旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]4・・・白沢宿と鬼怒川

 鬼怒川

 

 奥日光に端を発する鬼怒川は、渓谷を流れ下って、関東平野の北部地域に注ぎます。その先は、下野(しもつけ)から常陸の国へ。そして、利根川の流れと合流し、犬吠埼の先端で、太平洋に入ります。

 鬼怒川温泉でよく知られるこの川は、名前からも、鬼の印象を拭い去ることはできません。事実、温泉では、鬼の絵が観光客を迎えています。流域のどこかの町に、鬼の伝説でもあるのでしょうか。或いは、洪水が頻発する暴れ川から、鬼を連想したのでしょうか。

 名前の由来を調べてみると、古代のこの地方を”毛野国”(”けぬこく”、あるいは、”けのこく”)と呼び、”けぬがわ”が、”きぬがわ”となったとか。

 鬼とは直接関係は無いようですが、やはり、数年前のこの川の氾濫を思い起こすと、どうしても、鬼の怒りと結びつけてしまいます。

 

鬼怒川温泉を流れる鬼怒川と温泉街から橋に下りる階段の鬼の絵。今回の旅の途中に訪れました。(奥州道中の沿線ではありません)

 白沢宿の中心地へ

 「白沢宿」の標識が置かれたバス停前を通りすぎると、街道は、右方向にゆっくりと弧を描く、下り道に入ります。

 どことなく、寂しさを感じる坂道ですが、眼前には、郷愁を誘う風景が広がって、街道情緒が味わえます。

 

※宿場町へと向かう坂道の街道。

 やげん坂

 宿場町の中心部へと向かうこの坂道は、”やげん坂”と呼ばれています。途中、道端に置かれていた説明板には、「この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、『やげん坂』と呼ばれるようになったと言い伝えられています。」との紹介がありました。

 坂道の中ほどに差し掛かったところには、再び、「白沢宿」の標識です。そして、その右隣りには、「江戸時代の公衆便所跡」の表示板と、小さなバラックづくりの建物がありました。

 「江戸時代の公衆便所」、という言葉自体、初めて目にしたものですが、当時から、そのような施設があったのかと、施設を見ながら、妙に納得したものでした。

 

※やげん坂の中ほどに差し掛かったところ。右には、標識や小さな建物が見えます。

 白沢宿

 やげん坂をさらに下ると、いよいよ白沢宿の中心部に入ります。道沿いの民家の壁には、「紺屋」など、かつての宿場の屋号が書かれた、木製の標識が掲げられ、歴史の証しを伝えています。

 坂道を下りきると、白沢宿の交差点。街道は、このT字路の交差点を左へと進みます。

 

※左、屋号が懸かる民家の壁。右、白沢宿の交差点。

 白沢宿は、宇都宮から11キロほど離れています。かつては、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は13軒ありました。

 交差点を左に折れると、こうした宿場町の片鱗が、わずかながらも残っています。宿場通りの町並みは、水路と歩道が美しく整備され、時折見かける歴史ある建物と、よく調和しているように感じます。

 

※白沢宿の様子。左中程には、歴史ありそうな木造建物も見られます。

 

 一区切り

 昼過ぎに宇都宮の追分を発った私たち、夕刻に、ようやく白沢宿に着きました。この日の、奥州道中初日の旅は、一旦ここで一区切り。そこそこの疲労を感じつつ、バス停留所を探します。

 宿場町を歩いていると、幾つかの停留所を見かけます。バスの時刻との兼ね合いで、私たちは、道筋の北端の「白沢小学校入口」の停留所まで歩を進め、そこからバスに乗ることになりました。

 この日はバスで宇都宮駅へと引き返し、駅近くで一夜を過ごします。

 

※白沢小学校入口のバス停留所。正面奥は、酒造の蔵元です。

 

 宿場町を後に

 翌日、バスで再び白沢宿に舞い戻り、続きの道を歩きます。この日は、午後から雨予報。早いうちに、少しでも距離を稼ぎたいところです。

 宿場町の先にある、老舗の酒屋前を右に折れ、鬼怒川方面へと向かいます。曲がり角の内側には、小さな神社の祠です。道行く人を見守るように、静かにその姿を隠しています。

 

※宿場町の突き当りを右に折れ、鬼怒川へと向かいます。

 

 街道は、しばらくすると、白沢の町中を後にして、農地が広がる道筋に変わります。そして、その先には、もう一つの集落です。

 見上げると、厚い雲が近づく様子。どんよりとした空を眺めて、先の道を急ぎます。

 

※白沢宿を後にして、農地に入った街道。

 

 途中、小さな川を横切ると、街道は、次の集落に入ります。

 

※西鬼怒川と言うのでしょうか。小さな川を越え、次の集落に入ります。

 

 一里塚

 小さな集落の中を通り過ぎると、左手の空き地のところに、「白澤の一里塚」と刻まれた、大きな石柱がありました。

 傍に置かれた説明板を見てみると、「古文書には、白澤の一里塚は日本橋から三十番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、度々の洪水で壊れてしまったと記されています。」と書かれています。

 ここに置かれた石柱は、後世にその歴史を残すために置かれたもので、地域の方々の郷土愛が窺えます。

 

※「白澤の一里塚」の石柱。

 

 鬼怒川へ

 街道は、緩やかに弧を描き、まばらに残る、農村の民家の道をすり抜けます。

 

※緩やかに弧を描く街道。

 

 やがて、道は、鬼怒川の堤防へ。その先は、堤防道を左に向けて進みます。

 

※鬼怒川右岸堤防に突き当たった街道。

 

 鬼怒川の右岸堤防に達した街道は、しばらくの間、整備された堤の道を進みます。右側は、鬼怒川の河畔林が視界を遮り、左には農地が広がります。

 しばらくすると、堤防から河畔林の中に入る、坂の小道が現れます。街道は、その坂道の方向です。

 

※鬼怒川の右岸堤防道。右の写真の中央に、河畔林に向かう道があり、そこを入って行きます。

 鬼怒川の渡し跡

 河畔林の中を進むと、やがて、鬼怒川の河原です。そしてそこには、それこそ貧弱な、板造りの標識がありました。

 標識には、右方向が白沢宿、左が氏家宿(うじいえじゅく)と書かれています。中央の木杭には、「鬼怒川の渡し跡」。その昔、ここから舟で、対岸を目指したのだと思います。

 

※鬼怒川の渡し跡と鬼怒川。

 

 今は、鬼怒川の渡しはありません。私たちは、このやや上流に架けられた、県道125号線(白沢街道)の、阿久津大橋を利用して、対岸に向かいます。