旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]34・・・御油宿と姫街道

 松並木から豊橋の街へ

 

 街道は、山間の道を通り抜け、次第に平地へと向かいます。辺りの景色も変化して、徐々に市街地の空気を感じる街並みへ。

 赤坂の次の宿場の御油宿は、東海道脇街道として有名な、姫街道との分岐です。東海道姫街道。何れの道を選ぶのか、かつては、色々と悩ましい選択だったことでしょう。

 御油宿を後にした街道は、三河東部の中心地、豊橋市に近づきます。豊橋は、吉田宿を擁しながら、吉田城の城下町として発展したところです。

 

 

 御油の松並木

 赤坂の宿場を発つと、すぐに松並木の道に入ります。よく保存され、整備されたこの並木道。御油の松並木として有名です。

 知立や藤川に残る松の並木も、それこそ見応えのあるものですが、御油はそれらを上回っていると思います。国の天然記念物にも指定されているこの松並木、東海道を代表する景観のひとつと言えるでしょう。

 

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御油の松並木。

 

 御油宿へ

 松並木を通過すると、間もなく、御油の宿場に到着です。直前の赤坂宿と御油宿は、わずか1.7Kmの間隔しかありません。見事な松並木を愛でている間に、辿り着いてしまいます。

 御油宿の入口辺りは、古い木造の建物が何軒か見られるものの、全体として、町並みの特色はありません。

 街道は、真っすぐに延びていき、途中でクランク状に折れ曲がります。

 

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※左、御油宿の入口。右、御油宿の解説。

 

 赤坂宿と御油宿

 御油宿の入口に掲げられた説明では、36番赤坂宿と35番御油宿は、東海道の宿場間では最も短い距離であるとのこと。当初、2つの宿場は1宿分の役割を果たしていたとも記されています。

 また、ある解説では、元は1つの宿場であって、いつの日か、松並木を整備して2つの宿場に分けられたということです。

 何れにしても、この距離で2つの宿場が隣接している背景には、何らかの重要な理由があったのかも知れません。

 

 想像するに、37番藤川宿と34番吉田宿は、概ね20Kmの距離。この間には、三河の山地が広がります。山間の区間をすり抜ける街道の中間に位置するのが赤坂宿と御油宿で、ここには、宿場の機能は不可欠だったのだと思います。

 火災が絶えない宿場にあって、何れかは必ず機能させる意味合いもあったのではないかと想像しても、あながち間違ってはいないような気がします。*1

 

 御油宿

 御油宿は、天保14年(1843)には、316軒の家があり、本陣2軒(当初は4軒であったものが、2軒は天保4年の火災で消滅)、脇本陣は無し、旅籠は62軒であったということが、宿場入口の解説に書かれています。

 赤坂宿には、80軒の旅籠があったということで、2つの宿場を合わせると、都合142軒の宿場。これは、尾張の宮宿に次ぐ規模であり、相当な賑わいの情景が目に浮かんできそうです。

 

 姫街道

 御油宿の東のはずれ辺りには、街道の追分の表示がありました。「これより姫街道 遠州見付宿まで」というもので、東海道の脇道として整備された街道の起点です。

 姫街道は、御油宿から、豊川、三ケ日を経て、浜名湖の北岸を辿りつつ、気賀の関所に至ります。その後、浜松で東海道と合流することになりますが、一旦迂回路へと進んだ後、再び磐田市の見付宿で東海道に入ります。

 

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姫街道との分岐点。

 

 姫街道東海道双方の、御油宿と見付宿の間の距離は、それほど差異はないと思います。両者の違いは、浜名湖の北を通るか、南を往くかというものです。そのために、北回りの姫街道は、本坂(ほんざか)の峠越えが控えていて、南回りの東海道は、浜名湖を渡る今切(いまぎれ)の渡しの渡船が必要です。

 その他の重要な違いは、姫街道は気賀の関所を通ること。そして、東海道は、新居の関所の難関です。

 

 姫街道という、心が和むような道の名は、令和の時代の今日でも、地元では親しまれている通称名。何とも愛着を感じる名前です。

 この名の由来については、幾つかの説があるということですが、最も興味を惹かれる説は、やはり、「お姫様」に関するもの。つまり、女性が好んだ道というものです。

 この説の根拠のひとつは、関所の難易度によるものとか。女性の往来に厳しかった東海道の新居の関所。それに比べて、気賀の関所はそれほどでもなかったというものです。*2

 もうひとつの説としては、浜名湖の渡船の行程が、女性には敬遠されたというものです。

 女性が安心して通過できる関所の存在と陸路の行程。これこそが、姫の道と呼ばれるようになった所以ではないかと思います。

 

 そう言えば、姫街道の道中にある気賀の関所は、遠江の国(とおとうみ)の引佐(いなさ)というところです。引佐には、井伊谷(いいのや)と呼ばれる町があり、そこは、井伊家発祥の土地なのです。

 井伊家は、井伊直政彦根藩の初代の藩主。そして、井伊谷の最後の藩主が、あの、女城主の井伊直虎です。女性である直虎が愛した街道こそ、地元を通る姫街道だったとしたら‥‥。少しロマンを感じてしまいます。

 

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※左、御油宿を後にして、東へ。右、大社神社。

 

 国府(こう)へ

 街道は、御油宿を出た後、国府の町へと向かいます。

 私たちのこの日の行程は、国府にある、名鉄国府駅で終了です。今回は、藤川駅から出発し、赤坂宿、御油宿を経て国府駅へ。次回には、国府から、豊橋の吉田宿を目指します。

*1:東海道の道案内の解説サイト「人力」では、『赤坂御位(御油の元の名?)』は非常に大きな宿場であったので、五街道整備の時、徳川家康の命により中央に松を植え、赤坂宿と御油宿の2つの宿場に分けられたと解説されています。

*2:ただ、関所の難易差が本当にあったのか。異議を唱える人もいるようです。