旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[甲州道中]55・・・布田五カ宿へ

 調布市

 

 府中市の東隣は調布市です。そして、その先はもう、世田谷区に入ります。都心に迫る調布の街には、かつては、小さな宿場町が点在し、総称して、布田(ふだ)五カ宿と呼ばれています。

 江戸時代のこの辺りの状況は、農地や荒れ地、雑木林などが広がって、そこを通る街道の沿線に、集落がポツポツと散らばっていたのかも知れません。この中には、新撰組のリーダーだった、近藤勇の出身地もありました。

 先の宿場の日野宿の、土方歳三と同様に、この道中の宿場町から、幕末の時代を駆けた浪士たちが誕生したのは、偶然のことだったのか。それとも、地理的な背景があったのか。徳川家の、危機対応の道でもあった甲州道中の沿線は、佐幕(さばく)思想の浸透が、根強く行き渡っていたのかも知れません。

 

 

 新宿

 府中の街を東に進むと、やがて、八幡宿の交差点。この辺りから、府中市の八幡町になるようです。

 前回に紹介した資料には、触れられてはいませんが、位置関係を確認すると、おそらく、この八幡宿こそ、”新宿”と呼ばれている宿場町なのだと思います。

 辺りは、次第に大きなビルは減少し、低層のアパートなどが目立つ街並みに変わります。

 

※八幡宿交差点付近の様子。

 八幡宮

 しばらくすると、右手には、「武蔵國府八幡宮」と刻まれた、由緒ありそうな石標と、常夜灯などが置かれています。この右奥が八幡宮。この辺りの地名の八幡は、この神社に由来するのでしょう。

 同様に、八幡宿の名称も、ここから来ているのだと思います。府中宿を構成する宿場の中で、最も新しいこの宿場。愛称として、”新宿”と呼ばれるようになったのです。

 

八幡宮前。

 

 東府中駅

 八幡を後にして、府中の街を東に進むと、やがて、京王線の踏切です。この踏切の少し先には、東府中の駅があり、辺りは、少し賑やかに感じます。

 

京王線の踏切。右端に写っている路線は京王競馬場線東京競馬場と結ばれています)。

 

 染屋不動尊

 東府中の駅前を通りすぎた街道は、少し静かな住宅地へと進みます。幾つかの信号を渡った先が、不動尊前交差点。その直前には、染屋不動尊と刻まれた、立派な石標がありました。

 奥に見える小さなお堂は、由緒がありそうな建物です。かつて、街道を往き来した旅人たちは、お堂前で手を合わせ、旅の安全を祈っていたのかも知れません。

 

※染屋不動尊辺り。

 

 調布へ

 不動尊から少し進むと、再び踏切が近づきます。今度は、西部多摩川線の軌道です。府中には、このように、実に多くの鉄道が敷かれています。

 

※西部多摩川線の踏切を渡る街道。

 

 踏切を越えた後、住宅が軒を連ねる道筋を進んでいくと、道端に「下染屋」(しもぞめや)と記された、石造りの案内板がありました。

 先の染屋不動尊にも、”染屋”の名前があるように、白糸台と呼ばれるこの辺り、かつては、染屋と呼ばれる地域だった様子です。

 

※下染屋の地名の由来などが記された案内板。

 

 落ち着いた雰囲気の街中を進んでいくと、やがて、調布市を示す標識です。街道は、府中を離れ、調布の街に入ります。

 調布市の最初の街は、飛田給(とびたきゅう)と呼ばれています。少し変わった名称ですが、由緒ある土地のよう。街道のすぐ右奥を東に向かう京王線飛田給と名付けられた駅もあり、この辺りでは、名の通った街なのだと思います。

 

調布市に入る街道。

 上石原宿

 落ち着いた道筋を辿って行くと、右側に、「飛田給薬師堂」と刻まれた石柱と小さなお堂がありました。街中の小公園とも思えるような境内は、近所の方の憩いの場所なのかも知れません。

 すぐ傍に掲げられた、道路標識を見てみると、この先の左には、サッカーなどで有名な「味の素スタジアム」があるようです。ここからしばらく、街道の沿線からも、チラホラと、その姿を見ることができました。

 

飛田給薬師堂前。

 

 街道をしばらく進むと、今度は、上石原の街に入ります。ここには、かつての布田五ケ宿の最初の宿場、上石原宿がありました。

 今は、宿場町の面影は全く残っていませんが、通りには、「近藤勇 生誕の地」と記された幟旗が掲げられ、その光景は勇壮です。

 

※上石原宿の様子。

 街道をさらに進むと、左手には、立派な塀が配されたお屋敷です。植栽も見事に手入れされ、由緒ある旧家のように感じます。

 道沿いはお店などが目立ち始めて、正面には、中央高速自動車道路の高架橋。高架を潜り少し進んだすぐ右側が、京王線西調布駅になるようです。

 

※立派な黒板塀を配したお屋敷。正面高架橋は中央自動車道路。

 近藤勇

 高架橋を通り過ぎると、右手には、「新選組局長 近藤勇の座像」と書かれた標柱と、西光寺の石柱がありました。この西光寺、新選組の局長として名を馳せた近藤勇が、故郷に錦を飾ったところとか。

 ただ、その後、甲州に向かった一行は、途中、新政府軍と戦って敗走し、近藤自身も囚われの身となってしまうのです。

 

 下の写真の右端に、わずかに写っているのが、近藤勇の座像です。幕末の嵐を物ともせずに、一時代を駆け抜けたその胆力は、どのように培われることになったのか。

 私には、想像もできない信念が、その人の心中に宿っていたのでしょう。

 

近藤勇が故郷に錦を飾った西光寺。

 

 街道は、この先、布田五カ宿の第2の宿場、下石原へと向かいます。