旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]11・・・興福寺南円堂

 西国三十三所(第二章)

 

 今回から、10回のシリーズで、再び「巡り旅のスケッチ」を綴ります。紀州熊野の青岸渡寺から始まった、西国観音霊場を巡る旅。紀伊半島の西側を、紀ノ川から泉州へ、そして、河内、飛鳥と辿った後に、三輪山の奥に姿を隠す長谷寺へ。春頃に一区切りした第一章では、この長谷寺までの巡拝を書きとめてきたところです。

 今回からの第二章、まず、奈良平城京へと足を進めて、興福寺へと向かいます。その先は、京都の南部、宇治、伏見を辿った後で、近江の国へ。そして、再び京の都に戻ります。

 

 

 平城京

 

 奈良盆地の南の地域に展開する、幾つかの霊場を巡り終え、奈良の都、平城京に入ります。奈良県では、残すところあと一つ。奈良市の中心部にほど近い、奈良公園の一角にある、興福寺南円堂だけとなりました。

 この興福寺、歴史は古く、平城京が築かれるよりさらに昔になるようです。かつて、都が転々とした時代の中で、都の後を追うように、所在地を変えたこの古刹。遂には、ここ、奈良の都に辿り着くことになりました。

 

 

 奈良公園

 興福寺は、奈良公園の西のはずれに位置しています。JRや近鉄線の奈良駅からは、公園内に踏み入って、まず最初に目にとまる寺院です。

 この興福寺、通常の寺院とは、少し趣が異なります。ここは、何と言っても開放的。境内は、どこが境界なのか、俄かには分かりません。

 塀が囲んでいるのはごく僅か。入り口は、どこにでもあり、どこからでも、自由に境内に入ることができるのです。

 

※東金堂と五重の塔。就学旅行生や観光客が縦横に境内を横切ります。

 

 中金堂

 興福寺の中心の建物は、中金堂(なかこんどう)と呼ばれています。このお堂、長い間工事が続き、最近(平成30年10月)、ようやく完成(再建)したみたいです。

 装いを新たにした、中金堂。私たちが訪れた時には、外周の門扉は固く閉ざされ、離れた場所からその姿を眺めることになりました。

 

※新装再建された中金堂。

 

 興福寺南円堂

 西国三十三所の札所の地は、広大な興福寺の境内の南西の端にある、南円堂(なんえんどう)と呼ばれるお堂です。このお堂の中に、不空羂索(ふくうけんさく)*1観音菩薩があるようで、観音霊場の第9番目として、多くの参拝者が訪れます。

 

 南円堂は、先の、中金堂の正面を真っ直ぐに西に向かった突き当たり。円というより、八角形の気品ある容姿を誇っています。

 

※中金堂から東に向かいます。正面が南円堂。

 

 南円堂は、広々とした境内に比べれば、実に小じんまりとした建物です。本堂ではない小さなお堂が、札所として位置付けられた、少し珍しいタイプの霊場です。

 私たちは、お堂の前で参拝し、すぐ右手にある納経所で御朱印をいただきます。

 

※洪福寺南円堂。

 

 興福寺のこと

 興福寺は、藤原氏ゆかりの寺院です。私たちは、当初、そのことを知らずに手を合わせていましたが、参拝後、南円堂のすぐ傍で語られていた、ボランティアのガイドさんから、その事実を教わりました。

 興福寺の始まりは、大化の改新の主役の一人、中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)の正妻の、鏡女王(あるいは、鏡王女(かがみのおおきみ))が、鎌足の病気回復を祈願して造営したと言われています。*2

 大化の改新と言えば、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と中臣鎌足が、時の実力者、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、大王の権力を固めるに至った出来事です。

 その後、中大兄皇子は即位して、天智天皇となるのですが、都を、飛鳥から大津へと移します。その大津の地で病に臥せった鎌足を救うため、興福寺の前身のお寺が建立されたということです。

 

※南円堂前から、手の中金堂、正面の東金堂と五重の塔を望みます。

 

 ところが、大津京は、そう長くは続きません。有名な、壬申の乱が起き、天智天皇後継の、大友皇子は亡くなります。

 王権を争ったこの内乱は、当初から、後継を嘱望されていた、天智天皇実弟大海人皇子(おおしあまのおうじ)こそ仕掛け人。この大乱の勝利を受けて、大海人皇子は、天武天皇として即位することになるのです。

 

※猿沢の池方面の斜面から、興福寺南円堂を見上げます。

 

 鏡女王

 先ほども触れたように、大津京で病に臥せった鎌足のため、鏡女王の命により、建立されたと伝えられる興福寺鎌足への愛情が、ひしひしと伝わるお話です。

 ところが、実は、鏡女王は、元々は、鎌足の君主である、天智天皇の妃だったのです。天皇を愛したからこそ、その天皇の命に従い、鎌足に嫁いだとの説*3もあるこの婚姻。天皇が、自らの妃を部下に与える世の中とは、どのような世界だったのか。今ではとうてい、理解することはできません。

 ところが、この頃の婚姻関係は複雑です。鏡女王と同じ時代を生き抜いた、額田王(ぬかたのおおきみ)は、当初、大海人皇子の妃となりますが、その後、兄である天智天皇の妃へと迎えられていくのです。(ちなみに、天智天皇の娘達は、大海人皇子に嫁いでいます。特に、天智天皇の次女である鵜野讃良(うのさらら)皇女は、天武天皇の後継、持統天皇として即位しています。)

 

※南円堂と猿沢の池をつなぐ石段。ここからも興福寺に進むことができます。

 

 複雑な人間関係が交錯する世の中で、誰を信じ、誰を疑うべきなのか。あるいは、誰を頼り、誰を葬り去るべきなのか。

 血縁関係の在り方こそは、かつての時代と現在とでは、随分と異なるものではありますが、権力に生きる人々の内実は、今も、それほど変わってはいないのかも知れません。

 藤原鎌足の病気回復を祈願して、その正妻の鏡女王が建立した興福寺。妻が夫を想う心は、伝わりはするものの、天智天皇を慕いとおした女王であればこそ、むしろ、同じ大津で病に臥した、この天皇の快癒こそ、祈願したかったのかも知れません。

 

※夕暮れ時の猿沢の池。興福寺のすぐ南下に位置しています。

 

*1:難しくて良く分かりませんが、「羂索」とは、網を指すようで、観音様が、網を手にし、救いの表現をしているとのこと。

*2:ただし、南円堂は、平安時代に入ってから、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が建立したお堂です。鏡女王とは直接の関係はないようです。

*3:この辺りのお話は、黒岩重吾著『茜に燃ゆ 小説額田王』に詳しく描かれています。