旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]37・・・観音正寺(前編)

 観音寺城

 

 三十三所の古刹を周る観音霊場の巡礼は、いよいよ残すところあと2か寺となりました。最終の谷汲山華厳寺のひとつ前、第32番目となる霊場は、近江の国、安土の丘を俯瞰する繖山(きぬがさやま)に境内が広がります。

 この霊場は、正に観音巡礼の名の如く、観音正寺と呼ばれています。遠くは、聖徳太子にゆかりを持つ寺院とのことですが、むしろ近江の地で名を馳せた豪族の、佐々木六角氏との繋がりが色濃く漂うところです。

 それもそのはず、室町の時代には、繖山には観音寺城と名付けられた有名な山城がありました。応仁の乱に呼応して、幾多の攻防が繰り広げられた戦地の城。時代は、この城の衰退と相まって、戦国の世へと向かいます。

 

 

 繖山(きぬがさやま)へ

 観音正寺(かんのんしょうじ)の境内がある繖山(きぬがさやま)は、別名、観音寺山とも呼ばれています。近江八幡の市街地の北東にあり、JR琵琶湖線安土駅から2キロほど東側に位置しています。

 安土城址の安土山とは、隣り合わせの山ですが、その大きさは随分と異なります。勇壮な容姿を誇る繖山は、まるで湖東平野に君臨してでもいるかのように厚い壁を築いています。

 観音正寺は、この山の頂近く。歩いてのアクセスは、何通りかの道があるのでしょうが、容易に登れる山ではありません。一般には、車での参拝となるでしょう。車で向かう場合には、安土側の南の道を北に向かう方法と、北側の五箇荘の町の導入路から山に入る方法の2つの選択があるようです。

 私たちは、安土側から、山の中に向かいます。

 木々が覆う山道を進んで行くと、やがて、入山のゲートです。そこで入山料(駐車料?)500円を支払って、さらに数百メートル上にある、駐車場に進みます。

(もしかして、五箇荘側からのアクセスの方が、駐車場から楽に境内に向かえるかも知れません。安土側は以下に紹介するように、かなりの石段を上る必要があります。)

 

※安土側からアクセスした場合の駐車場。

 

 石段

 駐車場がある場所は、繖山の中腹よりもやや上の位置だと思います。ここまで車で来たのですから、頂上はもう少しと思いきや、そこからは、まだ、石の階段が続いています。

 それでも、それほどきつくはないものと、余裕の気持ちで、石段の入口へと向かいます。

 

※駐車場から石段の入口へと進みます。

 

 暫くは、リズムよく石段を上って行きますが、ジグザグに続く傾斜の道は、どこまでも上に続いて、その先が見えません。

 長命寺の石段は、808段という目標があり、そのご利益を背負いつつ上り進めたものでした。ところが、ここ観音正寺は先が見えない状態です。次第に体力は消耗し、不安が募る道筋です。

 

※どこまでも続く石段。

 

 石垣

 石段は、まだまだ先に続きます。勾配もさらに急になり、休み休み進んで行かなければなりません。

 やがて、木々の間に、石垣の一部が見えました。まるで、お城の石垣かと思えるような石積みで、もしかして、観音寺城の痕跡かと思えるようなものでした。

 

観音寺城の石垣でしょうか。石段はまだまだ続きます。

 

 境内へ

 かなりの石段を上ったところで、真っ直ぐに上を目指す急勾配の石段が現れます。先を見ると、少し空が開けた感じ。おそらくそこは、観音正寺の境内となるのでしょう。

 あとひと踏ん張り、最後の急坂を進みます。

 

※最後の急階段。

 

 予想の通り、直線状の石段を上り詰めると、その先は、平坦な境内です。幅は狭く、山の尾根を削ったような場所ですが、その先は、細長い境内が続いています。

 

 仁王像

 歩を進めると、山門は無く、代わりにむき出しの仁王像が構えています。かつては山門があり、そこに仁王像があったのか。その変遷は分かりませんが、少し変わった境内の入口だと思います*1

 

※むき出しの仁王像が参拝者を迎えています。

 

 近くから、仁王像を見上げた写真を紹介します。風雨に晒された状態ですが、良く管理され、厳格さがにじみ出ているように感じます。

 

※仁王像。

 

 聖徳太子

 仁王像の間を通り境内に踏み込むと、今度は左手に、聖徳太子の立像がありました。背後には、緑広がる湖東の平野が見下ろせます。

 この近江の平地は、まさしく、額田王大海人皇子が和歌でやり取りした蒲生野を含む土地であり、遠方には、近江富士の愛称を持つ三上山(みかみやま)も望めます。

 

 ”あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る”

 

聖徳太子像と湖東の平野。

 観音正寺の縁起

 お寺で頂いた資料には、「観音正寺は1400年の昔、聖徳太子が巨岩の上で舞う天人を見て、その岩を『天楽石』と名づけられました。・・・その後、釈迦如来大日如来の二仏が現れ観音の化身である聖徳太子に千手観音像を霊木で彫像するようにと啓示を受け、尊像を刻み安置されましたのが始まりです。」と書かれています。

 この寺院の縁起には、聖徳太子が深く関わっているようです。伝説の域は出ないとは思うのですが、何となく、由緒を感じる境内です。

 

 本堂へ

 私たちは、境内をさらに奥へと進みます。途中には、お釈迦様の銅像も参拝者を迎えています。そして、その奥の正面には本堂の建物が見えました。

 

※境内には、釈迦像も見られます。奥に見えるのが本堂です。

 

*1:お寺で頂いた資料を見ると、「仁王像 山門をもたない当寺の門固め」とあり、往時からこのスタイルだった様子です。