水口宿へ
野洲川の横田橋を渡ると、甲賀市に入ります。この先、近江路の街道には、水口宿と土山宿の2つの宿場が控えます。そしてその先は、鈴鹿の峠。少しずつ標高を上げながら、峠の先に広がる伊勢の国に思いを馳せて歩きます。
甲賀市へ
横田の渡しは、昔のルート。今は、野洲川を越えるには、県道の横田橋を渡る以外に方法はありません。JR草津線の三雲駅前の交差点を左折した後、県道の高架下を潜り抜け、すぐに右方向の坂道を上ります。この坂を上った先が横田橋。
琵琶湖に注ぐ河川としては、最大級の野洲川を、横田橋で渡ります。
下の左の写真には、高架の手前に右に上る坂道がありますが、その先は橋の歩道がありません。高架を抜けて右に行くのが安全なルートです。
※左、県道の高架。右、高架をくぐってこの坂道を上ります。
野洲川は鈴鹿山脈を源流とする、清冽な流れの河川です。横田橋辺りは中流域になるのでしょうか。少し大きなぐり石が河川敷を埋めていて、流れる速さも勢いがあるようです。
この橋を渡ったら、その先にある歩道橋を上ります。そして、県道を横切って、右手の歩道に下り立ちます。この歩道は、丁度、野洲川の右岸道路となっていて、しばらくこの道を東へと進みます。
県道の左側に見える、国道1号線の高架道路は、この先で県道を吸収し、三重県や愛知県へと向かうことになるのです。
※左、横田橋。右、歩道橋から県道を望みます。左の高架が国道1号線。
歩道橋を下りた辺りから、甲賀市の領域に入ります。甲賀市は、旧甲賀郡の幾つかの町が合併してできた街。宿場がある、水口や土山なども、その構成町のひとつです。
横田渡し
県道が国道に吸収されたその先の交差点を右方向に進みます。この道は、先にも説明したように、本来の東海道ではありません。かつての街道にあった、横田の渡しのところまで、今利用できる橋と道を歩きつないでいるということです。
従って、この辺りは街道の面影はなく、車が行き交う整備された道路です。やがて、交差点から数百メートル進んだところで、右手前方に大きな常夜灯が見えました。
ここが横田渡跡。ここから船などを利用して、対岸との往き来が行われていたのでしょう。
※左、国道1号線を左に見て、真っ直ぐに延びる野洲川右岸道路を歩きます。右、横田渡跡。
横田渡跡は、ちょっとした公園のように整備され、心地よいところです。その一角には、規模が大きな常夜灯がそびえます。野洲川の際に行き、対岸を眺めると、その昔、この川を渡って行き来した、旅人の姿が思い浮かぶような気がします。
往き交う人々で賑わったであろう横田の渡し。「渡」跡に掲げられた説明板には、興味ある記述がありました。
「伊勢神宮や東国へ向う旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも『横田河橋』の名が見えています。江戸時代に入り、東海道が整備され、当初は東海道13渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。そのため、他の『渡』と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に『渡』の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、3月から9月の間は4そうの船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。」
川を渡るには、今と違って色々と苦労があった様子です。同時に、こうした自然の要衝を管理することは、当時の治政や軍事の上からも、重要な施策だったことでしょう。
箱根の関所や新居の関所は検問のゲートとしてよく知られた関門ですが、関所以外にも、街道には様々なチェックポイントのような場所があったのかも知れません。
※横田渡跡の説明板。
水口宿へ
渡跡から先の道は、れっきとした東海道に戻ります。今来た道を、この位置で左折して、ここからしばらく「渡」を背にして進みます。
街道は、その先で再び東に迂回して泉の集落へ。その直前に、泉の一里塚跡がありました。
※左、「渡」を背にした道。右、泉一里塚。
泉の集落辺りには街道沿いに水路が流れ、この区間は気持ちよく歩けるところです。その先は、道幅はやや広くなり、真っ直ぐに東に延びる整備されたような道路に変わります。
沿道は広い農地が広がって、単調な道筋です。左手の向うの方には、東海道と並行して走る国道1号線を捉えることもできました。
※水口宿への道。
直線状の街道をしばらく進むと、やがてお店が点在する街中のようなところに入ります。そして、その先の信号がある交差点を左折して、すぐその先で右折です。右折する角にあるのが、林口の一里塚。神社敷地の角のところに、一里塚を示す石標がありました。
※左、水口宿の西はずれ。老舗のようなお店が点在します。右、林口の一里塚。
一里塚の角を右折して、上の右の写真に写る右方向の道に進んで行くと、いよいよ、水口の宿場に到着です。