池鯉鮒
東海道を歩きつつ、今後訪れる宿場の名前を調べていた時、「池鯉鮒宿」を知りました。初めは、その読み方がわからずに、「いけこいふな」と読むのかどうか、不思議な名前の宿場町もあったのかと、新鮮な気持ちになりました。
調べてみると、「ちりゅう」と読むということです。そう言えば、知立市は、愛知県の地方都市。どうして宿場は「池鯉鮒」なのか、地名の由来に興味をそそられたものでした。
カキツバタの町
逢妻川(あいづまがわ)を渡った後、左岸堤防の道と並んで、もう一つ、左手に少し下る坂道が現れます。この道が東海道。池鯉鮒宿の入口です。
下り坂は、すぐ先で右手に大きく折れ曲がり、住宅地の中に入ります。
※池鯉鮒宿の入り口付近。
街道は、ごく普通の住宅地の風景ですが、さらに進むと、次第に道幅は狭くなり、緩やかな上り道に変わります。かつての宿場町の面影を、ほとんど感じることはできないものの、道の流れそのものは、往時の雰囲気を残しています。
よく見ると、道に埋められたマンホールには、あの有名なカキツバタの歌(唐衣の歌)が刻まれていたのです。
からころも きつつなれにし つましあれば
はるばるきぬる たびをしぞおもふ
※唐衣の歌が刻まれたマンホール。
唐衣の歌
この歌は、伊勢物語の第九段に記されているもので、高校時代に古文の教材として学んだことをよく覚えています。
「むかし をとこありけり」で、始まる幾つかの段が有名で、この「をとこ」は、定説として、在原業平(ありわらのなりひら)とされています。
在原業平は、平安前期の人で、友人と東の国に向かう途中、道に迷い、池鯉鮒にある八橋(やつはし)に立ち寄ります。(八橋は、知立市の北東にある地名で、今も、八橋かきつばた園と呼ばれる名勝地があるようです。)そこには沢があって、そのほとりの木陰で休憩ををするのですが、その沢には沢山のかきつばたの花が咲いていたのです。
ある人が、在原業平に「かきつばたといふ五文字を句の上にすえて、旅の心をよめ」と言われて詠んだ歌が、先の歌。みごとに、か・き・つ・ば・た、の文字が句に収められています。
八橋は、池鯉鮒宿とは少し離れたところにありますが、知立市では大切にされている歴史の証を残す場所。地域の誇りの場所と言えるでしょう。
※左、池鯉鮒宿の中心辺り。突き当りを右折します。右、右折後の宿場。右奥が知立古城址。
知立古城
池鯉鮒宿の中ほど辺りの街道は、クランク状に折れ曲がります。途中には、知立古城址の案内板が設置され、古城の様子が描かれています。
※知立古城の案内板。
池鯉鮒宿
それはさておき、ここで、「池鯉鮒」のいわれを記さなければなりません。知立の町は歴史が古く、早くから「知立」という字が使われていたようです。街道近くに知立神社があることからも、その説は頷けなくもありません。
やがて、東海道が整備され、多くの旅人がこの地を訪れるようになりました。そして、知立神社の池に飼われていた、たくさんの鯉や鮒を見て、「池鯉鮒」という字が定着したというのです。宿場の名前は池鯉鮒宿。鯉や鮒が池に泳ぐ姿を思い描いて、旅人は、この地を目指してきたのでしょう。
※池鯉鮒宿の中心辺り。道はクランク状に折れ曲がります。
東へ
池鯉鮒宿があった街中を、東へと進みます。街道は、狭い道幅が続いていて、昔から拡張されていない様子です。途中には、国道155号線を渡る地下道が。さらには、再びクランクになったところもあって、道筋の確認を怠ることができません。
※池鯉鮒宿の道筋。
やがて、ホテルが建つ交差点に差し掛かり、街の様子が一変します。この交差点を右に向かったところが、名鉄の知立駅。街道は、交差点を直進です。
道沿いには、ところどころに鰻の店などもありますが、概ね、旧市街地の住宅地。緩やかに弧を描きながら街道は東へと続きます。
松並木
しばらくすると、街道の左手からは、国道1号線が迫ります。街道は国道と、鋭角状に交差して、その後、国道の北側を通って安城市の方角へ。
この鋭角状になった御林の交差点。地下道で、国道1号線を渡ったその先には、立派な松並木の道が続きます。
※御林の交差点。
東海道は、今も多くのところに松並木が残っていて、街道歩きの雰囲気を盛り上げます。特に、池鯉鮒から舞阪までの街道には、あちこちで、松並木の道を通ります。また、神奈川県も松並木は有名で、今後の旅の楽しみです。
ところで、この池鯉鮒の松並木。今も、500mにわたって、約170本の松が並んでいるということです。並木の中は、自動車道路で、歩行者は、並木の外側に整備された歩道を進まなければなりません。
少し残念な状況ではありますが、それでも、延々と続く松の並木は、東海道の圧巻のひとつです。
※左、松並木の西の入口。右、松並木の様子。
松並木を歩き進んで、安城市へ、そして、次の宿場の38番岡崎宿を目指します。