旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]11・・・坂下宿から関宿へ

 伊勢路の下り坂

 

 鈴鹿峠は、近江から伊勢へと向かう場合は、それほど険しい道ではありません。ところが、峠から坂下宿への下りの道は、結構な急坂です。私たちとは反対に、伊勢から近江の国を目指すときには、さぞかし難渋することでしょう。

 東海道随一の難所と言われる峠道。その言葉に偽りはありません。

 

 

 坂下宿へ

 国道1号線を左にそれた旧道は、車幅も広く、舗装された道路です。この道路の入口近くの左手に、少し変わった石造りのモニュメントがありました。台上に立つ2体の人の石像は左右に離れ、夫々が、街道を見つめている様子です。

 モニュメントが何を意味しているのか分かりませんが、ここから少し上に登ったところに、岩屋観音と呼ばれる岩窟の祠があるということです。

  この先、街道は、緩やかな下り道となって坂下の宿場へと続きます。

 

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※坂下宿への入口。

 坂下宿

 左には鈴鹿の山、右には鈴鹿川の渓流を見ながら街道を歩きます。ほどなく、集落が現れると、その辺りから坂下の宿場です。

 依然として、道幅はそこそこの広さを保ち、車は余裕ですれ違うことが可能です。坂下宿は、往時の面影はほとんど見かけることはありません。住居は木造建物が多いものの、どこにでもある集落の光景です。

 

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 ※坂下宿の西の入口。

 

 かつての宿場は、今は茶畑や空き地などが所々に見受けられ、深い山間の集落を維持することの難しさを感じます。往時の様子はどうだったのかと、空想に駆られるような道筋の中、道路際にひっそりと佇む本陣跡の石標がありました。

 今では、こうした石標などが、かつてこの地が宿場町であったことを伝えている状況です。

 

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※宿場町と本陣跡の石標。

 

 坂下の歴史

 坂下宿を歩いていると、途中には、宿場を紹介する案内板がありました。そこには、坂下宿の興味ある一節が記されていたので、少しだけ紹介したいと思います。

 

 「慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下*1の谷間にあり、「古町」と呼ばれている。」

 

 このように、元々は、鈴鹿峠の急坂の直下のところに宿場町が開けていたということです。今の場所よりさらに険しい山間に、どのようにして建物などが張り付いていたのか、興味をそそられます。

 なお、案内板の記載には、「江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数える東海道有数の宿となり‥‥」とあり、鈴鹿峠を控える位置の重要な宿場だったことでしょう。

 

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※左、坂下宿の案内板。右、宿場の中。左手の細い道が街道です。

 沓掛(くつかけ)

 集落の途中で、広かった道路の左に旧道が現れます。この辺りには、鈴鹿峠然の家や馬子唄会館などもあって、ちょっとした憩いの場所でもあるようです。

 旧道沿いには、東海道53次の宿場名を記した木製の標柱が整然と立てられ、東海道の雰囲気を盛り上げています。

 

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※馬子唄会館辺りの宿場名の標柱。

 

 この辺りから、宿場町は坂下の沓掛という集落に入ります。道は狭まり、往時の街道の様子が窺えるような景色に変わります。

 家々は軒を連ねてはいるものの、何故かひっそりとしています。坂下の宿場町は、沓掛には及んでいなかったのかも分かりませんが、宿場につながる集落ということで、何らかの役目を果たされていたことでしょう。

 そもそも、沓掛(くつかけ)という言葉自体が、履物をぬいで一息つくところ、という意味です。集落の中には、立場(たてば)と呼ばれる休憩所などがあったのかも知れません。

 余談にはなりますが、中山道を歩いた時にも、所々で”沓掛”という名を目にすることがありました。最も名の通った”沓掛”は、中山道19番目の宿場町。沓掛宿は、碓氷峠の麓にある、軽井沢宿の隣です。鈴鹿峠の麓にある坂下宿の隣の沓掛。どこか中山道とも通ずるところがあるようです。

 

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※沓掛の集落

 一ノ瀬の一里塚

 沓掛は結構大きな集落で、街道の延長は1Kmにも及んだような気がします。集落の中をゆっくりと下っていって、民家が途切れ途切れになってくると、やがて国道1号線と合流です。そして、その先に一ノ瀬の一里塚が見えました。

 

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※坂下一ノ瀬一里塚。

 関宿へ

 この後街道は、しばらくの間、国道1号線の歩道を進みます。かつて国道は、三重県滋賀県を結ぶ最も重要な道だったようですが、今は、新名神高速道路が整備され、国道の交通量はそれほど多くはありません。

 気持ちもゆったりとして、下り道を楽しみます。

 国道が東海道を飲み込んでしまったとはいうものの、関宿に向かう途中には、何か所か旧道が現れて、私たちを集落へと誘います。

  

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※左、市瀬の集落。右、市瀬の集落途中で国道を横切り、向かいの旧道に入ります。

 集落を抜けた後、再び国道に戻ってくると、下り道から平坦な道へと変わります。辺りの景色も変化して、倉庫や配送関係の建物などが目立ちます。

 やがて住宅なども増え始め、街道は関の宿場に近づきます。

 

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※左、東海道関宿西の交差点。右、関宿の西の入口。

 西の追分

 東海道関宿西の交差点で、国道からわずかに左にそれる細い道に入ります。ここが、西の追分と呼ばれるところ。関宿の西の端で、この交差点を右に向かうと、伊賀や奈良の方面です。大和街道と称される古くからの街道は、西の追分で東海道と分かれます。

*1:片山神社については、「歩き旅のスケッチ[東海道]10」の中で触れています。

歩き旅のスケッチ[東海道]10・・・鈴鹿の峠越え

 峠越え

 

 いよいよ、街道は鈴鹿峠に入ります。東海道随一の難所と言われるこの峠、既に中山道を歩いた私は、美濃の国の13峠や信州の和田峠などを思い出し、さぞ厳しい道が待ち構えていると、気持ちを引き締めたものでした。

 神秘的な鈴鹿の峠。峠を越えれば近江路とはお別れです。

 

 

 国道歩き

 猪鼻の集落を過ぎるとしばらく国道伝いに歩きます。道は大きく弧を描き、右に左にカーブしながら、ゆったりとした坂道となって鈴鹿の山並みへと向かいます。

 ところどころに集落や民家も見受けられ、この辺りは奥深い山の中の感覚はありません。

 やがて国道は、鈴鹿トンネルに差し掛かる直前で上下の車線が分かれます。トンネルは上下別々となっていて、それぞれが間隔を開けて設置されている状況です。

 このトンネルの手前から、東海道は右側の側道に移ります。そして、集落が尽きた前方で、側道から少し右側にそれて山道へと向かいます。

 

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※左の国道から離れて、右の側道を進みます。

 山道へ

  国道1号線を左下に見ながら山道を進みます。いよいよ峠の難所に差し掛かるという辺りでも、坂の勾配はそんなにきつくは感じません。

  

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※国道から離れて山道へ。

 この坂をしばらく上ると、左には鈴鹿トンネルの入口が見下ろせます。街道はトンネルの上部を越すように山の中へと向かいます。

 その後左手に、整備された小さな緑地。そして緑地の奥に、石造りの神秘的な灯籠が見えました。この灯籠、万人講常夜灯(まんにんこう・じょうやとう)と呼ぶそうで、鈴鹿の山を越す旅人を見守るために設置されたということです。

 

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※万人講常夜灯。

 

 鈴鹿峠

 常夜灯を越えてしばらく進むと、街道は勾配を緩めて平坦な道に変わります。辺りは、片流れの斜面となった茶畑の丘陵地。そして、その先には、木々が鬱蒼と茂る森が広がります。

 茶畑を通り抜けて森に差し掛かったところには、石柱が立っていて、よく見ると、県境を示す標石です。「右 滋賀県 近江の国 、 左 三重県 伊勢の国」と刻まれた標石は、余りにも突然に近江路の終わりを告げることになりました。

 箱根の峠と並び称される鈴鹿の峠。相当な覚悟で臨んだものの、呆気なく辿り着いたような気がします。近江の国から東に向かう場合には、険しい道はそれほど多くありません。土山の宿場から6Kmほど。全体として緩やかな坂道を経て峠にやってきたという印象です。

 

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※左、茶畑の中の街道。右、滋賀と三重との県境。

 

 伊勢路
 県境を越えて伊勢路に入ると、そこは深い森の中。雨も降り出し、心細くなるような山道です。道は依然平坦で、ガスがかかった森の道を進みます。

 ほどなく、鈴鹿峠を示す案内板が見えました。この案内板、亀山市教育委員会により設置されているもので、峠に関して次のような記載がありました。

 

 「伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。‥‥‥仁和2年(886)近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波(あすは)道と称する新道が開かれ、同年斎王群行*1がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことからこの鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。」

 

 この道を斎王の一行が通ったと思うと、ロマンチックな情景を想い浮かべてしまいます。しかし、斎王たちは、再び都に戻る日が来るのかどうか、きっと不安に駆られた群行だったことでしょう。

 斎王の峠越えは、また、中山道を江戸へと向かった、皇女和宮を彷彿とさせる光景です。歴史の中で翻弄された皇室の女性たちの運命を思わずにはいられません。

 

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鈴鹿峠の街道と亀山市教育委員会の案内板。

 

 下り道

 街道は、下り道に差し掛かります。この後しばらくの間、細くて急な坂道が崖地に沿って続きます。この辺り、近江路側とは随分様子が異なって、鈴鹿の山の深さを思い知らされるような光景です。

 

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※峠越えの後の下り坂。

 下り坂を下りていくと、途中には石畳なども現れます。また、小さくはあるものの、旅情を感じる石碑なども置かれていて、街道の空気が味わえるところです。

 その石碑、よく見ると芭蕉の銘も刻まれていて、彼の人の作品だと分かります。

 

    ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿

 

 いつ詠まれた俳句なのかは分かりませんが、伊賀の国の人である松尾芭蕉が、修行を思い立って旅をされたのでしょうか。きっと、伊賀から鈴鹿を越えて近江の地へと旅をされた最初の峠越えの時の一句だったのだと思います。

 

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※峠の下り坂。右は芭蕉の句碑。

 下り坂を一旦下りきったところには、伊勢の国側からの、峠の上り口を案内する標識がありました。その先には、国道1号線が走っていて、街道は国道の高架の下をくぐります。

 今では、ここは地道ではなく、階段が整備されていて、この階段を伝いながら国道下をすり抜けます。

 

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※国道1号線の下をくぐり抜ける所。

 片山神社

 国道を潜り抜けたその先には、右前方に片山神社が現れます。森の中に姿を見せた鳥居の姿は厳かですが、この神社、世間から隠れるようにひっそりと佇んでいるように見えました。

 東海道は、鳥居に向かって下った後、鋭角に左手の坂道へと折り返します。鳥居前を真っ直ぐ進む道もありますが、その道は誤りです。この辺り、地図の確認が重要なところです。

 

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※左、片山神社。写真の左下の隅に見える細い坂道が東海道です。右、坂を下りて国道と合流する地点。

 坂下宿へ

 国道1号線と合流した後、少しだけ国道沿いの歩道を歩きます。その後、500mほど下ったところで、国道から離れて左手の旧道へ。この旧道、舗装されているうえ、そこそこ幅の広い道路です。

 そして、その先に集落が現れて、ようやく坂下の宿場に到着です。

*1:斎王群行については、「歩き旅のスケッチ[東海道]8」で少し触れました。

歩き旅のスケッチ[東海道]9・・・鈴鹿峠へ

 鈴鹿峠への道

 

 土山の次の宿場は、伊勢の国の坂下宿。2つの宿場の間には、東海道でも随一の難所とされる、鈴鹿峠が立ちはだかって、旅人の行く手を阻みます。

 近江の国と伊勢の国を隔てる鈴鹿の山並みは険しくて、今でも滋賀と三重とを往来するルートはそれほど多くありません。古くからの東海道の道筋辺りが、今も国道1号線が通過するところです。

 街道は、山の隙間を縫うように、峠を越えて伊勢坂下へと続きます。

 「坂は照る照る 鈴鹿*1は曇る あいの土山雨が降る」と唄われた鈴鹿馬子唄は、まさに、坂下宿やその先の関宿から、近江の土山に向かって峠越えをする馬子の人々が、口ずさんだであろう民謡です。

 土山は、地域のキャッチフレーズとして、「あいの土山」という言葉を発信し、プロモーションに活用されているのですが、もとは鈴鹿馬子唄からきた言葉。何とも親しみある響きです。

 

 

 田村神社

 土山宿を出た街道は、すぐに田村神社の境内に入ります。国道に面した鳥居をくぐり、木々が茂る参道を進みます。

 田村神社は、征夷大将軍として有名な、坂上田村麻呂ゆかりの神社です。奈良時代から平安時代にかけて活躍し、特に、嵯峨天皇に厚遇されたということです。この田村神社も、嵯峨天皇の命により築かれた神社ということで、田村麻呂自身が大明神として祀られているのです。

 

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※左、田村神社の入口。右、境内の参道。これが東海道です。

 

 海道橋

 田村神社の拝殿や本殿は、参道の正面奥となりますが、東海道は、境内の途中で右折して、神社から離れます。

 境内を側面から抜け出たところには、海道橋*2という小さな橋が架かります。田村川を横切る橋で、昔から木の橋が架けられていたということです。安藤広重東海道53次の絵の中で、土山を紹介した作品には、雨の中この海道橋を渡る大名行列の模様が描かれています。

 そんな由緒ある海道橋。ここを渡ると、街道は次第に坂道に変わります。

 

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田村神社の出口、海道橋の様子。写真の右端の絵が、安藤広重の作品。

 

 鈴鹿の坂道

 海道橋を渡ってしばらく進むと、東海道は、工場地域に差し掛かります。幾つかの工場の隙間を縫うように、かろうじて残された街道は続きます。

 途中には、「蟹坂(かにさか)古戦場跡」を記す石碑などがありました。この戦いは、16世紀の中頃に起こったようで、戦国時代の争いのひとつだったのかも知れません。

 道は緩やかな勾配の坂道となり、蟹が坂の集落に入ります。

 

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※左、蟹坂古戦場跡。右、蟹が坂の集落。

 

 蟹が坂を過ぎると、街道は一旦国道1号線に合流です。その後、数百メートル国道を歩いて、左手の旧道へと入ります。ここが猪鼻(いのはな)の集落で、かつては立場があったということです。家並みは、総じて今風に変わってはいるものの、集落内の道筋は往時の様子が偲ばれるような景観です。

 集落の中には、”猪鼻立場”と記された、往時の様子を物語る案内板がありました。それによると、「猪鼻集落は東海道土山宿から東へ約3Kmの位置にあり、江戸時代には立場として賑わった。立場とは、宿場と宿場の間で休憩するところ。旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。‥‥‥江戸時代には50戸余りの家があり、旅籠や商家・茶店などが6軒ほどあったといわれる。‥‥‥」と記されています。 

  

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※左、蟹が坂・猪鼻間の国道。右、猪鼻の集落。

 鈴鹿峠

 猪鼻集落を出た後は、再び国道に戻ります。この辺りの国道は、交通量はそれほど多くありません。どの車も、快調に速度を保って駆け抜けます。

 しばらくすると、前方には国道をまたぐ大きな陸橋が現れます。これは、新名神高速道路。近畿から三重方面に向かうのに大変便利な道路です。

 街道は、この陸橋の少し手前で再び左側の集落に入ります。集落の入口には、山中の一里塚。そして、集落の出口には、鈴鹿馬子唄を記念した、馬子唄公園がありました。

 山中の集落は、道幅が広がって、往時の様子が偲べるところはそれほど多くありません。山里の集落といった雰囲気です。

 

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※左、国道1号線と国道をまたぐ新名神高速道路の陸橋。右、山中の集落。

 鈴鹿馬子唄

 山中の集落のはずれの馬子唄公園。そこには、トイレなども設置され、一休みできるところです。園内には、鈴鹿峠の石碑や鈴鹿馬子唄の解説が書かれた案内板などがありました。

 それによると、

 

 「近江・伊勢の国は鈴鹿山脈で隔てられ、2つの国を行き来するには必ず峠を越えなければならない。江戸時代の東海道鈴鹿峠を越えていたが、「東の箱根、西の鈴鹿」と言われるように旅人には非常な難所であった。

 その為にこの峠を人や荷が越えるのには馬の背を借りることが多くなり、馬の手綱を引いて駄賃を取る馬子たちも多く存在した。彼らの間で自然発生的に唄われたのが鈴鹿馬子唄で、日本各地に伝わる馬子唄や追分節とよく似ており、ゆっくりとした調子で哀愁を帯びた節で唄われる‥‥‥」

 

 ということです。

 

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※左、馬子唄公園。右、公園の裏が国道1号線と接しています。

 鈴鹿馬子唄の歌詞は、このブログの冒頭で紹介したとおり、伊勢側の関宿や坂下宿から坂道を上って峠を越え、土山に向かう様子がドラマのように描かれています。

 

 「坂は照る照る」は、上りの坂道は良い天気が広がっているものの、「鈴鹿は曇る」で、峠は次第に雲行きが怪しくなってきて、「あいの土山雨が降る」。

 

 この、最後のフレーズが面白く、「あいの土山」とはどういう意味かということが色々と詮索されているのです。どうも定説はないようですが、今の土山では、”愛の土山”のような意味合いでキャッチフレーズとされているのでしょうか。

 実際は、伊勢側と峠を隔てて”相対する”土山、という意味とか、土山が”山間の土地”だから、という説もあるようです。ただ、街道を歩く途中で目に止まった案内には、”あいの”は、”あいのう”を表しているとのこと。

 ”あいのう”とは、方言で、”間もなく”という意味があり、「鈴鹿峠が曇って来ると、間もなく行き着くであろう、その先の土山は、雨が降っていることだろう」というような情景が浮かんでくるのです。 


 さあ、いよいよ鈴鹿峠に近づきます。次回は鈴鹿の峠を越えて、伊勢の国に入ります。

 

*1:鈴鹿は曇る」を「峠は曇る」とされる歌詞もあるようです。

*2:写真に写っているように、”海道橋”が正しいのだと思いますが、”街道橋”とされている資料もあるようです。”海道橋”は、海に架かる橋のようなイメージです。本来は、”東海道橋”という意味のような気がします。

歩き旅のスケッチ[東海道]8・・・水口宿から土山宿へ(後編)

 土山へ

 

 東海道は、その昔、伊勢神宮の参拝に向かう旅人も利用した街道です。有名な「東海道中膝栗毛」は、”やじさん・きたさん”の伊勢参りの道中記。江戸から伊勢を目指す道中の出来事を綴ったお話です。

 一方、京の都から伊勢神宮に向かった一行で有名なのは斎王です。古くから、天皇の即位に合わせて伊勢神宮に派遣され、天照大神に仕える役割を命じられました。斎王という重責を背負った未婚の皇女が、都から遥か離れた伊勢の地を目指して旅する姿を想像すると、どこか悲しくも感じてしまします。

 

 

 垂水頓宮

 野洲川に架かる歌声橋を渡った後、街道は、野洲川とはお別れです。今度は、田村川沿いの平地を伝って土山宿へと向かいます。

 歌声橋の前後の道は、前回も少し触れた通り、本来の東海道ではありません。私たちは、野洲川を渡るため、新しく作られた道を通ります。本来の東海道は、今歩く道より上流です。弓なりに大きく迂回して、松尾の渡しで野洲川を渡り、土山宿へと入るのです。

 

 この迂回路の途中には、頓宮(とんぐう)と呼ばれる地名が残り、今も垂水頓宮跡という史跡も残っています。甲賀市の観光ガイドには、この頓宮について次のようにつづられています。

 

 「天皇が即位するたびに伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女・・・を斎王といい、その一行が都から伊勢斎宮まで5泊6日の旅へと御出駕されます。この旅を斎王群行(さいおうぐんぎょう)といい、その一つの宿泊所が頓宮です。・・・」

 

 今では、5泊の宿泊所がどこにあったのか、この垂水頓宮以外にははっきりとしていないとする説明もあるようですが、それほどこの土山の地は、斎王群行に関して貴重な場所だと言えるでしょう。

 天皇から命じられ、伊勢の地へと向かう斎王が東海道を通ったことは、今も土山に残る史跡や地名からも分かります。土山ではこの斎王を偲び、毎年3月には、「あいの土山斎王群行」の行事が行われているということです。

 

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※垂水頓宮跡。東海道歩きとは別の機会に撮った写真です。

 

 土山宿へ

 野洲川を渡った後は、国道1号線の歩道を少し歩いて、左手に見えるJAの建物の先で国道を横断します。その後、集落内の細道を辿ると十字路に行き着いて、左から右へと延びる本来の東海道に合流です。

 

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※歌声橋を渡り、土山宿に向かう現在の道(国道1号線)。本来の東海道は国道の左手奥を迂回しています。正面右のベージュの建物がJAです。

 

 東海道との合流点を右折して東海道に入った後は、すぐにまた、国道1号線と出会います。土山宿は、その先の南土山交差点で国道から離れ、斜め右方向に進んだところから始まります。この先は、旧道がよく残っていて、今も宿場町の面影を味わえるところです。

 水口宿からここまでは、およそ11Km。宿場の入口には、大きな地図が掲げられ、土山宿の案内が詳しく記されていました。

 

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※土山宿の案内板。濃い色の道が東海道。右が京で左が江戸方面です。

 

 土山宿

 土山の宿場の入り口辺りは、木造の民家が軒を連ねる普通の集落の景色です。その後、小さな川を渡って街道が左に大きく曲がっていくと、次第に町の様子が変わります。

 視線の先には、板塀の屋敷や格子窓の建物などが現れて、歴史を感じる町並みが広がります。

 

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※宿場内の様子。

 宿場町の中央辺りが、最も宿場町の面影が残されたところです。本陣跡やその周辺には、由緒ある建物が残っている他、修景も良く施され、宿場町としての情報発信に力が入れられている様子です。

 本陣跡の近くには、東海道伝馬館という資料館のような建物もあるようで、土山宿を保存整備していこうとする熱意を感じます。

 

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※左端が近江屋跡、中央辺りが本陣跡。

 

 東海道京都三条から歩いてくると、大津・草津・石部・水口の4つの宿場町を経て土山宿に至るのですが、これまでの宿場の中では、最もよく、宿場町の面影が残されているところです。

 それだけではなく、この先の街道を含めても、土山の宿場は5本の指に入るほど、往時の姿を良く残した宿場町と言えるでしょう。

 

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※左、土山宿の東のはずれ。右、土山から鈴鹿へと向かう起点の田村神社(正面)。

 

 土山宿から鈴鹿

 本陣がある宿場の中央辺りを通り過ぎ、東へと進んで行くと、また普通の集落の風景に戻ります。そして、宿場町のはずれには、石のモニュメントや街道の案内板、公園などがありました。

 この公園から街道を挟んだ向かいには、”道の駅 あいの土山”の建物です。小さな道の駅ではありますが、国道1号線の沿線にあり、鈴鹿峠に向かう前の絶好の位置。私たち、歩く者には当然ながら、車でも、休憩場所としてよく利用されているようです。

 道の駅から国道1号線を挟んだ反対側には、田村神社が鎮座して、東海道はこの神社の敷地に吸い込まれながら鈴鹿の方面へと向かいます。

 

 ちなみに、この道の駅には、甲賀市が運営するコミュニティーバスの停留所もあって、歩きつなぐ節目としても便利なところです。このバスは、JR草津線貴生川駅を起点とし、水口や土山の大野などを通過しながら道の駅に至ります。道の駅のバス停の名称は田村神社前。ここからさらに鈴鹿の方へと向かう便もあるようです。

 

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※道の駅。

 

 鈴鹿峠

 私たちは、一旦、道の駅で行程を区切り、数週間後に再びこの地に降り立って、鈴鹿峠へと向かいました。

 鈴鹿馬子唄で知られる東海道の難所のひとつ。鈴鹿を越えれば伊勢路です。

歩き旅のスケッチ[東海道]7・・・水口宿から土山宿へ(中編)

 土山へ

 

 次に向かう宿場町は土山です。土山は水口と同様に以前は町制を敷いていて、平成の合併で甲賀市となったところです。

 水口の宿場を離れた街道は、野洲川沿いに細長く開けた平地の中を、ゆったりと上流に向かいます。

 

 

 野洲川の右岸

 水口宿を後にして、かつて松並木があったとされる小高い丘のような地形のところを通り過ぎると、昔ながらの集落に入ります。この辺り、街道自体は昔の道筋を残してはいるものの、家並みはごく普通の集落の風景です。

 その後、一旦野洲川の右岸に沿った県道に合流し、その先で、再び左手の旧道に進みます。この先も、新たな集落が街道に貼り付くように延びていて、家並みを眺めながらの歩みです。

 

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※左、県道との合流地点。写真の右には野洲川が流れます。右、次の集落。

 

 300mほど続く集落を通り抜けると、もう一度、県道に合流します。その後、またしても、左手方向の道が現れて、分岐のところに東海道を偲ぶ石碑*1と、”カフェ一里塚”の案内がありました。

 私たちは、地図や案内を確認し、旧道と思われる左の道を進みましたが、実はその道は東海道ではないとのこと。途中で地元の方に声を掛けられ、親切に街道の道筋を教えて頂くことになりました。 

 正しい東海道は、前述した分岐のところを、あと200mほど県道伝いに真っ直ぐ進み、県道から直角に延びる坂道を上っていくルートです。私たちは、今来た道を引き返し、教わった道を辿って一里塚へと向かいます。

 

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※左、今郷の集落にある分岐。右端の道が県道で、左方向が間違って進んだ道。右、県道から直角に左方向に上る東海道

 今在家の一里塚

 県道から左に上る坂道の入口には、小さいものの、東海道を示す道案内標識がありました。ここから、住宅が貼り付く急坂を上ります。坂を上り切ったところはT字路で、左手が先ほど間違えたところに続く道。街道は、この角を右折して東へと向かいます。

 先を進むと、ほどなく、右側に一里塚然とした小さな塚と立派なエノキが現れました。ここが今在家の一里塚。付近は、少し修景されて、一休みすることも可能です。元は、この一里塚は今の位置より少し東側にあったということです。先ほどの分岐の所にあった”一里塚”という名のカフェが少し先にあったことから、その辺りが本来の一里塚の位置だったのかも知れません。

 

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※今在家の一里塚。

 

 水口から土山へ

 今在家の一里塚がある今郷は、野洲川右岸の集落のひとつです。川からは一段高いところに集落が貼り付いて、その中を街道が通ります。

 この集落の東の端は下り坂。坂を下って、もう一度県道に戻ります。そして、大野西の大きな交差点に差し掛かると、県道は国道1号線に吸収され、東海道は1号線の北側へと移ります。

 この交差点辺りが水口と土山の境です。この先街道は、幾度となく、国道1号線を横切りながら、土山へ、鈴鹿へと向かって行くことになるのです。

 

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※大野西交差点。広い道路は国道1号線。東海道は、櫓のようなモニュメントの左手の道。

 大野西交差点のところには、櫓のようなモニュメントの時計台がありました。そこの左手方向に、ひっそりと延びる細い道が東海道。交差点を渡ってこの道へと入ります。

 この辺りの沿道は、倉庫などの建物が点在する殺風景なところです。それでも、大野の集落に近づくと、少し趣が感じられる街並みに変化して、往時の旅籠跡の石標なども見られるようになりました。

 

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※左、大野の集落。右、「旅籠 東屋跡」の石標。

 

 大野の集落

 大野の集落が一旦途切れたところで、国道1号線を横切ります。ここには、歩道橋が設置され、橋の上からは、土山の宿場へと向かう街道を確認することができました。

 

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※左、大野の歩道橋。右、歩道橋から見た東海道

 

 歩道橋を渡り切ると、再び大野の集落が続きます。この辺り、かつて旅籠であったことを示す案内が幾つかあって、間の宿(あいのしゅく)であった様子です。間の宿は、宿場と宿場の間にある、休憩所のような位置づけの場所。正規の宿場とは認められてはいませんが、旅籠などもあったのだと思います。(この、”間の宿”については、「歩き旅のスケッチ[中山道総集編]9」で少し詳しく触れています。)

 緩やかに曲線を描いて続く街道と大野の集落の風景を味わいながら、歩様を先へと進めます。

 

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※大野の集落と街道。

 

 大野の集落のはずれ辺りは、かつては松並木があったところです。今でも少しだけ、松の姿が確認できて、並木道の名残を感じます。 

 

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※松並木の名残を感じる街道。

 野洲川の横断

 大野の集落が終わったところで、街道は2手に分かれます。本来は、左の道が東海道のようですが、横田の渡し*2と同様に、今は、旧道を進んでしまえば、野洲川を渡る手段がありません。やむを得ず、直進方向の、現代の道を進んで野洲川に架かる歩道橋を渡ります。

 この歩道橋は歌声橋と名付けられ、屋根がかかった姿と合わせて、親しみを感じます。下を見ると、川面からは結構の高さがあって、野洲川も、上流域に入った様子です。

 昔は、ここからさらに上流の”松尾の渡し”で川を渡っていたようですが、どのようにして往き来したのか、興味深いところです。きっと、歌声橋のところより、渡りやすい地形なのだと思います。

 

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野洲川に架かる橋。

 斎王と垂水頓宮

 歌声橋の手前の分岐を、本来の街道に沿って”松尾の渡し”の方向に進んで行くと、土山町頓宮(とんぐう)というところになるようです。

 頓宮は、平安時代を中心とした伊勢神宮に派遣された斎王の宿泊地。伊勢までの道中で数か所あった宿泊地のひとつが垂水頓宮ということです。

 雅やかな、平安期前後の宮中行事である斎王の群行(ぐんぎょう)は、現代人にとっては、ある種のロマンでもありますが、その当時は想像もつかない難行だったことでしょう。

 斎王のことについては、次回で少し触れてみたいと思います。

 

*1:その時はよく確認しなかったのですが、石碑の表題は”街道をゆく”と書かれていました。司馬遼太郎と関係がある碑かも知れません。

*2:「歩き旅のスケッチ[東海道]4」で紹介した、野洲川の渡しです。

歩き旅のスケッチ[東海道]6・・・水口宿から土山宿へ(前編)

 水口の街

 

 水口(みなくち)は、甲賀市の中心地。以前は、水口町として町制が敷かれていましたが、平成の大合併で市政へと移行して、ここに市役所などが置かれることになりました。

 市街地の中心部には、水口城の城跡が残っているということで、城下町の面影が色濃く残る街中です。水口はまた、東海道の宿場町としても発展し、城と宿場の2つの歴史遺産を支えます。

 それでも、町並みは少しずつ変容している様子です。新しい街への流れは、止めることは困難ではありますが、少しでも、歴史の面影を残してほしいところです。

 

 

 水口石

 林口の一里塚を左に見て、水口の街中を巡る街道を歩きます。途中、”水口石”と記されたコンクリート製の案内が角地に置かれ、その裏側に、重そうな力石(ちからいし)の姿が見えました。

 案内には、「小坂の曲がり角に伝えられる大石で力石とも呼ばれる」、との表記です。力石は、東海道を歩いていると、所々で目にします。その昔、力試しに用いられたとも伝えられる大石です。

 この付近は、水口城のすぐ傍で、右に進むと、城跡があるようです。私たちは、城跡を見ることなく、街道を先へと進みます。

 

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※左、水口の街筋。右、小坂の曲がり角と力石の案内。案内板の後ろに力石がありますが、残念ながら標石で隠れています。

 

 石橋辺り

 街道は、城から遠ざかるようにして、水口石の角を左へと向かいます。そして、その先を右折です。しばらく住宅地が続いた後、今度は、もう一度クランク状に右折、左折をする道筋に。

 ここまでの街道は、宿場町としての面影が感じられるところはありません。わずかに、城下町の雰囲気が残っているところもありますが、住居が連なる、どこにでもある街中の道という印象です。

 そして、石橋と呼ばれる辺りに来ると、ようやく、宿場町らしい雰囲気の建物が見えました。この建物は、「ひと・まち街道交流館」という市が設置した施設のようで、観光案内所のようなところです。*1

  

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※ひと・まち街道交流館。

 交流館を左に見て先に進むと、小さな鉄道の踏切が現れます。この鉄道は、近江鉄道と呼ばれるローカル線で、JR琵琶湖線米原駅とJR草津線貴生川駅を結んでいます。

 踏切のすぐ近くには、水口石橋駅という無人駅があり、街道歩きをつないでいくのに便利です。私たちは、この駅と貴生川駅とを利用して一旦自宅に引き返し、次の機会に、再び水口石橋駅から土山宿へと向かう行程を組みました。

 

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※左、石橋の近江鉄道踏切。右、踏切のすぐ先にある三筋の広場。

 

 三筋の通り

 しばらく時間が開いた後、前回街道歩きを切り上げた水口石橋駅に戻ってきたのは数週間後のこと。近江鉄道の石橋踏切から歩き旅の再開です。

 

 水口石橋の踏切を渡ると、その正面に、からくり時計が見えました。この辺りは、小さな広場のようになっていて、三筋の広場と呼ぶそうです。その名の通り、ここから先、道は3本の通りに分かれていて、並行した3本の道が1Kmほど続きます。

 三筋の広場から、再び3本の通りが合流するところまでが、水口宿の中心地。往時は、随分と賑わっていたことでしょう。

 

 水口宿

 3本の通りの中で東海道のメインの道は、やはり真ん中の道。今では、宿場町の面影はそれほど残っていませんが、所々に石標や修景された建物などが配置され、宿場の様子がほんのりと味わえる道筋です。宿場町の中心地付近には、再びからくり時計が設置され、その隣には古風な建物の休憩所がありました。

 

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※大池町のからくり時計と休憩所。

 この先は、少し趣ある街道に変わります。板塀や格子戸の建物が点在し、瓦屋根が続く景観は、落ち着きある空気を漂わせます。

 やがて三筋の通りは1本の街道に収れんし、水口宿を通り抜ける辺りには、高札場跡を示す案内がありました。

 

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※左、水口宿の様子。右、高札場跡。

 高札場跡のすぐ先は、本陣や脇本陣跡を示す案内板なども目に止まり、その先で、街道は秋葉の集落に入ります。

 どちらかと言うと、本陣などの主要施設は宿場の中ほどにあることが多いように思います。ところが、水口宿は東の外れに近い位置。城下町にある宿場ということで、できるだけ城下から離れた場所が選ばれたのかも知れません。

 

 そして、街道は、徐々に宿場を離れる気配です。途中、木製の標柱が印象的な、小さな公園がありました。そこは東見附跡ということで、宿場の東の境です。

 

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※左、水口宿脇本陣跡。右、東見付跡。

 

 土山へ

 水口宿を後にして、東へと向かいます。この先も、幾つかの集落が現れて、旧東海道の道筋が残る街道が続きます。かつては松並木があったと伝える石碑なども目に止まりましたが、今はこの辺りには並木道はありません。

 集落内の住宅や小さな畑地などを眺めながら進みます。

 

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※左、土山への道。右、松並木があったと伝える案内版。

 街道は、昔のままの道筋を残して、土山の宿場へと続きます。

*1:施設の中には、曳山の展示などもあるようです。

歩き旅のスケッチ[東海道]5・・・石部宿から水口宿へ(後編)

 水口宿へ

 

 野洲川の横田橋を渡ると、甲賀市に入ります。この先、近江路の街道には、水口宿と土山宿の2つの宿場が控えます。そしてその先は、鈴鹿の峠。少しずつ標高を上げながら、峠の先に広がる伊勢の国に思いを馳せて歩きます。

 

 

 甲賀市

 横田の渡しは、昔のルート。今は、野洲川を越えるには、県道の横田橋を渡る以外に方法はありません。JR草津線三雲駅前の交差点を左折した後、県道の高架下を潜り抜け、すぐに右方向の坂道を上ります。この坂を上った先が横田橋。

 琵琶湖に注ぐ河川としては、最大級の野洲川を、横田橋で渡ります。

 下の左の写真には、高架の手前に右に上る坂道がありますが、その先は橋の歩道がありません。高架を抜けて右に行くのが安全なルートです。

 

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※左、県道の高架。右、高架をくぐってこの坂道を上ります。

 野洲川鈴鹿山脈を源流とする、清冽な流れの河川です。横田橋辺りは中流域になるのでしょうか。少し大きなぐり石が河川敷を埋めていて、流れる速さも勢いがあるようです。

 この橋を渡ったら、その先にある歩道橋を上ります。そして、県道を横切って、右手の歩道に下り立ちます。この歩道は、丁度、野洲川の右岸道路となっていて、しばらくこの道を東へと進みます。

 県道の左側に見える、国道1号線の高架道路は、この先で県道を吸収し、三重県や愛知県へと向かうことになるのです。

 

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※左、横田橋。右、歩道橋から県道を望みます。左の高架が国道1号線。

 

 歩道橋を下りた辺りから、甲賀市の領域に入ります。甲賀市は、旧甲賀郡の幾つかの町が合併してできた街。宿場がある、水口や土山なども、その構成町のひとつです。

 

 横田渡し

 県道が国道に吸収されたその先の交差点を右方向に進みます。この道は、先にも説明したように、本来の東海道ではありません。かつての街道にあった、横田の渡しのところまで、今利用できる橋と道を歩きつないでいるということです。

 従って、この辺りは街道の面影はなく、車が行き交う整備された道路です。やがて、交差点から数百メートル進んだところで、右手前方に大きな常夜灯が見えました。

 ここが横田渡跡。ここから船などを利用して、対岸との往き来が行われていたのでしょう。

 

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※左、国道1号線を左に見て、真っ直ぐに延びる野洲川右岸道路を歩きます。右、横田渡跡。

 

 横田渡跡は、ちょっとした公園のように整備され、心地よいところです。その一角には、規模が大きな常夜灯がそびえます。野洲川の際に行き、対岸を眺めると、その昔、この川を渡って行き来した、旅人の姿が思い浮かぶような気がします。

 往き交う人々で賑わったであろう横田の渡し。「渡」跡に掲げられた説明板には、興味ある記述がありました。

 

 「伊勢神宮や東国へ向う旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも『横田河橋』の名が見えています。江戸時代に入り、東海道が整備され、当初は東海道13渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。そのため、他の『渡』と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に『渡』の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、3月から9月の間は4そうの船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。

 

 川を渡るには、今と違って色々と苦労があった様子です。同時に、こうした自然の要衝を管理することは、当時の治政や軍事の上からも、重要な施策だったことでしょう。

 箱根の関所や新居の関所は検問のゲートとしてよく知られた関門ですが、関所以外にも、街道には様々なチェックポイントのような場所があったのかも知れません。

 

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 ※横田渡跡の説明板。

 

 水口宿へ

 渡跡から先の道は、れっきとした東海道に戻ります。今来た道を、この位置で左折して、ここからしばらく「渡」を背にして進みます。

 街道は、その先で再び東に迂回して泉の集落へ。その直前に、泉の一里塚跡がありました。

 

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※左、「渡」を背にした道。右、泉一里塚。

 泉の集落辺りには街道沿いに水路が流れ、この区間は気持ちよく歩けるところです。その先は、道幅はやや広くなり、真っ直ぐに東に延びる整備されたような道路に変わります。

 沿道は広い農地が広がって、単調な道筋です。左手の向うの方には、東海道と並行して走る国道1号線を捉えることもできました。

 

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※水口宿への道。

 

 直線状の街道をしばらく進むと、やがてお店が点在する街中のようなところに入ります。そして、その先の信号がある交差点を左折して、すぐその先で右折です。右折する角にあるのが、林口の一里塚。神社敷地の角のところに、一里塚を示す石標がありました。

 

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※左、水口宿の西はずれ。老舗のようなお店が点在します。右、林口の一里塚。

 一里塚の角を右折して、上の右の写真に写る右方向の道に進んで行くと、いよいよ、水口の宿場に到着です。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]4・・・石部宿から水口宿へ(前編)

 湖南市の街道

 

 石部の町からしばらくは、再び栗東市の街道とよく似た雰囲気の道に戻ります。石部宿の次の宿場は水口宿。この間に、野洲川を渡ることになりますが、その辺りまでが湖南市です。

 この区間は、野洲川沿いに形成された、細長い平地に集落が連なります。東海道は、川の流れに逆らうように、上流へと向かいます。

 

 

 51番石部宿

 草津宿から12Km、ようやく石部(いしべ)の宿場に到着です。宿場町の入口からしばらくは、道幅も広く整備が進んだ感じです。新しい家が連なり、宿場町の面影はありません。

 先に進むと、次第に道幅は狭くなり、街道らしさが出てきます。途中には、やや長めのクランク状に、右に折れ左に折れる道となっていて、その辺りが宿場町の中心地の様子です。

 

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※石部宿の様子。

 クランクが左に曲がるところには、赤いのぼり旗が風にそよいで賑やかです。この角地には、「田楽茶屋」という古風な構えのお店が佇み、宿場町の雰囲気を盛り上げるのに、一役買っている様子です。

 クランクを過ぎてしばらく行くと、今度は右側に「石部宿驛」という無料の休憩所がありました。この休憩所は、元は膳所藩直轄の小島本陣跡の一部だったということです。休憩所の内部には、板張りの部屋の復元や、古い写真などの展示もあって、往時の宿場町の姿を実感できるところです。

 

 休憩所の直前に掲げられた説明版には、「石部宿には、幕府直轄と膳所*1直轄の2つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町としてさかえました。」と記されています。

 

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※左、石部宿驛の建物。右、その内部の様子。トイレもありました。

 

 石部宿驛を発ってさらに東へと向かいます。宿場町は、所々に昔の面影が残る格子戸の家や板塀を配した住居なども見られますが、概して町の様子は様変わりしています。沿道のほとんどは、改装された住宅です。それでも、道筋だけは往時の雰囲を伝えるように、緩やかな曲線を描きます。

 

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※石部宿の様子。

 

 甲西へ

 石部宿を後にして、野洲川からやや距離を開けた平地の中を、甲西方面に進みます。湖南市は、石部町甲西町の2つの町が合併して市制施行された地方都市。いずれの町も、現在の甲賀市と同様に、以前は甲賀郡に属していたということです。

 石部の町を通り過ぎると、かつての甲西町の領域に入ります。甲西では、栗東市の街道と同様に、幾つかの集落が沿道に貼り付きます。私たちは、一つひとつの集落の様子を味わいながら、歩き旅を続けます。

 

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※左、石部から甲西へ。右、甲西の街道。

 甲西の町に入って1Kmほど歩いたところで、家棟川という小さな川を渡ります。この川を渡った左の先が、JR甲西駅。そして、軌道の向うが甲西(湖南市)の中心地の様子です。野洲川は、中心地のさらに先を流れていて、東海道は、この辺りから、少し山に近い位置を通ります。

 

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※家棟川に架かる橋。

 夏見の一里塚

  家棟川を渡ると、再び街道は集落の中に入ります。この辺りは、夏見と呼ばれていているようで、少し進むと夏見の一里塚跡を示す案内がありました。 

 下の左の写真は、夏見診療所前の様子です。ここに案内板が掲げられ、この辺りが夏見の立場跡と言われているとの記載がありました。立場には、何軒かの茶店があり、名物のトコロテンや名酒”桜川”が売られていたということです。

 また、ここから約70m東の所に夏見の一里塚があったと記されています。記載のように、診療所から少し東に進むと、一里塚を示す案内板が現れました。

  

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※左、夏見の立場跡を説明する案内板。右、一里塚跡。

 

 この先しばらくは、これまでと同様に集落の中を進みます。その後、町並みが途切れると、街道は、JR草津線の踏切を越え、今度は軌道は右側に移ります。

 

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※左、集落の中の街道。右、JR草津線の踏切を渡ります。

 

 辺りは、少しずつ新しい街へと様子が変わり、右方向に小高い山が近づきます。やがて右側に、JR三雲駅(みくもえき)が見える交差点に差し掛かると、ここを左折することに。

 本来は、東海道はもう少し真っ直ぐ進むのですが、今はここを左折する以外の選択肢はありません。

 その理由は、野洲川です。かつては、三雲駅から500mほど先の所に横田渡しと呼ばれる渡し場があったようで、ここから野洲川を越えるのが本来の道筋しでした。ところが、今は渡し場はありません。そのために、三雲駅から左折して、横田橋を渡らなければ、街道歩きをつなぐことはできないということです。

 

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※左、三雲の集落。右、三雲駅前の交差点。車が見える方向が横田橋への道。

 この交差点からしばらくは、本来の東海道ではないものの、現道を辿って野洲川右岸の横田渡跡へと向かいます。

 

*1:膳所藩(ぜぜはん)は、現在の大津市にあたります。

歩き旅のスケッチ[東海道]3・・・石部宿へ

 栗東から石部宿へ

 

 栗東市の手原の町から、51番目の宿場町、石部宿(いしべじゅく)に向かいます。この区間東海道は、幾つかの集落をつなぐように延びていて、沿道には歴史的な建物などが見られます。街道自体も、往時のままの道筋で、趣を感じるところです。

 近年の開発の波が押し寄せても、都市計画道路などに飲み込まれることなく、今も緩やかに曲線を描く街道の姿は、貴重な歴史遺産と言っても過言ではありません。

 

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栗東市手原の街道筋。

 栗東の街道

 街道の面影が残る手原の道を、心地よい気分で歩いて行くと、今度は、六地蔵という集落です。この辺り、かつて街道沿いで営まれていた、商いを示す表札が掲げられ、往時の賑わいが偲ばれます。

 

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※「東海道 六地蔵村 表具師 『古梅堂』」の表札と、街道。

 

 六地蔵の集落の途中には、少しだけ、民家が途切れる区間が出てきます。その右手には、ポケット公園のようなスペースがあり、六地蔵一里塚の標石がありました。これは、草津宿を出発してから2つ目の一里塚。草津追分からは6Kmほどの地点です。

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六地蔵の一里塚。

 

 和中散
 一里塚を通り過ぎると、すぐにまた、趣のある街道に戻ります。そして、街道の右手には、大きな二階建ての由緒ある木造建物が見えました。軒につるされた「本家 ぜさい」という小さな木製看板が愛らしいこの建物は、江戸時代に「和中散」という薬を売っていた老舗のようで、”旧和中散本舗大角家住宅(本家ぜさいや)”として保存されているそうです。

 この薬、風邪や腹痛によく効いたとのこと。元々は、豊臣秀吉を介して定斎(じょさい)という人に伝わって広げられたということで、「ぜさい」という名前の由来になりました。

 そう言えば、大河ドラマの「麒麟がくる」では、駒という人物が調合する”芳仁丸”という薬が出てきます。徳川家康も重宝したとされるこの薬、何となく、和中散と通じるところがあるのでしょうか。

 

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※左、写真の右が大角家住宅。右、六地蔵も街道。遠方に見える山が三上山。

 三上山

 六地蔵の町をしばらく進むと、正面に富士山の形をした小高い山が望めます。この山は、草津宿から所々で確認できて、その形の美しさに魅かれるものを感じます。

 三上山(みかみやま)と呼ばれるこの山は、この辺りでは、”近江富士”の愛称で親しまれている神聖な山。俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治の伝説*1もよく知られているお話で、昔の旅人も三上山を眺めながら、武勇の人の功績を称えていたことでしょう。

 

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※三上山。

 

 栗東から湖南市

 六地蔵の町を過ぎても、次の集落が現れて、街道は一路東へと向かいます。やがて集落が途切れて農地が現れ、平地が狭まるような区間に入ります。

 その先には、名神高速道路の堤です。街道は、高速道路下のトンネルを抜け、石部宿がある湖南市の領域に入ります。

 トンネルの先は、辺りの景色は一転します。これまでの心地よい街道の風景とはガラリと様子が変わってしまい、ある意味、殺伐とした景色です。その理由のひとつは、右手にある採石場。また、左にはJR草津線の軌道です。やがて、荒れ地や工場の倉庫などの建物も現れて、街道の雰囲気は薄れます。

 

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※左、名神高速道路方面に進みます。右、国道1号線バイパスの高架下。

 

 この辺り、すぐ左手を走るJR草津線の軌道のさらに左に、国道1号線。そして、そのまた左が野洲川です。東海道はこの後、野洲川に沿うように鈴鹿山脈へと向かいます。

 東海道はやがて国道1号線の新しいバイパスの高架下をくぐって進み、石部の宿場に近づきます。石部宿を目前にしたところには、「五軒茶屋道と古道」という、金属の案内板が掲げられ、この辺りの街道のいきさつが簡潔に記されていました。

 

 それによると、1682年の8月に、この辺りが大洪水となり、東海道は流されて河原になってしまったということです。その後、右手の山の方に迂回する道が整備されたのですが、これまでより約2倍の距離となったようで、道中の安全を確保するため石部宿から5軒の茶屋が山中の新しい街道に移転したと記されています。

 そんなことから、山中の街道の沿線は五軒茶屋と呼ばれるようになって、その道が「五軒茶屋道」と称されました。ところが後年、明治の時代になって、1871年に、かつての道が整備され、それまでの東海道(古道)が復元されたということです。

 

 江戸期の大半が、山道を通るルートだったということは、今では、ある意味驚きでもありますが、河川の護岸がしっかりとしてきた近代だからこそ、川伝いのかつての街道がよみがえったのだと思う時、なるほどと納得できるような気がします。

 

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※左、「五軒茶屋道と古道」を記した金属板。右、石部宿の入口。

 

 「五軒茶屋道と古道」の案内板から先に進むと、道は2手に分かれます。東海道は、右手の方向。小さな橋を渡って石部の町に入ります。ちなみに、この分岐を左方向に行ったところが、JR草津線石部駅。街道は、新しい道の一筋南側を通ります。

 

*1:三上山に住む大トカゲは、山を7巻半もする巨大なもの。瀬田川の魚などを食い荒らし、人々に恐れられていたところ、俵藤太が勇ましく立ち向かって退治をしたというお話です。

歩き旅のスケッチ[東海道]2・・・草津宿を発つ

 草津追分から東海道

 

 都から江戸を目指して歩くとき、草津宿は大津宿に続く2番目の宿場です。京都三条大橋から蹴上の坂道を上って山科を越え、逢坂の関を過ぎると大津の宿場に入ります。その先は、膳所(ぜぜ)、石山を経て瀬田の唐橋へ。さらに、一里山の小高い丘を越えて進むと草津の宿場に到着です。

 この間は、東海道中山道が重なる区間往時は、大勢の旅人で賑わっていたことでしょう。

 草津宿には、今も、草津追分と呼ばれる街道の分岐点が残っています。ここから右に折れると東海道、真っ直ぐ進むと中山道という地点です。この2つの街道が次に出会うところは江戸日本橋草津追分からその先は、どちらの道を選ぶかで、旅の様相は大きく異なったに違いないと思います。

 

 草津宿は、江戸から数えて52番目の宿場町。中山道では68番目の宿場です。どちらの街道を歩いてきても、あと一息で京の都という場所です。

 今回の「歩き旅のスケッチ[東海道]」は、2つの街道が交わる、草津追分から始めます。

 

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草津追分。

 

 草津の街

 草津宿がある草津市は、滋賀県南部の地方都市。隣接する大津市とともに、湖南地域の市街地を形成しています。交通の便も良く、JR京都線琵琶湖線を利用すれば、大阪からは50分、京都からはわずかに20分という便利さです。

 JRは、草津駅で、中山道方面に進む琵琶湖線と、東海道方面に進む草津線に分かれます。この分岐は、さながら鉄道の追分といったところです。

 草津宿は、JR草津駅の東口を出て、商店街を少し南に向かったところです。今はもう廃川となった、草津川のトンネルを抜けると、左手に追分の道標が現れます。

 

 草津宿

 草津の宿場は、往時の面影が残る建物などはそれほど多くはありません。街の様子は、時代の波に抗えず、その姿を変えてきたという印象です。ただ、追分の道標と草津本陣の建物は良く保存されていて、東海道中山道の分岐点としての役割の重みが伝わります。

 

 草津

 私たちは、草津追分を出発し、東海道を東へと向かいます。追分からしばらくは、緩やかに曲線を描いた街道が延びていて、その先で、国道1号線を横切ります。

 国道を横切る場所は、国道と草津川が十字に交差するところです。元々国道は、天井川となっている草津川の河床の下に築かれたトンネルを通っていましたが、今は、草津川は廃川となっていて、国道部分の堤や河床は取り除かれてしまっています。

 東海道は、国道の手前で草津川の堤防を進むのが本来の道筋のようですが、前述のように、今はもうこの道はなく、歩道橋を渡らなければなりません。

 

 国道を横切ると、右手には、廃川となった草津川の堤防が見えました。少し進んだところには、かつて草津宿に向かう時に利用した、堤防に上がる東海道の坂道が現れて、そこには、東海道を示す道標がありました。

 ただ、この道は既に通行止め。今では、堤防道を歩くことはできません。

 

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※左、草津川に上がる坂道。本来なら、草津宿を出て国道手前で土手道を歩き、この坂を下って来ることになります。右、栗東の方向に続く東海道

 

 栗東

 草津川の堤防を右に見ながらしばらく歩くと、草津市の東隣の栗東市(りっとうし)に入ります。この辺りは、旧街道の雰囲気が何となく残っていて、趣がある道筋です。

 残念なのは、道幅が狭いわりに自動車の往来が頻繁で、歩くには、少し注意が必要なところです。

 

 街道は、東海道新幹線の高架下を潜り抜けると、沿線に古くからの住宅が貼り付きます。この辺り、道沿いに町が開けたような格好で、旅人をもてなす施設などがあったのかも知れません。

 しばらく歩くと、少しスペースが広がった三角地のような交差点(三差路)に差し掛かります。ここからは、真っ直ぐに道なりに延びる道と、左折して北東に進む道に分かれます。この三差路の右手には、再び河川の土手が現れますが、この川は、金勝川(こんぜがわ)と呼ぶそうです。

 

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※三差路の辺り。土手は、金勝川の堤防。 

 

  東海道は、この三差路を左折です。*1街道の様子はこれまでと同様で、古くからの集落がしばらく続きます。

 やがて右手にため池の堤が現れると、辺りは新しい町に変わってきます。この周辺には、国道1号線と8号線の分岐とか名神高速道路の栗東ICなどがあり、交通の要衝です。

 

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※左、三差路を左折して延びる東海道。右、写真右側がため池。

 

 ため池を過ぎ、新しい住宅地を進んで行くと、左手にJR草津線手原駅が見えました。これから先、50番目の宿場である水口宿(みなくちじゅく)の手前まで、この草津線とともに東海道も東へと向かいます。

 手原駅が左に見える交差点の右角には、稲荷神社の境内が広がって、朱塗りの木塀が鮮やかです。また、沿道には東海道を示す新しい石碑や常夜灯が街道の雰囲気を盛り上げています。

 

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※稲荷神社と東海道

 次回は、栗東市手原の町から51番石部宿を目指します。

 

*1:この三差路を道なりに真っ直ぐ進んで行くと、金勝川の右岸の道を上流へと向かう道になるようで、その先には、有名なJRAの栗東トレーニングセンターがあるようです。