小さな橋を渡ります。その先、住宅が中心の街並みを進んで、途中、地下鉄名城線が地上を走る踏切を越えると、街道は国道1号線と合流です。

 少しの間、国道の歩道を歩いた先で、名古屋高速の高架の下をくぐり抜け、街道は真っ直ぐに、東に続く旧道に入ります。一方の国道1号線は、街道と離れて高架の所で南下です。

 ここまでの国道は、交通量も激しくて、周囲もビルが建ち並びます。

 

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※左、新堀川。右、国道、内浜の交差点。

 

 笠寺へ

 旧道は、しばらく進むと、閑静な住宅地に入ります。この辺り、呼続(よびつぎ)と呼ばれるところで、名古屋市の南区に属します。途中には、所々に神社や城跡なども見受けられ、古くから武将たちが往き来した情景が浮かんでくるようなところです。

 

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※左、山崎城跡の石標。右、神社の入口には「東海道」の石碑がありました。何れも、呼続

 街道は、呼続で東から南の方向に向きを変え、落ち着いた住宅地の中を進みます。やがて、笠寺と呼ばれる街に入ると、街並みも少し賑やかな雰囲気に。この辺り、名鉄名古屋本線の鉄道が、街道の左手を走ります。

 

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※笠寺の街並み。

 

 名鉄本笠寺駅に近づくところで、街道は左に折れて、その先で名鉄の踏切を渡ります。この辺り、ちょっとした商店街の様子です。買い物客で賑わう街は、人々の暮らしの活気を感じます。

 そして街道は、名古屋市道の広い道を横切って、南東の方向へ。小さなお店が点在する、門前町のような街並みのその先には、笠寺観音の山門が控えます。

 

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笠寺観音の山門を望む街道。

 笠寺観音

 街道の正面に控える笠寺観音。「笠寺」の地名はここから来ているのかも知れません。私たちは、由緒あるこの寺院に参拝するため、少しだけ寄り道です。

 笠寺観音は、歴史ある寺院で、奈良時代に建立されたということです。十一面観音を本尊と仰ぐ真言宗のこの寺院。赤々と連なる幟旗が、存在感を誇示しています。

 よく知られている史実としては、織田家に人質として幽閉されていた徳川家康(当時は”竹千代”)と、今川義元に捕らえられた織田信長の兄、織田信広との人質交換がこの寺の境内で行われたということです。

 

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笠寺観音の境内。

 

 笠寺観音の境内には、その一角に多宝塔が配置され、その正面に、「人質交換之地」と刻まれた石碑が置かれているのです。この石碑を確かめて、確かにこの地で竹千代と織田信広の人質の交換が行われたことを納得したものでした。

 人質交換の後、竹千代は駿府静岡市)に向かい、幼少期のしばらくの年月を駿府で暮らすことになるのです。

 

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笠寺観音の境内。左が多宝塔で、その前にあるのが「人質交換之地」の石碑。