豊橋の平野へ
間の宿(あいのしゅく)の本宿(もとじゅく)と、36番赤坂宿、35番御油宿は、山地を通る街道にある宿場です。この区間の街道は、一部を除いて、かつての道筋が良く残り、山間の景色を楽しみながら歩けます。
街道筋が保存された理由としては、岡崎と豊橋とを結ぶJR東海道本線が、三河山地を迂回して、海沿いの蒲郡を通ったためと言えるのかも知れません。ただ、今では、街道のすぐ傍を、国道と名鉄名古屋本線の軌道が通る、交通の要衝です。
本宿
本宿(もとじゅく)は、本来の宿場町ではありません。門前町として発展しながら、藤川と赤坂の宿場の間の、休憩所の役割を果たしていたということです。享和2年(1802)には、家数121軒、立場茶屋が2か所あり、旅人の休憩の場として繁盛をきわめたと言われています。
今はもう、往時の建物そのものは、ほとんど残ってはいませんが、道端に残る松の木や、道標、祠など、道筋は宿場町の雰囲気を感じます。
集落の入口から少し進んだところには、一里塚跡を示す石標もありました。
※左、一里塚跡と本宿の様子。右、本宿の町並み。
法蔵寺
本宿の中ほどに差し掛かった辺りの右手には、厳かな寺院の境内が広がります。この境内の正面奥が法蔵寺。本宿が門前町として発展した、礎となる寺院です。
※法蔵寺。
冠木門
街道は、緩やかな坂道を上りながら、ゆったりと東に向かいます。木造の古い家屋を眺めながら、本宿の集落を通り過ぎ、その先で国道1号線に入ります。
国道と並行した、歩道のような道を進むと、道路をまたいだ冠木門が待ち構え、本宿の東の入口を示しているような光景です。
※本宿の東のはずれの冠木門。
赤坂へ
冠木門を潜り抜け、しばらくは、国道の歩道を歩きます。左右から低い山並みが迫る中、国道は標高の最も低い辺りをすり抜けるように進みます。勾配が、途中から少し下り坂になったような気がしたところで、街道は、右方向の旧道へ。
この先は、道は狭い下り坂。旧道の道幅がそのまま残ったような道筋です。
※左、国道関谷の交差点。ここから右手の旧道へ。右、長沢の集落。
長沢
旧道が通る集落は、長沢というところ。街道は、延々と東に延びて、次第に山が開けます。
途中には、長沢の一里塚跡を示す標識がありました。塚などは、もう、その姿を留めていませんが、畑地の際にひっそりと立つ塚跡の証を見ると、昔の姿が思い浮かぶような気がします。
※左、長沢の一里塚跡。右、長沢の集落の様子。
赤坂宿
細長い街道を進んで行くと、長沢の集落の建物もまばらになって、次第に農地が現れます。そして、その先が赤坂の宿場です。
宿場の入口辺りは、ごく普通の集落です。それでも、少し歩くと、雰囲気の良い、茶屋のような建物が見えました。この建物は、公共の休憩所。トイレなども整備され、長沢の集落を長距離歩いた者にとっては、ありがたい場所でした。
※赤坂休憩所。
赤坂宿と呼ばれるところは、中山道の大垣にもあり、同じ名前の宿場です。地名の由来は分かりませんが、赤土に関係しているのかも知れません。それ以外には共通点がある訳でもなく、たまたまの一致なのだと思います。赤坂の地名は東京ではあまりにも有名ですが、この名は、各地に残っているのでしょう。
旅籠屋
宿場の中は、今はほとんどその面影はありません。新しい住宅や、少し年月を経た建物が並びます。
それでも唯一、休憩所の少し先に、かつての旅籠の建物が見えました。この建物は、大橋屋と呼ぶようで、私たちが訪れた時、保存修理が整って、公開の直前だったように思います。大橋屋の隣接地は公園のような空間で、そこがかつての脇本陣。この界隈は、宿場町の雰囲気が味わえます。
赤坂宿は、文化6年(1809)に、大火に見舞われたということです。どの程度の火災だったか分かりませんが、大橋屋の建物も、それ以降に建てられたと記されています。
また、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、赤坂宿には、本陣が3軒あり、脇本陣は1軒あったということです。
※赤坂宿の様子。
飯盛女
私たちは、赤坂の宿場にあった小さな食堂で、この日の昼食をとりました。そこは、女将さんがお一人で切り盛りされているようで、私たちにも気軽に話し掛けてくださいました。
その時のお話で、印象的だったのが、宿場で働いていた女性に関することでした。その概要は、この辺りの宿場には、どこからともなくたくさんの女性が仕事を求めてやってきて、労働の末、身体を壊して亡くなる人も多くいたということです。そのために、近くにある、幾つものお寺では、このような方々を引き受けて、供養されてきたというのです。
そう言えば、幾つかの宿場や街道に関する解説書を読むと、その多くに、「御油や赤坂、吉田がなくば、なんのよしみで江戸通い」と言われていたと記されています。特に、この辺りの3か所の宿場では、数多くの飯盛女(めしもりおんな)という方たちが旅人を持てなしていて、それを楽しみに、多くの旅人は、これらの宿場を訪れていたというのです。
飯盛女とは、単に給仕をする女性のことではなく、遊興を伴う職だったようで、36番赤坂宿、35番御油宿、34番吉田宿は、そうした宿場として名が通っていた様子です。
今、街道を歩く私たちは、かつて、宿場の賑わいの中で内包された、人間臭い一面も、素通りしてはいけないと、教えられたような気がします。
※赤坂宿の東の入口、見附跡。
御油宿へ
赤坂宿の次の宿場は御油宿(ごゆじゅく)です。赤坂と御油の間はわずかに2Km。東海道では、最も近い宿場です。
2つの宿場を隔てている松並木を通り抜け、御油の宿場に向かいます。