三河の山地越え
街道は、しばらくの間、小高く広がる山間の道に入ります。この山地、愛知県の北部から、三河湾の蒲郡(がまごおり)にかけて連なるため、豊橋に向かうには、この山間を通り抜けなければなりません。
久々の山間の道と、ひっそりと佇む、間の宿(あいのしゅく)の本宿(もとじゅく)や、36番赤坂宿などの宿場町。普段なら、立ち寄ることがない場所で、新鮮な風景を見ることができました。
吉良道
藤川の見事な松並木が途切れた後、名鉄の名古屋本線の踏切を越えると、藤川の宿場です。
街道が東へと向かう中、宿場の入口付近には、右方向に鋭角に曲がり込む坂道が。街道とその坂道の角地には、「吉良道(きらみち)」と刻まれた道標がありました。
この坂道は、「吉良道」と言われるように、三河湾の吉良*1方面に向かう道。主要都市の岡崎ではなく、どうしてこの藤川に吉良への分岐ができたのか、少し不思議な気もします。
岡崎は主要な城下であるため、吉良藩は、敢えてこの藤川を東海道との結節点に選んだのかも知れません。何れにしても、道標の脇に立つ案内には、「吉良道」は、大名行列や海産物の運搬など、重要な役割を持つ脇道だったと記されていています。
※吉良道の道標。
やじさん・きたさん
海産物に関しては、「東海道中膝栗毛」にも、藤川宿の西のはずれの茶屋で一服した、やじさん・きたさんの場面が登場します。
江戸の頃、藤川では魚を扱う茶屋があり、その軒先にはタコや魚が干されていたとのこと。その軒に吊るされた、干物用のタコを見て、やじさんは次の一句を詠んだのです。
ゆで蛸の むらさきいろは 軒ごとにぶらりとさがる 藤川の宿
タコの紫と藤の花の紫。いずれもだらりとぶら下がる様子を滑稽に表現した唄は、何とも、心が和みます。
藤川宿
藤川宿の西側は、今は宿場町の面影はありません。それでも、所々に残された杉並木の延長は、街道の景観を盛り立てます。
今ではもう、その姿は見られませんが、藤川の一里塚跡を示す案内板もありました。
※左、藤川宿の西側。右、藤川の一里塚跡。
十王堂
宿場の中を進んで行くと、次第に、宿場町の雰囲気が漂う景色に変わります。街道の右手には、十王堂というお堂が現れ、その傍に、厳かな芭蕉の句碑がありました。
ここも三河 むらさき麦の かきつばた
かつては、三河の地で、紫の穂をつける麦が栽培されていたとか。また、池鯉鮒(ちりゅう)のカキツバタとともに、この辺りでもカキツバタの花は有名だったのでしょうか。往時の情景が目に浮かぶような一句です。
※左、芭蕉の句碑の前に立つ説明板。右、十王堂。
藤川駅
十王堂のすぐ傍にある、細い道を左に進むと、名鉄の藤川駅に至ります。私たちの、今回の街道歩きは、一旦ここで区切りをつけて、数週間後に、再びここから豊橋の吉田宿に向かいます。
藤川駅は、小さな駅ではありますが、たくさんの若者の姿を見かけます。そう言えば、近くの山の中腹辺りに、幾つかの大学などがあるようで、学生たちの最寄り駅になっている様子です。
さらに、駅の向うに国道1号線が通過して、駅と道路の間には、”道の駅・藤川宿”の施設もありました。
再び藤川宿から
数週間後、私たちは藤川駅に降り立って、再び、赤坂宿や豊橋の吉田宿を目指します。
藤川宿の後半は、落ち着いた町並みです。所々に古い木造の建物が残るほか、石標や街道の雰囲気を盛り立てるモニュメントなども見られます。
※藤川宿の様子。
藤川宿は、国道が街道を避けるように通っているため、道そのものは、往時の姿を残しています。宿場の町並みの面影は、それほど残していませんが、良い雰囲気のところです。
とりわけ、本陣跡の冠木門や再現された高札場などは、宿場町を後々に伝えるために、重要な役割を果たしています。
※本陣跡。
さらに進むと、趣のある、漆喰が塗られた建物が目につきました。老舗の人形店のような看板が掲げられ、宿場町にひとつのアクセントを与えています。
※老舗の人形店。
国道へ
街道は、藤川の宿場を後にして、一旦、国道1号線と合流です。左右から山が迫る、切通しのような国道を、緩やかに上りながら東へと進みます。
※国道との合流点。
国道の歩道を数百メートル進んだ先で、街道は、左方向の旧道に入ります。その先は、舞木の集落を経て、山中という集落へ。文字通り、山の合間に連なるような町並みのところです。
山中の集落の途中には、名鉄の山中駅もありました。少しずつ、坂道を上りながら東へと向かいます。
※、左、旧道への入口。右、舞木の集落。
本宿へ
山中の集落の先で、街道はもう一度、国道に合流です。しばらくの間、名鉄の軌道と国道に挟まれながら、窮屈な歩道を歩きます。
やがて、国道が軌道から離れた先には、”本宿町沢渡”の交差点。この交差点の右前方には、数本の松の大木が見えました。街道は、ここで国道からそれ、松が植わる右側の旧道に入ります。
※左、山中の集落を出て、国道に合流します。右、松の大木の右側の道が街道です。
本宿
旧道に入ったところは本宿(もとじゅく)と呼ばれていて、2つの宿場の間にある、間の宿(あいのしゅく)と位置づけられる場所であったということです。
松並木の名残のような、松が植わる三角地には、本宿に関する説明板がありました。それによると、
「是より東 本宿村 赤坂宿へ壱里九丁」
「本宿は往古より街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前町を中心に町並みが形成された。・・・近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。」
と記されています。
何となく、宿場の雰囲気が感じられる、本宿の街道を東へと向かいます。