旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[甲州道中]53・・・府中宿へ

 府中

 

 前回も触れた通り、府中の街は、かつて、武蔵の国の国府が置かれていたところです。この、府中の北は国分寺。また、府中市の近くには、一の宮と呼ばれるところもあるようです。この辺り、古い時代の地方の国の中心地。そのことを象徴する、建物などの名残の地名が、今も引き継がれているのです。

 奈良時代から中世に至るまでは、今の東京都心は、海に近い湿地帯か、荒れ地だったのだと思います。その頃は、自然災害から守られた、安定した地形のところが、その地方の中心地として、相応しかったのだと思います。

 そういえば、奈良という土地自体も、自然の要塞に囲まれた、安定した土地のようにも思えます。交通の利便性と、都市を築く広い平地が、現代の中心地であることと比べれば、大きな思考の隔たりがあるようです。

 武蔵の国の中心地を目前に、往時の様子を思い描いて歩きます。

 

 

 国立から府中へ

 街道は、国立市の谷保(やほ)の地域を東進します。相変わらず、交通量は頻繁で、主要道路の様相です。先に見える標識は、左方向の矢印に、”国立市市街地”の表示です。JR中央本線国立駅も、その方向にあるようです。

 

※谷保地域を通る街道。

 

 谷保天満宮

 やがて、少し坂道があり、その先に、谷保天満宮前の交差点。どことなく、賑わいがあるT字路の交差点の右手には、谷保天満宮(やぼてんまんぐう。この場合は、”やほ”ではなく”やぼ”と発音するようです。)の境内が広がります。

 私たちは、立派な鳥居と石柱に誘われて、境内へと向かいます。

 

谷保天満宮の鳥居と石柱。


 天満宮の本殿は、鳥居を抜けて真っ直ぐ進み、石段を下った右側です。本殿は、一般に、一段高いところにあるはずですが、ここは様子が異なります。

 参拝後、街道に戻る途中で目に付いた説明板には、その辺りの事情について、次のように記しています。

 

 「甲州街道は十七世紀のある時期まで、谷保のあたりでは立川段丘の下を通っていましたので、天満宮の本殿・拝殿は街道に面し南向きに建てられています。甲州街道が段丘上を通るようになると、人の流れも変わり、参道は駅や甲州街道側からこの鎮守の森を抜け、本殿に向かうようになりました。」

 

 なるほど、そういうことだったのかと納得し、街道に戻った私たち。府中の宿場は、もう間もなくのところです。

 

谷保天満宮の拝殿。

 

 街道は、引き続き、谷保の街を進みます。この辺り、少しだけ位置関係を紹介すると、先ほどの、谷保天満宮前交差点を北に向かったところには、JR南武線谷保駅があるようです。

 この南武線、立川と川崎を多摩川伝いに結んでいます。沿線の主要駅では、東西をつないでいる幾つかの路線が交錯し、それぞれが、賑わいの街をつくっています。

 

※谷保の街を進む街道。

 

 府中市

 谷保の街を進んだところで、右方向から、国道20号線が県道に接続します。そして、この先、道は、県道から国道へと変わります。

 街道は、その先で、府中市に入ります。西府と呼ばれる、府中市の西部の街は、車両の数も随分増して、一段と、賑やかさが加わっていく様相です。

 

府中市に入った街道。

 

 本宿(ほんしゅく)

 しばらくすると、西府町二丁目交差点。この辺り、甲州道中が整備される以前には、宿場が置かれていたということです。

 

※西府町二丁目交差点。

 

 交差点を越えたところの片隅には、「本宿」と記された、石造りの説明書きがありました。

 

 「本宿は、現在の西府町二丁目・本宿町二丁目・美好町三丁目のそれぞれ一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。」

 「地名の起こりは、甲州古街道がハケ*1下を通っていた頃に、この集落が宿場であったことによります。」

 

 古い時代の宿場町とは、どのようなものだったのか。全く、想像もできません。また、河岸段丘の状態も、街道を歩くだけでは、良く分からないのが実情です。時折、高低を繰り返す道筋だけが、それらしい地形の名残りだと、今になって改めて、思い知らされたものでした。

 辺りの景色は大きく変わり、今は、車が往き交う国道筋の街並みです。いよいよ、江戸期の宿場町、府中宿へと迫ります。

 

甲州古街道の宿場の地を示す説明書。

 本宿町

 街道は、その先で、本宿町に入ります。国道が、左に大きく迂回する中、街道は、直進です。

 

※国道が左にそれて、街道は直進です。

 

 この先の道幅は、少し狭まった状態で、京王線の踏切を迎えます。途中には、移設された本陣の、歌舞伎門も見受けられ、府中の宿場に到着した感じです。

 街並みは、整然とした状態で、マンションや飲食店が目立ちます。

 

※整然とした旧道。この辺りから府中宿だったのでしょうか。

 分倍河原

 京王線の踏切から右手を見ると、そこには、京王線南武線分倍河原駅(ぶんばいがわらえき)がありました。

 京王線は、次の駅が府中駅。反対の西方向は、多摩市へとつながります。一方で、南武線の次の駅は、府中本町駅という具合。府中の街は、幾つもの、鉄道路線が交錯をしています。

 京王線の踏切を越えた先は、さらに道幅は狭まります。道沿いには、アパートなどが建ち並び、街中の住宅地の雰囲気です。

 

京王線の踏切を越えて東に向かう街道。

 街道は、この先で、かつての府中宿の中心地を迎えます。

 

*1:wikipediaによると、ハケとは、「崖地形、丘陵、山地の片岸を指す日本の地形名。」とのこと。先の谷保天満宮のところで紹介した、河岸段丘の下を意味する言葉だと思います。