湖南市の街道
石部の町からしばらくは、再び栗東市の街道とよく似た雰囲気の道に戻ります。石部宿の次の宿場は水口宿。この間に、野洲川を渡ることになりますが、その辺りまでが湖南市です。
この区間は、野洲川沿いに形成された、細長い平地に集落が連なります。東海道は、川の流れに逆らうように、上流へと向かいます。
51番石部宿
草津宿から12Km、ようやく石部(いしべ)の宿場に到着です。宿場町の入口からしばらくは、道幅も広く整備が進んだ感じです。新しい家が連なり、宿場町の面影はありません。
先に進むと、次第に道幅は狭くなり、街道らしさが出てきます。途中には、やや長めのクランク状に、右に折れ左に折れる道となっていて、その辺りが宿場町の中心地の様子です。
※石部宿の様子。
クランクが左に曲がるところには、赤いのぼり旗が風にそよいで賑やかです。この角地には、「田楽茶屋」という古風な構えのお店が佇み、宿場町の雰囲気を盛り上げるのに、一役買っている様子です。
クランクを過ぎてしばらく行くと、今度は右側に「石部宿驛」という無料の休憩所がありました。この休憩所は、元は膳所藩直轄の小島本陣跡の一部だったということです。休憩所の内部には、板張りの部屋の復元や、古い写真などの展示もあって、往時の宿場町の姿を実感できるところです。
休憩所の直前に掲げられた説明版には、「石部宿には、幕府直轄と膳所藩*1直轄の2つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町としてさかえました。」と記されています。
※左、石部宿驛の建物。右、その内部の様子。トイレもありました。
石部宿驛を発ってさらに東へと向かいます。宿場町は、所々に昔の面影が残る格子戸の家や板塀を配した住居なども見られますが、概して町の様子は様変わりしています。沿道のほとんどは、改装された住宅です。それでも、道筋だけは往時の雰囲を伝えるように、緩やかな曲線を描きます。
※石部宿の様子。
甲西へ
石部宿を後にして、野洲川からやや距離を開けた平地の中を、甲西方面に進みます。湖南市は、石部町と甲西町の2つの町が合併して市制施行された地方都市。いずれの町も、現在の甲賀市と同様に、以前は甲賀郡に属していたということです。
石部の町を通り過ぎると、かつての甲西町の領域に入ります。甲西では、栗東市の街道と同様に、幾つかの集落が沿道に貼り付きます。私たちは、一つひとつの集落の様子を味わいながら、歩き旅を続けます。
※左、石部から甲西へ。右、甲西の街道。
甲西の町に入って1Kmほど歩いたところで、家棟川という小さな川を渡ります。この川を渡った左の先が、JR甲西駅。そして、軌道の向うが甲西(湖南市)の中心地の様子です。野洲川は、中心地のさらに先を流れていて、東海道は、この辺りから、少し山に近い位置を通ります。
※家棟川に架かる橋。
夏見の一里塚
家棟川を渡ると、再び街道は集落の中に入ります。この辺りは、夏見と呼ばれていているようで、少し進むと夏見の一里塚跡を示す案内がありました。
下の左の写真は、夏見診療所前の様子です。ここに案内板が掲げられ、この辺りが夏見の立場跡と言われているとの記載がありました。立場には、何軒かの茶店があり、名物のトコロテンや名酒”桜川”が売られていたということです。
また、ここから約70m東の所に夏見の一里塚があったと記されています。記載のように、診療所から少し東に進むと、一里塚を示す案内板が現れました。
※左、夏見の立場跡を説明する案内板。右、一里塚跡。
この先しばらくは、これまでと同様に集落の中を進みます。その後、町並みが途切れると、街道は、JR草津線の踏切を越え、今度は軌道は右側に移ります。
※左、集落の中の街道。右、JR草津線の踏切を渡ります。
辺りは、少しずつ新しい街へと様子が変わり、右方向に小高い山が近づきます。やがて右側に、JR三雲駅(みくもえき)が見える交差点に差し掛かると、ここを左折することに。
本来は、東海道はもう少し真っ直ぐ進むのですが、今はここを左折する以外の選択肢はありません。
その理由は、野洲川です。かつては、三雲駅から500mほど先の所に横田渡しと呼ばれる渡し場があったようで、ここから野洲川を越えるのが本来の道筋しでした。ところが、今は渡し場はありません。そのために、三雲駅から左折して、横田橋を渡らなければ、街道歩きをつなぐことはできないということです。
※左、三雲の集落。右、三雲駅前の交差点。車が見える方向が横田橋への道。
この交差点からしばらくは、本来の東海道ではないものの、現道を辿って野洲川右岸の横田渡跡へと向かいます。