旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[甲州道中]7・・・金沢宿から富士見町へ

 富士見町

 

 茅野市の南、金沢の宿場町を離れると、街道は、富士見町へと向かいます。この町は、その名の通り、富士山が見える町。街道からでも、富士の姿が見えるのか、期待が膨らむ道中です。

 これまで、わずかな起伏を繰り返してきた街道は、ここから先、長く続く緩やかな上り坂に入ります。

 丘陵地とも思えるような地形のところは、急峻な山脈に挟まれた、隙間にできた通り道。穏やかな空気に包まれて、快適な街道歩きを続けます。

 

 

 金沢宿

 宮川に架けられた国道の橋を越えた後、街道は、左方向の迂回道に入ります。わずか、数十メートルのこの道は、どことなく、宿場町の面影が残っています。

 

※国道を迂回道している街道ルート。

 

 国道に戻った街道は、車が多く、歩きにくい道筋です。歩道は、気持ち程度の広さしかなく、注意して歩かなければなりません。

 それでも、ところどころに、旅籠の名残らしい建物も。ただ、車に隠れて、上手く写真が撮れません。

 

※金沢の宿場町。

 

 国道が通過する金沢の宿場町は、全体として、往時の面影はありません。それでも、今に残る、歴史ある建物は、不思議な魅力を放っています。今でこそ、わずかに残る歴史的な建造物。このような建物が、軒を連ねて残っていれば、さぞかし、甲州道中の宿場町の実態を、後に伝える重要な遺産になったと思います。

 

※旅籠跡らしい建造物。

 中馬宿馬宿

 歴史を感じる建物のひとつが、中馬宿馬宿(ちゅうまじゅく うまやど)です。この建物は、既に昔のままではないようですが、それなりの趣も残しています。

 建物前の説明板には、次のように書かれています。

 

 「宿場の任務は三つあり、公用荷物優先運搬の人馬の継立て、旅人の休泊、通信業務でいした。幕府は、この業務のために人足と馬と馬子を常備させ、問屋が取り仕切っていました。江戸中期以降商業が盛んになり、荷物の動きが多くなると、問屋経由の運送では間に合わなくなり、私設の中馬荷物問屋(中馬宿)が発達しました。」

 「この馬宿は、江戸時代から明治38年まで小林家が150年間中馬宿を経営しておりました。現在の建物は明治13年に上隣の家を買い敷地が増えた所へ以前の倍近い馬宿を建て、表に馬車が駐車できる場所にして、二階を出梁造りとしました。今でもその面影を残しており、庭先に馬つなぎ石が一基あります。当時は、24頭の馬と馬方を泊めることが出来ました。」

 

※中馬宿馬宿の跡。

 

 本陣跡

 街道が、緩やかな上り坂となったところで、金沢の交差点を迎えます。この交差点の右隅は空き地状態になっていて、よく見ると、そこには、「金沢宿本陣跡」と表示された案内板がありました。

 この辺りに屋敷を構えた本陣は、小松家がその役目を果たしていたということです。ところが、1678年の出来事でした。民のために奔走していた、四代目の当主の方が、伝馬の業務を怠ったとの罪を着せられ、はりつけの刑に処せられたというのです。その後は、白川家が跡を継ぎ、明治に至ったと書かれています。

 また、説明板には、次の記述もありました。

 

 「金沢宿を利用した大名は、高島藩・飯田藩・高遠藩の三藩であったが、江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道中山道を通らず甲州海道を通行し金沢宿に泊っている。」

 

 元は、余り利用されることがなかったこの街道。江戸期前半の幕府にとっては、特別な道だったのだと思います。江戸に危機が迫った時は、重鎮は、江戸から甲府、そして、富士川を一気に下り、駿府へと向かうことが想定されていたのです。

 説明板に書かれた事実は、まさに、幕府の避難道の位置づけが、甲州道中に与えられていた証のような気がします。

 

※左、金沢交差点。右、本陣跡。

 旧道の上り坂

 金沢の交差点を過ぎた後、しばらくは、金沢の集落を歩きます。その後、民家が途切れたすぐ先で、街道は、斜め右方向の旧道へ。ここで、一旦、国道に別れを告げて、坂道の集落に入ります。

 

※国道から旧道に入ります。

 

 この先の坂道は、延々と続くのですが、これまでも触れたとおり、それほどの急坂ではありません。のどかに続く、丘陵地に似た地形の中を、周囲の景色を味わいながら、ゆっくりと進みます。

 

 

 

 セイコーエプソン

 やがて、視野の先には、マンション風の建物が。そして、その隣には、立派なグランドの敷地が続きます。

 ここは、セイコーエプソンの施設の様子。寮なのか、保養の施設なのかは分かりませんが、信州の企業の勢いが、感じられるような施設です。

 

セイコーエプソンの運動場横を通る街道。

 

 青柳ゆるぎ石

 道は、依然として、緩やかな上り坂。左下には、宮川の流れとともに、わずかな谷間を利用した、農地なども見られます。

 やがて、街道から左にそれる下り道が現れます。この道は、国道20号線へと向かう道。その下り口辺りには、「青柳ゆるぎ石」と表示された案内板がありました。

 

※街道は右方向の上り坂。この道は、国道に下りる道。

 

 ゆるぎ石は、下の写真の看板下に置かれた石で、しめ縄が巻かれているのが分かります。

 説明では、向かい側のJR中央本線を越えた先にも同様の石があり、共に夫婦石と呼ばれているということです。この2つの石は、毎日、米一粒ずつ歩み寄っている、との言い伝えがあると書かれています。

 その昔、街道を往き来した旅人は、この石を見て、金沢の宿場との位置関係を、確認していたことでしょう。

 

※ゆるぎ石。下には国道20号線も見えます。

 富士見町

 街道は、ゆるぎ石から左に下る、国道への道を進まずに、右側を真っ直ぐ延びる、緩やかな坂道の方向へ。そして、この先で茅野市を離れ、富士見町に入ります。道は、幾分、緩やかになったでしょうか。道沿いには、民家はもうまばらです。

 ここから先、しばらくは、丘陵地の林のような道筋を進みます。

 

※富士見町に入った街道。