旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]41・・・舞坂宿から浜松宿へ

 舞阪

 

 舞阪は、今は浜松市に属します。平成の大合併で、近隣の自治体と共に、浜松市の一部となりました

 前回の記事でも触れたように、地名や駅の名前は「舞」で、宿場の名前は「舞」です。どうして、「坂」の字が異なっているのか、その理由は分かりません。ただ、江戸時代には「舞坂」の表記がされていて、その後、「舞阪」に変化したということです。大阪が、元は大坂であった理由と同じなのかも知れません。

 うなぎの町として有名な舞阪の町。浜名湖に溶け込むように設けられた数々の養殖池は、この地域を代表する風景の一つです。

 

 

 舞坂宿

 今切の渡し(いまぎれのわたし)の舟を降りた旅人は、すぐ目の前に真っ直ぐ延びる、舞坂の宿場に入ります。人々は、ここで、浜名湖や海の幸に舌鼓を打ちながら、旅の疲れを癒したのかも知れません。

 この舞坂は、今はもう、宿場町の面影を残すところは、それほど多くありません。ところどこに設置された標識や説明板を眺めては、往時の町の様子を想像しながら歩きます。

 

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※舞坂宿。

 

 脇本陣

 宿場町の入口から少し進むと、右側に、由緒ある木造の建物が現れます。脇本陣と書かれた提灯が、玄関先に吊るされた建物は、間口こそ、それほどではないものの、重厚な構えの屋敷です。

 玄関前に掲げられた説明では、舞坂宿には、「本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に、脇本陣(茗荷屋)」があったとのこと。「脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設」とされ、普段は、一般の人々も宿泊していたということです。

 この脇本陣は、「現在書院棟1棟が残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物」であるとも記されています。天保9年(1838)に建築された、脇本陣。舞坂宿の証を伝える、大切な史跡です。

 

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脇本陣の建物。

 

 舞坂の一里塚

 宿場町の街道は、住宅や小さなお店が入り混じる、一筋の通りです。通りの中ほど 辺りには、舞坂の一里塚跡の石標や、新町常夜灯跡などがありました。

 

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※左、宿場の通り。右、一里塚跡。

 松並木へ

 街道をさらに東に進むと、浜松の市街地に向かう国道との交差点に至ります。鋭角に交わるこの交差点の左先、東海道は、松並木の道へと変わります。

 この先は、しばらくの間、見事な松の並木が続きます。

 

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※浜松に向かう主要道路との交差点。

 

 東海道の松並木は、これまでも、折に触れて紹介してきたところです。街道が、都市化の波にさらされて、自動車道路に姿を変えつつある中で、今でも往時の姿を残してくれる並木の道は、心が安らぐ道中です。

 愛知県の知立や藤川、御油にあった並木道は、それこそ素晴らしいものでした。そして、ここ舞坂の松の並木も、それらに劣らず、見事な景観を放ちます。

 

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※舞坂の松並木。

 

 私たちは、この松並木の中央辺りで、一旦街道を離れることに。並木道を左に折れて、少し進んだところが、JR東海道本線舞阪駅。この日の街道歩きは、時間的な制約もあり、ここで行程を終了です。

 新居駅から弁天島、舞坂の宿場を通過して、舞阪駅まで、8Kmほどの道のりでした。翌日は、舞阪駅を起点として、浜松市へと向かいます。

 

 浜松への道

 翌朝、舞阪駅に降り立って、昨日離れた、並木道の地点へと戻ります。街道歩きは、再びここからスタートし、一路東を目指します。

 しばらく、並木道の歩道を歩くと、やがて松並木は終了です。その先の街道は、都市にある一般道路の様相に変わります。整然と整備された道筋は、もう、街道の面影はありません。ところどころに姿を見せる、寺院や神社などの佇まいが、何となく、歴史を偲ばせるスポットです。

 

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※西本徳寺。

 道は次第に、住宅地の中へと入ります。途中には、稲荷神社の森が現れ、その先に、篠原の一里塚跡の表示です。 

 

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※左、稲荷神社。右、篠原の一里塚跡。

 さらに、住宅が続く道を歩くと、やがて、浜松の市街地を目指す主要道路に合流します。辺りの景色は、次第に沿道サービスの看板が目立つ状況に。そして、車道には、頻繁に自動車が往き交います。

 この辺りは、浜松市の高塚という街で、直ぐ左奥には、JRの高塚駅。浜松駅の一つ手前の駅舎です。

 

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※高塚の街。

 

 可美の街

 高塚は、かつて、「可美村」という名の自治体の一つの町を形成していたところです。この辺りは、浜松市に取り囲まれるように残された、れっきとした、独立した地方自治体だったのです。

 ただ、近年まで、可美村として存続してきた背景は、浜松市に取り残されたというよりも、むしろ、可美村が合併を望んでいなかったのだと思います。この可美村は、自動車メーカーのスズキが本社を置いた企業城下の様相で、単独の自治体として、十分に役割を果たすことができたのです。

 それでも、時代の波に抗うことが叶わなくなったのか。1991年に、ついに、浜松市に吸収合併されることになりました。

 

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※旧可美村にある熊野神社

 可美村という、企業城下の自治体の存在は、いかにも、高度経済成長と昭和の名残であるかのようで、ある種の郷愁を感じます。

 都市の気配を漂わせている、可美の村を歩き進むと、次第に浜松の街が近づきます。

 

 街道の名残

 浜松に向かう街道は、幹線道路と化していますが、ところどころに、松並木の名残りを感じる、大きな松の木も見られます。

 また、幾つかの史跡も点在し、歴史ある道の様子が窺えます。下の右側の写真に写る建物は、二つ御堂と呼ばれていて、東北の武将であった、藤原秀衡にゆかりがある史跡です。

 

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※左、浜松に向かう道路には、ところどころに街道の松の名残が見られます。右、二つ御堂。


 浜松宿へ

 若林の一里塚跡を通り過ぎ、かつての、可美村の領域を抜けると、浜松の街が近づきます。

 行く手には、新幹線の高架がはしり、その奥には、浜松駅の隣接地に築かれた、浜松アクトシティーの高層タワーが勇壮です。

 

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東海道新幹線の高架とアクトシティー