栗東から石部宿へ
栗東市の手原の町から、51番目の宿場町、石部宿(いしべじゅく)に向かいます。この区間の東海道は、幾つかの集落をつなぐように延びていて、沿道には歴史的な建物などが見られます。街道自体も、往時のままの道筋で、趣を感じるところです。
近年の開発の波が押し寄せても、都市計画道路などに飲み込まれることなく、今も緩やかに曲線を描く街道の姿は、貴重な歴史遺産と言っても過言ではありません。
※栗東市手原の街道筋。
栗東の街道
街道の面影が残る手原の道を、心地よい気分で歩いて行くと、今度は、六地蔵という集落です。この辺り、かつて街道沿いで営まれていた、商いを示す表札が掲げられ、往時の賑わいが偲ばれます。
六地蔵の集落の途中には、少しだけ、民家が途切れる区間が出てきます。その右手には、ポケット公園のようなスペースがあり、六地蔵一里塚の標石がありました。これは、草津宿を出発してから2つ目の一里塚。草津追分からは6Kmほどの地点です。
※六地蔵の一里塚。
和中散
一里塚を通り過ぎると、すぐにまた、趣のある街道に戻ります。そして、街道の右手には、大きな二階建ての由緒ある木造建物が見えました。軒につるされた「本家 ぜさい」という小さな木製看板が愛らしいこの建物は、江戸時代に「和中散」という薬を売っていた老舗のようで、”旧和中散本舗大角家住宅(本家ぜさいや)”として保存されているそうです。
この薬、風邪や腹痛によく効いたとのこと。元々は、豊臣秀吉を介して定斎(じょさい)という人に伝わって広げられたということで、「ぜさい」という名前の由来になりました。
そう言えば、大河ドラマの「麒麟がくる」では、駒という人物が調合する”芳仁丸”という薬が出てきます。徳川家康も重宝したとされるこの薬、何となく、和中散と通じるところがあるのでしょうか。
※左、写真の右が大角家住宅。右、六地蔵も街道。遠方に見える山が三上山。
三上山
六地蔵の町をしばらく進むと、正面に富士山の形をした小高い山が望めます。この山は、草津宿から所々で確認できて、その形の美しさに魅かれるものを感じます。
三上山(みかみやま)と呼ばれるこの山は、この辺りでは、”近江富士”の愛称で親しまれている神聖な山。俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治の伝説*1もよく知られているお話で、昔の旅人も三上山を眺めながら、武勇の人の功績を称えていたことでしょう。
※三上山。
六地蔵の町を過ぎても、次の集落が現れて、街道は一路東へと向かいます。やがて集落が途切れて農地が現れ、平地が狭まるような区間に入ります。
その先には、名神高速道路の堤です。街道は、高速道路下のトンネルを抜け、石部宿がある湖南市の領域に入ります。
トンネルの先は、辺りの景色は一転します。これまでの心地よい街道の風景とはガラリと様子が変わってしまい、ある意味、殺伐とした景色です。その理由のひとつは、右手にある採石場。また、左にはJR草津線の軌道です。やがて、荒れ地や工場の倉庫などの建物も現れて、街道の雰囲気は薄れます。
※左、名神高速道路方面に進みます。右、国道1号線バイパスの高架下。
この辺り、すぐ左手を走るJR草津線の軌道のさらに左に、国道1号線。そして、そのまた左が野洲川です。東海道はこの後、野洲川に沿うように鈴鹿山脈へと向かいます。
東海道はやがて国道1号線の新しいバイパスの高架下をくぐって進み、石部の宿場に近づきます。石部宿を目前にしたところには、「五軒茶屋道と古道」という、金属の案内板が掲げられ、この辺りの街道のいきさつが簡潔に記されていました。
それによると、1682年の8月に、この辺りが大洪水となり、東海道は流されて河原になってしまったということです。その後、右手の山の方に迂回する道が整備されたのですが、これまでより約2倍の距離となったようで、道中の安全を確保するため石部宿から5軒の茶屋が山中の新しい街道に移転したと記されています。
そんなことから、山中の街道の沿線は五軒茶屋と呼ばれるようになって、その道が「五軒茶屋道」と称されました。ところが後年、明治の時代になって、1871年に、かつての道が整備され、それまでの東海道(古道)が復元されたということです。
江戸期の大半が、山道を通るルートだったということは、今では、ある意味驚きでもありますが、河川の護岸がしっかりとしてきた近代だからこそ、川伝いのかつての街道がよみがえったのだと思う時、なるほどと納得できるような気がします。
※左、「五軒茶屋道と古道」を記した金属板。右、石部宿の入口。
「五軒茶屋道と古道」の案内板から先に進むと、道は2手に分かれます。東海道は、右手の方向。小さな橋を渡って石部の町に入ります。ちなみに、この分岐を左方向に行ったところが、JR草津線の石部駅。街道は、新しい道の一筋南側を通ります。