旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]9・・・鈴鹿峠へ

 鈴鹿峠への道

 

 土山の次の宿場は、伊勢の国の坂下宿。2つの宿場の間には、東海道でも随一の難所とされる、鈴鹿峠が立ちはだかって、旅人の行く手を阻みます。

 近江の国と伊勢の国を隔てる鈴鹿の山並みは険しくて、今でも滋賀と三重とを往来するルートはそれほど多くありません。古くからの東海道の道筋辺りが、今も国道1号線が通過するところです。

 街道は、山の隙間を縫うように、峠を越えて伊勢坂下へと続きます。

 「坂は照る照る 鈴鹿*1は曇る あいの土山雨が降る」と唄われた鈴鹿馬子唄は、まさに、坂下宿やその先の関宿から、近江の土山に向かって峠越えをする馬子の人々が、口ずさんだであろう民謡です。

 土山は、地域のキャッチフレーズとして、「あいの土山」という言葉を発信し、プロモーションに活用されているのですが、もとは鈴鹿馬子唄からきた言葉。何とも親しみある響きです。

 

 

 田村神社

 土山宿を出た街道は、すぐに田村神社の境内に入ります。国道に面した鳥居をくぐり、木々が茂る参道を進みます。

 田村神社は、征夷大将軍として有名な、坂上田村麻呂ゆかりの神社です。奈良時代から平安時代にかけて活躍し、特に、嵯峨天皇に厚遇されたということです。この田村神社も、嵯峨天皇の命により築かれた神社ということで、田村麻呂自身が大明神として祀られているのです。

 

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※左、田村神社の入口。右、境内の参道。これが東海道です。

 

 海道橋

 田村神社の拝殿や本殿は、参道の正面奥となりますが、東海道は、境内の途中で右折して、神社から離れます。

 境内を側面から抜け出たところには、海道橋*2という小さな橋が架かります。田村川を横切る橋で、昔から木の橋が架けられていたということです。安藤広重東海道53次の絵の中で、土山を紹介した作品には、雨の中この海道橋を渡る大名行列の模様が描かれています。

 そんな由緒ある海道橋。ここを渡ると、街道は次第に坂道に変わります。

 

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田村神社の出口、海道橋の様子。写真の右端の絵が、安藤広重の作品。

 

 鈴鹿の坂道

 海道橋を渡ってしばらく進むと、東海道は、工場地域に差し掛かります。幾つかの工場の隙間を縫うように、かろうじて残された街道は続きます。

 途中には、「蟹坂(かにさか)古戦場跡」を記す石碑などがありました。この戦いは、16世紀の中頃に起こったようで、戦国時代の争いのひとつだったのかも知れません。

 道は緩やかな勾配の坂道となり、蟹が坂の集落に入ります。

 

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※左、蟹坂古戦場跡。右、蟹が坂の集落。

 

 蟹が坂を過ぎると、街道は一旦国道1号線に合流です。その後、数百メートル国道を歩いて、左手の旧道へと入ります。ここが猪鼻(いのはな)の集落で、かつては立場があったということです。家並みは、総じて今風に変わってはいるものの、集落内の道筋は往時の様子が偲ばれるような景観です。

 集落の中には、”猪鼻立場”と記された、往時の様子を物語る案内板がありました。それによると、「猪鼻集落は東海道土山宿から東へ約3Kmの位置にあり、江戸時代には立場として賑わった。立場とは、宿場と宿場の間で休憩するところ。旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。‥‥‥江戸時代には50戸余りの家があり、旅籠や商家・茶店などが6軒ほどあったといわれる。‥‥‥」と記されています。 

  

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※左、蟹が坂・猪鼻間の国道。右、猪鼻の集落。

 鈴鹿峠

 猪鼻集落を出た後は、再び国道に戻ります。この辺りの国道は、交通量はそれほど多くありません。どの車も、快調に速度を保って駆け抜けます。

 しばらくすると、前方には国道をまたぐ大きな陸橋が現れます。これは、新名神高速道路。近畿から三重方面に向かうのに大変便利な道路です。

 街道は、この陸橋の少し手前で再び左側の集落に入ります。集落の入口には、山中の一里塚。そして、集落の出口には、鈴鹿馬子唄を記念した、馬子唄公園がありました。

 山中の集落は、道幅が広がって、往時の様子が偲べるところはそれほど多くありません。山里の集落といった雰囲気です。

 

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※左、国道1号線と国道をまたぐ新名神高速道路の陸橋。右、山中の集落。

 鈴鹿馬子唄

 山中の集落のはずれの馬子唄公園。そこには、トイレなども設置され、一休みできるところです。園内には、鈴鹿峠の石碑や鈴鹿馬子唄の解説が書かれた案内板などがありました。

 それによると、

 

 「近江・伊勢の国は鈴鹿山脈で隔てられ、2つの国を行き来するには必ず峠を越えなければならない。江戸時代の東海道鈴鹿峠を越えていたが、「東の箱根、西の鈴鹿」と言われるように旅人には非常な難所であった。

 その為にこの峠を人や荷が越えるのには馬の背を借りることが多くなり、馬の手綱を引いて駄賃を取る馬子たちも多く存在した。彼らの間で自然発生的に唄われたのが鈴鹿馬子唄で、日本各地に伝わる馬子唄や追分節とよく似ており、ゆっくりとした調子で哀愁を帯びた節で唄われる‥‥‥」

 

 ということです。

 

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※左、馬子唄公園。右、公園の裏が国道1号線と接しています。

 鈴鹿馬子唄の歌詞は、このブログの冒頭で紹介したとおり、伊勢側の関宿や坂下宿から坂道を上って峠を越え、土山に向かう様子がドラマのように描かれています。

 

 「坂は照る照る」は、上りの坂道は良い天気が広がっているものの、「鈴鹿は曇る」で、峠は次第に雲行きが怪しくなってきて、「あいの土山雨が降る」。

 

 この、最後のフレーズが面白く、「あいの土山」とはどういう意味かということが色々と詮索されているのです。どうも定説はないようですが、今の土山では、”愛の土山”のような意味合いでキャッチフレーズとされているのでしょうか。

 実際は、伊勢側と峠を隔てて”相対する”土山、という意味とか、土山が”山間の土地”だから、という説もあるようです。ただ、街道を歩く途中で目に止まった案内には、”あいの”は、”あいのう”を表しているとのこと。

 ”あいのう”とは、方言で、”間もなく”という意味があり、「鈴鹿峠が曇って来ると、間もなく行き着くであろう、その先の土山は、雨が降っていることだろう」というような情景が浮かんでくるのです。 


 さあ、いよいよ鈴鹿峠に近づきます。次回は鈴鹿の峠を越えて、伊勢の国に入ります。

 

*1:鈴鹿は曇る」を「峠は曇る」とされる歌詞もあるようです。

*2:写真に写っているように、”海道橋”が正しいのだと思いますが、”街道橋”とされている資料もあるようです。”海道橋”は、海に架かる橋のようなイメージです。本来は、”東海道橋”という意味のような気がします。