旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]38・・・観音正寺(後編)

 安土

 

 第32番目の霊場は、近江の国の観音正寺。この古刹がある場所は、先の札所の長命寺と同じ街、滋賀県近江八幡市というところです。元々、観音正寺周辺は、安土町という自治体でしたが、平成22年に合併し、今の状態になりました。

 安土と言えば、織田信長安土城が余りにも有名ですが、その名を冠する自治体がこの近江の地にあったのです。安土城は、観音正寺の繖山(きぬがさやま)に隣接する、西側の小高い山の上にありました。今も幾多の石垣が残されて、往時の栄華を伝えています。

 楽市楽座で発展し、賑わいの町だったであろう安土の地。一時代前の世も、観音寺城の城下としてかなりの規模の町並を形成していたのだと思います。

 

 

 境内図

 お釈迦様の銅像を過ぎ、本堂へと向かいます。途中には、「再興 蘇る悠久の聖地」と表示された境内の俯瞰図がありました。

 この図から分かるように、観音正寺の境内は細長く続いています。繖山の頂にほど近い場所。少し変わった境内の形です。

 説明書きにもあるように、観音正寺は、平成5年(1993)に大火に見舞われ、本堂などが焼失したということで、再興の事業が進められている様子です。

 

※境内に掲げられた俯瞰図。

 本堂

 境内の奥に進むと、正面が本堂です。火災により焼失し、平成16年に再建されたということで、まだ、新しい香りが漂います。

 参拝は、この本堂の右奥から堂内に入りこみ、内陣前で行います。新しい板張りで新鮮さを感じる堂内には、これもまだ新しそうな、立派な白檀の千手千眼観世音菩薩が置かれてます。

 私たちは本尊前で手を合わせ、御朱印をいただきます。

 なお、この本堂のお参りは、堂内で、別途500円の参拝料を支払います。と言うことは、山に上る途中のゲートで支払ったのは駐車場料金なのでしょう。山の管理も、確かに経費は必要です。

 ありがたい、第32番霊場の参拝を終え、お堂を一巡りさせていただきました。

 

※本堂。

 

 本堂の右側面から、内部の様子をご覧いただきたいと思います。新しい再建のため、歴史の重みは感じませんが、また少し、違った味わいを体験できるお堂です。

 

※本堂の右側面。ここから中に入ります。

 

 石群の斜面

 本堂での参拝後、お堂の出入口の向かい側にあったのは、見事な石の造形です。そこには、斜面一体に、石仏なのか何なのか、石垣を積む石材のような石の数々が積まれた場所がありました。

 よく見ると、石の間には、観音像など幾つかの仏さまも見られます。

 

※本堂横にある石群。

 

 石群の下を見ると、細長い小さな池もありました。蓮が植えられ仏さまも見られます。あるいは、観音浄土の模倣なのか、なかなか見応えのある一角です。

 

※石群と石群下の蓮池。

 

 帰路

 本堂を後にして帰路の途へ。本堂を背にした境内は、下のような状態です。右側は、山の斜面の崖地となって、左手に幾棟かの建物が並んでいます。

 先ほどの俯瞰図では、この先に観音堂の再建が予定されているようです。2025年頃の落慶予定と記されているため、何年か後に訪れた場合には、また違った境内を見ることができるのでしょう。

 

※本堂を背にした観音正寺の境内。

 

 湖東平野

 境内を離れる前に、再び、湖東平野が広がる景色を愛でることができました。平地に広がる田園地帯のあちこちに、小高い丘のような山々が島のように浮かんでいます。

 右方向の三角状の小さな山は、前回も紹介した、三上山。近江富士とも呼ばれていて、俵藤太(藤原秀郷)の大ムカデ退治の伝説が残っています。

 そして、その手前にある横長の丘陵地が、鏡の里と呼ばれるところだと思います。源義経元服の場所と伝えられるこの里は、大海人皇子(のちに天武天皇)の妃であって、後に、天智天皇の妃となった額田王(ぬかたのおおきみ)の出生地とも言われています。

 あるいはまた、天智天皇の妃でありながら、藤原鎌足に嫁ぐことを命じられた、鏡姫王(かがみのひめみこ)の故郷とも伝わります。

 

観音正寺の境内から俯瞰した湖東平野

 

 上の写真の中央から左に延びる山脈は、信楽や伊賀へとつながる山々でしょう。

 豊穣の近江の土地は、あくまでも平和な空気が流れていますが、この地は、まさに要害地。かつては、この土地で、幾多の争いが繰り広げられてきたのです。

 

 駐車場へ

 私たちは、来た時と同じ道を駐車場へと戻ります。延々と続く石段は、下りには、それほど負担は感じません。

 ところどころに置かれた石は、前掛けがかけられて、まるでお地蔵様のよう。信心深い参拝者によるものか、或いは、観音寺城の悲哀を伝える証としての石仏なのか。山全体が、観音様の加護を受け、今も静かに来る人を迎えています。

 

※石段の道端に置かれた石仏。