旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]7・・・水口宿から土山宿へ(中編)

 土山へ

 

 次に向かう宿場町は土山です。土山は水口と同様に以前は町制を敷いていて、平成の合併で甲賀市となったところです。

 水口の宿場を離れた街道は、野洲川沿いに細長く開けた平地の中を、ゆったりと上流に向かいます。

 

 

 野洲川の右岸

 水口宿を後にして、かつて松並木があったとされる小高い丘のような地形のところを通り過ぎると、昔ながらの集落に入ります。この辺り、街道自体は昔の道筋を残してはいるものの、家並みはごく普通の集落の風景です。

 その後、一旦野洲川の右岸に沿った県道に合流し、その先で、再び左手の旧道に進みます。この先も、新たな集落が街道に貼り付くように延びていて、家並みを眺めながらの歩みです。

 

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※左、県道との合流地点。写真の右には野洲川が流れます。右、次の集落。

 

 300mほど続く集落を通り抜けると、もう一度、県道に合流します。その後、またしても、左手方向の道が現れて、分岐のところに東海道を偲ぶ石碑*1と、”カフェ一里塚”の案内がありました。

 私たちは、地図や案内を確認し、旧道と思われる左の道を進みましたが、実はその道は東海道ではないとのこと。途中で地元の方に声を掛けられ、親切に街道の道筋を教えて頂くことになりました。 

 正しい東海道は、前述した分岐のところを、あと200mほど県道伝いに真っ直ぐ進み、県道から直角に延びる坂道を上っていくルートです。私たちは、今来た道を引き返し、教わった道を辿って一里塚へと向かいます。

 

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※左、今郷の集落にある分岐。右端の道が県道で、左方向が間違って進んだ道。右、県道から直角に左方向に上る東海道

 今在家の一里塚

 県道から左に上る坂道の入口には、小さいものの、東海道を示す道案内標識がありました。ここから、住宅が貼り付く急坂を上ります。坂を上り切ったところはT字路で、左手が先ほど間違えたところに続く道。街道は、この角を右折して東へと向かいます。

 先を進むと、ほどなく、右側に一里塚然とした小さな塚と立派なエノキが現れました。ここが今在家の一里塚。付近は、少し修景されて、一休みすることも可能です。元は、この一里塚は今の位置より少し東側にあったということです。先ほどの分岐の所にあった”一里塚”という名のカフェが少し先にあったことから、その辺りが本来の一里塚の位置だったのかも知れません。

 

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※今在家の一里塚。

 

 水口から土山へ

 今在家の一里塚がある今郷は、野洲川右岸の集落のひとつです。川からは一段高いところに集落が貼り付いて、その中を街道が通ります。

 この集落の東の端は下り坂。坂を下って、もう一度県道に戻ります。そして、大野西の大きな交差点に差し掛かると、県道は国道1号線に吸収され、東海道は1号線の北側へと移ります。

 この交差点辺りが水口と土山の境です。この先街道は、幾度となく、国道1号線を横切りながら、土山へ、鈴鹿へと向かって行くことになるのです。

 

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※大野西交差点。広い道路は国道1号線。東海道は、櫓のようなモニュメントの左手の道。

 大野西交差点のところには、櫓のようなモニュメントの時計台がありました。そこの左手方向に、ひっそりと延びる細い道が東海道。交差点を渡ってこの道へと入ります。

 この辺りの沿道は、倉庫などの建物が点在する殺風景なところです。それでも、大野の集落に近づくと、少し趣が感じられる街並みに変化して、往時の旅籠跡の石標なども見られるようになりました。

 

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※左、大野の集落。右、「旅籠 東屋跡」の石標。

 

 大野の集落

 大野の集落が一旦途切れたところで、国道1号線を横切ります。ここには、歩道橋が設置され、橋の上からは、土山の宿場へと向かう街道を確認することができました。

 

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※左、大野の歩道橋。右、歩道橋から見た東海道

 

 歩道橋を渡り切ると、再び大野の集落が続きます。この辺り、かつて旅籠であったことを示す案内が幾つかあって、間の宿(あいのしゅく)であった様子です。間の宿は、宿場と宿場の間にある、休憩所のような位置づけの場所。正規の宿場とは認められてはいませんが、旅籠などもあったのだと思います。(この、”間の宿”については、「歩き旅のスケッチ[中山道総集編]9」で少し詳しく触れています。)

 緩やかに曲線を描いて続く街道と大野の集落の風景を味わいながら、歩様を先へと進めます。

 

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※大野の集落と街道。

 

 大野の集落のはずれ辺りは、かつては松並木があったところです。今でも少しだけ、松の姿が確認できて、並木道の名残を感じます。 

 

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※松並木の名残を感じる街道。

 野洲川の横断

 大野の集落が終わったところで、街道は2手に分かれます。本来は、左の道が東海道のようですが、横田の渡し*2と同様に、今は、旧道を進んでしまえば、野洲川を渡る手段がありません。やむを得ず、直進方向の、現代の道を進んで野洲川に架かる歩道橋を渡ります。

 この歩道橋は歌声橋と名付けられ、屋根がかかった姿と合わせて、親しみを感じます。下を見ると、川面からは結構の高さがあって、野洲川も、上流域に入った様子です。

 昔は、ここからさらに上流の”松尾の渡し”で川を渡っていたようですが、どのようにして往き来したのか、興味深いところです。きっと、歌声橋のところより、渡りやすい地形なのだと思います。

 

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野洲川に架かる橋。

 斎王と垂水頓宮

 歌声橋の手前の分岐を、本来の街道に沿って”松尾の渡し”の方向に進んで行くと、土山町頓宮(とんぐう)というところになるようです。

 頓宮は、平安時代を中心とした伊勢神宮に派遣された斎王の宿泊地。伊勢までの道中で数か所あった宿泊地のひとつが垂水頓宮ということです。

 雅やかな、平安期前後の宮中行事である斎王の群行(ぐんぎょう)は、現代人にとっては、ある種のロマンでもありますが、その当時は想像もつかない難行だったことでしょう。

 斎王のことについては、次回で少し触れてみたいと思います。

 

*1:その時はよく確認しなかったのですが、石碑の表題は”街道をゆく”と書かれていました。司馬遼太郎と関係がある碑かも知れません。

*2:「歩き旅のスケッチ[東海道]4」で紹介した、野洲川の渡しです。