最終回
「歩き旅のスケッチ[日光道中]」のシリーズは、今回が最終回。既に、本来の街道歩きは、前回で終点の日光神橋(しんきょう)に到着し、その目的を終えたのですが、今回は、エピローグとして、もう少しだけ日光を巡ります。
最終回にあたっては、奥の細道の旅をした、芭蕉と曾良の影を追い、2人が訪ねた、日光の幾つかの名所を周ります。
前回から引き続き、東照宮の境内です。
昨年(2022)の11月、まだ、完全に新型コロナの流行が収まっていない時期。それでも、外出を控える空気は、一気に緩んできた感じです。
東照宮には、修学旅行の子どもたちが、あちこちで列をなし、波打つように本殿を目指しています。それと併せて、アジアやインド、欧米からの観光客も、至る所で見かけます。
世の中は、遂に、長い長い忍耐の時期を通り過ぎ、コロナ前の状態に戻りつつあるようです。
※御本社の入口にあたる陽明門を望みます。
東照宮の本殿にあたる御本社(ごほんしゃ)の正面には、豪華絢爛の粋を極めた陽明門が構えています。数多くの彫刻を配した門の姿は荘厳で、見事と言う他ありません。
陽明門の奥に見える御本社は、参拝客でごった返しの状態です。私たちは、拝殿には上がらずに、その手前で手を合わせ、参拝を終えました。
「卯月朔日(うづきついたち)、御山に詣拝(けいはい)す。」
一方の芭蕉たちは、旧暦の4月1日、出立後わずか4日目にして、ここ日光東照宮に辿り着き、参詣を行うことになるのです。
※陽明門とその奥の御本社。
御本社前での参拝を終え、再び陽明門から退出します。
陽明門の左右に続く、御本社を取り囲む塀も立派です。これほどまでの彫刻が配された神社などは、これまで、あまり見たことがありません。
光り輝く、金色(こんじき)を基調とした神殿が放つ意味は何なのか。家康の後光の光、或いは、この国の統一を象徴する光なのかも知れません。
※陽明門に続く装飾豊かな塀など。
二荒山(ふたらさん)神社
東照宮を後にして、私たちは、その西側に鎮座する、二荒山神社に向かいます。この神社のことについては、「歩き旅のスケッチ[日光道中]27」でも、少し触れたところです。
その時に綴ったように、宇都宮の街中にも、同じ名前の二荒山神社があるのです。ただ、宇都宮は”ふたあらやまじんじゃ”と発音します。その由来なども異なるために、2つの神社は全く別物だということです。
さて、杉の森の参道をさらに奥へと進んで行くと、「二荒山神社」と刻まれた、大きな石の門柱と山門が現れました。ここが、古くから信仰された二荒山なのでしょう。
勝道上人が開山し、この土地の一角に、家康を祀った二荒山。悠久の歴史を背負い、今も厳かに佇みます。
※二荒山神社の入口。
二荒山神社の境内には、「日光二荒山神社ご由緒」と題された、この神社の成り立ちが記された、説明板がありました。
ここで、少しだけ、その内容を紹介したいと思います。
「二荒山神社は、神鎮まります御山として古来より信仰されてきた霊峰男体山(二荒山)を御神体山とし、天応2(782)年に男体山の山頂にお祀りしたのを始まりとする。「二荒」を音読みして「ニコウ」、これに「日光」の字をあてニッコウと読み、日光の地名の語源にもなっている。」
※二荒山神社の由緒が書かれた案内板。
『おくのほそ道』
以前にも、触れたのですが、『おくのほそ道』の本文にも、「二荒山」と「日光」のことが書かれています。
「往昔(そのかみ)、此の御山を「二荒山(ふたらさん)」と書きしを、空海大師開基の時、「日光」と改め給ふ。」
空海が御山を開いたと言うことは、明らかに間違いだと思うのですが(岩波文庫の解説でも、「誤伝」と書かれています)、まさに、「日光」の語源については、由緒書と同様です。
私たちは、本殿前に足を運んで、歴史ある二荒山神社に参拝します。
観光客でごった返しの東照宮とは正反対。静かな空気が流れる境内です。
ちなみに、”ふたらさん”とは、観音菩薩が降り立つ霊場、補陀落山(ふだらくさん)を語源とする、という説があるようです。
なるほど、宗教のことについては分かりませんが、そのように言われると、何故か納得をしてしまいます。
※二荒山神社の本殿。
憾満ケ淵(かんまんがふち)
芭蕉と曾良は、日光への参詣後、ここからおよそ2.5キロ山中の、裏見の滝を訪れます。
「廿余丁山を登って滝有。‥‥岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝へ侍る也。」
暫時(しばらく)は 滝に籠るや 夏の初(げのはじめ)
私たちは、山中まで歩く気力はありません。『おくのほそ道』の情景を思い浮かべて、憾満ケ淵に向かいます。
※大谷川に架かる橋。憾満ケ淵の近く。
『おくのほそ道』の本文には、二荒山の参拝後、裏見の滝の訪問だけが綴られているのですが、曾良が記した『曾良旅日記』には、「ガンマンガ淵見巡」と書きとめられていて、憾満ケ淵にも立ち寄っていたことが分かります。
憾満ケ淵は、日光を案内するサイトでは、
「男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝と大谷川の清流が織りなす自然美。川岸に巨岩があり、岩上に晃海僧正(こうかいそうじょう)によって造立された不動明王の石像が安置されていましたが、その不動明王の真言の最後の句から「かんまん」の名がついたといわれています。」
とのこと。
私たちは、憾満ケ淵の少し上流、かつて、大日堂が建っていた、菩提ケ原を訪れて、芭蕉と曾良の足跡を探します。
※かつて大日堂があった菩提ケ原。
芭蕉の句碑
大日堂跡の一段上には、幾つかの石碑が見えました。近づくと、そのひとつが、芭蕉の句碑。
あらたふと 青葉若葉の日の光里
と書かれています。この場所に、古くからこの句碑があったとのことですが、明治期の大洪水で流失し、その後、再建されたということです。
※大日堂跡近くの芭蕉句碑。
旅の終わり
芭蕉と曾良は、この後、鉢石(日光の門前町であるとともに、日光道中最後の宿場町)から脇道を抜け、奥州道中大田原へと向かいます。この大田原、後に、奥州道中を綴る予定のブログの中で、必ず登場するでしょう。
とりあえず、今のシリーズ、「歩き旅のスケッチ[日光道中]」は、ここで幕を降ろします。
次回からの10回は、「巡り旅のスケッチ[西国三十三所]」に戻ります。以前綴った第一章は、熊野の地、那智山青岸渡寺から始まって、奈良三輪山の奥にある長谷寺までの巡拝を、綴り描いたものでした。そして、次回からの第二章は、奈良公園の興福寺から、宇治、伏見を経て近江へと向かう巡拝の旅を描きます。
と、いうことで、準備を含め、私自身の所用のために、次回ブログは、9月29日から再出発を致します。勝手ながら、しばらくの間休憩させて頂きます。